阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

月: 2018年7月 Page 3 of 4

肉食の文化

注)下部に羊の丸焼きの写真があります。ご注意ください。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしている時に、「羊の丸焼き」と言う料理に遭遇しました。今回は、日本の食肉文化と、私が遭遇した海外の「肉食文化」について少しお話します。

縄文時代は狩猟文化で肉が主食と思われがちですが、主食はドングリで、肉は副食の一部だったと推測されています。縄文時代は、温暖化が進み海面の上昇(縄文海進)により陸の食料だけでなく、漁・貝・藻の採集も行われ、豊かな食生活が営まれていました。本州中部以北の日本列島東部には、ナラ、クルミ、クリ、トチなどの温帯的な落葉広葉樹林が、東海から九州に至る列島西部には、カシ、シイなどの暖帯的な照葉樹林が分布していましたが、列島東部の落葉広葉樹林のほうが狩猟動物、木の実は豊富で、魚漁も発達し、人口も列島西部と比べて圧倒的に多かったと言われています。数千年続いた縄文時代末期に、列島西部では、雑穀(アワ、ヒエ、モロコシ、ソバ)を主要作物とする農業が行われる様に成りましたが、列島東部を含めて広く肉食は続いていました。

仏教伝播以降の天武4年(675年)天武天皇によって「殺生禁断令」が出され、「牛、馬、犬、鶏、猿」の肉を食べる事が禁じられましたが、猪、熊、雉などは含まれていませんし、禁止期間は毎年4月から9月までの農耕期間に期間が限られていました。また、701年(大宝元年8月3日)の大宝律令には「死亡牛馬処理」に関する項があり、「官有牛馬が乗用あるいは使役中に死亡または病死した場合は、皮及び肉はその役所で売却して公の費用に充てよ」の旨が書かれていました。

『庭訓往来(ていきんおうらい)』(南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる往復書簡集で、江戸時代でも寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書)の5月返状に「豕焼皮(いのこやきがわ)」という脂肪がのったイノシシの皮を焼いた料理の名前や料理材料として干鳥、干兎、干鹿などの名前が出ています。

天明(1781年~1788年)から嘉永(1848年~1854年)にかけて、彦根城主から将軍へ、寒中見舞として牛肉の味噌漬が樽で献上されていたとの記録が残され、享保3(1718)年には江戸両国に「豊田屋」、通称「ももんじ屋」という獣肉専門店が開店しています。

しかし、仏教の影響で、獣肉食、獣肉が「穢れ」とされ、屠殺人・獣肉解体人・死体処理人・皮製造職人などを穢多・非人として穢れ、差別対象としてきた事も事実です。しかし、猪肉を.牡丹・.山鯨、馬肉を桜、鹿肉を紅葉、鶏肉をかしわ、と隠語で呼び「薬喰い」と称して一般の人も食していたと言うのも事実です。

『しづしづと 五徳(ごとく)据えたり 薬喰(くすりぐい)』  与謝蕪村
このタテマエとホンネの違いは、明治5(1872)年1月に明治天皇が公に牛肉を試食した時を境に無くなり、肉食を誰に憚ることなく出来るようになりましたが、今でも隠語は生きているようです。

肉の食べ方は色々ありますが、その中で「丸焼き」と言う豪快な料理方法があります。この「丸焼き」と言う肉の食べ方は何時頃からの物でしょうか?少なくとも火は、炎を上げる火ではなく、炭火或いは輻射熱が豊富に使えなければ、この「丸焼き」と言う料理方法はありません。この観点から日常にこの料理方法が使われたのは人間が豊かになってからのことでしょう。ヨーロッパの様々な宮廷料理の記述の中にも牛、豚、鹿、七面鳥などの丸焼きは記載されており、客の好む料理でしたが、やはり火を贅沢に使った料理として、余り通常は食べられない料理としてもてはやされたようです。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をした際に、建設業者からプロジェクトの打ち上げパーティーに招待されました。建設業者の経営陣、技術者、その家族など合わせて60人位が参加した大きなパーティーでしたが、始まった時間は午前中、終わったのは夜中で、延々12時間に亘るパーティーですが、ずっと飲み続けているわけではなくサッカー、バレーや水泳をしながら、時々ドンッと据えられている生ビールを飲んだり、昼寝したりしながら時間を過ごします。その時に「ヒツジの丸焼き」に初めて遭遇しました。

まず、羊の皮を剥ぎ、内臓を抜き、丸焼き用のシャフトを通します。その後で皮の内側の脂身のネットで包みます。

皮を剥いだ羊

脂身のネットを被せる

丸焼き用の炉は単に屋根がある大きな暖炉のような構造ですが、薪が燃える熱で後ろのレンガ壁を熱し、炎とそのレンガ壁の輻射熱でじっくり焼き上げる構造に成っています。

丸焼きの炉

輻射熱でじっくりと焼く

ほぼ焼きあがる状態まで、6時間ぐらい掛っています。

ほぼ焼き上がった

「ヒツジの丸焼き」が焼きあがり、皆がそろっている食卓に行くと、どん!と目の前に丸焼き羊の頭が熟したトマトを口に頬張って置かれていました。

主賓の前に出された料理

確かに「ヒツジの丸焼き」は食べると実に美味しいのですが、目の前でトマトを頬張った目で見つめられると食べた気がせず、早々に移動してもらいましたが、我々日本人の感覚からは遠い食べ物と感じました。

 

蒸留酒ラキヤ

今回はお酒について書きましょう。『酒なんて書くものじゃないの!酒は呑むもの!書いた物読んで肴に成るか?』と既に酔ったご仁に言われるかもしれません。このご意見に私も全く賛同。ただ、HP管理者が原稿出せ、原稿出せとせっつくものですから、仕方なく呑んでいる酒を中断して・・・・。

さて、「酒は全て醸造酒です」と書くと、「お前、酔っ払っているな。酒は醸造酒もあり、蒸留酒もある、これが常識だろう。」と言われるかもしれませんが、これは本当です。

特にことさら書く事ではありませんが、醸造法にはワインのように果汁に酵母を添加して発酵・熟成させる直接醸造法と、清酒やビールのように原料となる穀物原料の米や麦芽を一度糖化させてから発酵させる糖化醸造法があります。これらのエチルアルコールを含む飲料を作る過程を醸造と言うので、全ての酒は醸造酒だと言えます。

酒の原料は多種多様ですが、糖分、もしくは糖分に転化されうるデンプンを含む物は、果物、穀物、樹木の枝葉、樹皮を含め全て酒の原料に成ります。

話が飛びますが、アラビア半島のサウジアラビア国の南西にイエメンと言う国があります。遥か昔ですが、美人で有名なシバの女王の国(紀元前10世紀頃)があった所です。今でもその頃作られたと言うダムの一部が残っており現在は、その内側にアメリカからの援助で作られたダムが満々と水を湛えています。又、イエメンはアラブ人、ヘブライ人やフェニキア人などのセム族の故郷でもあります。
イスラム教の国ですから勿論、酒は禁じられていますがその代わりに「カート」と呼ばれる葉を噛む習慣があります。この木は、東アフリカとアラビア半島の熱帯に自生するお茶の木に似たような葉をもつニシキギ科の常緑樹の一種で、葉が付いている小枝を束ねて売っています。一説では、これは非常に原始的な酒だと言われています。

若葉を選び、そのまま口の中で噛んで大きな飴玉を口に含んだように口の中で丸め、葉っぱから出てくるエキスを飲みます。このエキスには、軽い興奮作用を起こす成分(覚醒作用をもたらすアルカロイドの一種カチノン)が含まれており、イエメン以外のアラブ諸国ではカートは麻薬の一種として禁止されています。口の中の適切な温度で長時間噛まれる事で、エキスが口の中で発酵し弱いアルコールに転化し、覚醒成分と混ざり酒の代わりとなっていると言われています。ソマリアでもカートは流通しており、ソマリア沖の海賊の身代金の一部がカートで支払われたこともあるそうです。(イエメンで仕事をした時に、私も噛んでみましたが、青臭いだけで美味くもなんともなく勿論、酔う事もありませんでしたが、酒やコーヒーなど刺激物を飲んでいると酔わないそうです。)

南米・アジア・アフリカのごく一部では、各種穀物を口に入れ噛み砕いた後、瓶や甕に吐き出し発酵を待つという、低アルコールながら原始的な「口噛み酒」と言う酒造法が有史以前から現在まで行われているそうです。古代日本でも巫女がその役を務め「醸す」の語源となっていると言う説があるそうです。

さて、醸造で出来た「アルコール」を含んだ水を一度蒸発させ、後で冷やして凝縮させ、沸点の異なる成分「アルコール」を水から分離する作業が蒸留です。水の沸点は100℃、アルコールの沸点は約78℃ですので醸造した液体を、100℃以下78℃以上に沸かすとアルコールだけが蒸発し、その蒸気を冷やすと蒸留酒が出来あがります。ウイスキーとウォッカは穀物の醸造酒を蒸留したもの、ブランデーはワインを蒸留したものですし、焼酎はご存じのように米、芋、麦など様々な物の醸造酒を蒸留したものです。

この蒸留という過程が実に簡潔明瞭に判る単純な装置で出来た、実に美味い蒸留酒ラキヤをボスニア・ヘルツェゴビナで呑みました。

ラキヤの蒸留装置1

 

ラキヤの蒸留装置2

ボスニア・ヘルツェゴビナの家庭の庭には、洋ナシ、オレンジ、ブドウ、リンゴなど様々な果物の木が植わっています。この果物を秋に収穫し、潰して冬まで樽で貯蔵します。潰すと言っても殆どが足で踏みつけていました。この踏みつけた物をただ貯蔵するだけで何もしません。貯蔵している間に、樽やその家の食料庫に住み付いている酵母菌がじっくりと発酵作業をしてアルコールを作って行きます。ボスニア・ヘルツェゴビナの冬は寒いのでそれほど腐造や変調は起きないのでしょう。

車で引いてきた蒸留装置を家の前に据え、手前の釜(上の写真のまきが燃えている炉の上の小さな容器)に貯蔵していた液体を入れ下から薪を焚いて沸かします。アルコールの蒸気は斜めの管を通って後ろの凝縮釜(写真の青い色のタンク)に行き冷やされて、蒸留酒となって出てきます。この作業は装置を所有している専門業者が行うそうですが、その対価は出てきた蒸留酒の1割と言う事で決まっているそうです。冬の2月から3月頃に各家を廻り蒸留酒作りを請け負って移動していきますが、据え付けから蒸留完了までは量にもよりますが数時間で済みますので、この1割と言うのもそれほど少ない対価ではないのでしょう。沸かす為に使う薪と凝縮に使う水は、各家庭持ちです。

同じ果物を使った蒸留酒でも、味も香りも様々です。各家に住みついた酵母菌は同じではありませんので出来あがった蒸留酒も違った味と香りになります。

酵母菌もそれほど管理されたものではなく働く力も弱いので、一度の蒸留ではそれほどアルコール度の強い酒はできませんが、蒸留した酒を再度、釜に入れ沸騰させると言う事を繰り返すとアルコール度が徐々に高まり90度位のものすごい酒が出来ます。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしていた時、国中を廻りその土地、土地で色々な自家製ラキヤを楽しみました。なんと、素晴らしき時を過ごした事か。

あな醜(みにく)、賢(さか)しらをすと、酒飲まぬ、人をよく見ば、猿(さる)にかも似む
万葉集:大伴旅人(おおとものたびと)
(ああ醜い。賢そうにして酒を飲まない人を、よくよくみたら、猿(さる)に似ているようだ。)

(大伴旅人は「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おおともきょう)」と言われ、出世街道なれの果ての大宰府長官の時に、酒で憂さを晴らしていた時の歌なのでしょう。)

日本の血についての考え方の変化

この稿は、前稿「日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方」の続きとして書きました。

さて、日本でも古くは生贄の儀式があり、今に残る巨石の中には生贄の血を流したという説がある溝が残るものもあります。『日本書紀』には、642年に牛馬を生贄にしたと言う記録があり、実際に生贄の牛の頭骨が出土しています。又、日本神話では、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄として女神である奇稲田姫(クシナダヒメ)が奉げられようとした時、素戔男尊(スサノオノミコト)がオロチを退治し、奇稲田姫と結ばれると言う話がありますが、これは生贄の行事を廃止させたことを神話化したとも言われています。

生贄の儀式に使われたという説もある石

『古事記』の中で宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚した日本武尊(ヤマトタケル)が、宴席でミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついてるのに気づいて、「襲(おすひ)に裾に 月立ちにけり」と月経を新月になぞらえた歌をよみ、それに対してミヤズヒメは「あなたを待ちくたびれて月も上ってしまった」といった意味の歌をさらりとよみ返しています。さらにこのあと二人は褥を共にもしています。(襲(おすひ)は、頭から被って衣類の上を覆うもの。)

おすひを着た巫女の埴輪

日本の古い時代では、「血」その物が不浄と言う考えはありませんでした。民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、一時的な穢れに過ぎず、その時々にお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできました。しかし、女性を不浄のものと見なす考え方を仏教が持ち込み、その経典では「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(『仏本行集経』「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(『相応部経典』)など、血と母性を穢れとし、仏教は女性の本性を救済しがたい不浄、穢れと見る存在に変質させてしまいました。

死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々はヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入しました。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がって行きました。

この様に日本では、仏教伝来により「血」に対する考え方は変化して行きましたが、世界の国々でも、その国の神話や宗教などによりそれぞれ違った考え方をしており、他の国を理解しようとする際には、一つの基準では計れない多様性に対する理解が必要だと感じています。

日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方

タブー(Taboo)と言う言葉があります。「社会生活の中で何をしてはならない」と言う行動を規制する規範を表しますが、元々はポリネシア語のTabuが語源で、ジェームス・クックが、その旅行記でポリネシアの風習を紹介する際に使い広まった言葉で、日本では「禁忌(きんき)」と訳されています。

この禁忌の中に「血」と言う物もあげられます。しかし、この「血」は時には死との繋がりから「穢れ(けがれ)」として忌避され、時には「血の繋がり」や「子孫繁栄・生命力」など生命を象徴し、日本語としても単に「禁忌」の意味だけではなく反対の「好ましい物・清浄」と言う意味も持ち両義性があります。世界の国々でも「血」についての考え方は様々です。

最後の晩餐

キリスト教では、イエスの最後の晩餐での「パンとワイン」を「肉と血」になぞらえていて、我々日本人とは違った思いを「血」について持っています。

パンとワイン・肉と血

今から20年以上前、私がエジプトに住んでいた際、借りていたアパートの部屋の模様替えの為に大きな本棚を動かした時、丁度本棚のうしろの壁に茶色の手の痕が無数についていました。会社のスタッフに聞くと、オーナーがその部屋が災難にも会わず使い続けられるようにと、生贄の血を壁につけたものとの事。「生贄の血と言うのは何なんだ?」と聞くと、通常は羊か牛との事でしたが、何か気味が悪く、模様替えは中止。

いすゞ自動車とGMとのエジプト合弁会社の工場が完成し、1号車がラインから出てきた際に、その車体全体も真っ赤な手形で覆われていました。これも生贄の牛の血でした。

エジプトの首都カイロは、エジプト4000年の歴史を展示するカイロ博物館でも有名ですが、スエズ運河の開通を祝って1869年にカイロ・オペラハウスが作られた事でも有名です。それ以来、カイロは中近東、アフリカでの音楽文化の中心となりましたが、残念ながら1971年に焼失してしまいました。1988年に日本から開発援助の一環として新しいオペラハウスが贈られました。当時、ヨーロッパ諸国では開発援助でオペラハウスを贈ったと言う事で日本の文化度を高く評価していました。

さて、この日本の文化度の高さを示すオペラハウスの地鎮祭での出来事です。建設事務所の脇の空き地に1頭の大きな牛が連れてこられ、イスラム教の導師がコーランを牛の前で唱え、すぐさま牛の頸動脈が切られると、牛は徐々に前足を折り、跪いて横倒しに成って行きました。廻りは血だらけで、私が見たのはそこまでで、事務所に入ってしまいました。暫くして、秘書の女性が一緒に写真を撮ろうと呼びに来て外に出てみると、事務所の女性達が、血が滴る牛の首の角をむんずと掴み、私と一緒に写真を撮ろうと並んでいました。

日本的な感覚では、見るもおぞましいと言う所ですが、この頃のエジプトでは動物の屠殺を見ると言うのはそれほど稀な事ではありませんでした。ラマダン明けの休暇の前には、家の前の道路で羊を殺して、皮をはぐと言う血だらけの作業が当たり前のように見られました。さすがに今ではあまりにも残酷と言う批判の為か、公衆が見る事が出来る道路では禁止に成りましたが、エジプトの人々にとっては動物の血を見たり、触ったりと言う事は、日本的な穢れ(けがれ)と言う事とは結びつきません。動物を殺し、その捧げられた尊い命の血によって災いから守られると言う感覚です。

エジプトと同じ様に国民の大部分がイスラム教徒であるインドネシアでは、この「血」に対する感覚が全く違います。プロジェクトの開始、完成の時に、牛、鶏、羊などを殺してその成功を祈願したり、祝ったりすることはエジプトと同じですが、その血に触ることは「穢れ」となっており、牛や羊などを殺した際には、その首は土に埋めています。

このように、同じ宗教の国であっても禁忌というものに対する考え方は、全く正反対です。何が禁忌というものの基本的条件となっているのでしょうか。宗教ではなく、色々な要素、歴史が組み合わされてその国々、その民族の一般的な常識のようになるのでしょう。

はるか離れた南の国の日本軍のトーチカ

私は、2009年にインドネシアのシムルー島と言う所で、仕事をいたしました。そこはインド洋に広く津波の被害が及んだ2004年12月26日のスマトラ島沖地震の震源地に一番近い島です。日本から首都のJakartaまで7時間かけて飛び、そこで乗り継いでスマトラ島(日本の面積に2倍くらいの大きな島)の州都Medanに約2時間掛けて飛び、そこからは12人乗りのセスナ機に乗り換えて1時間でやっとシムルー島に着きます。

そこは小さな島ですが、インドネシアで一番早く鉄道と飛行場が出来た島とされています。作ったのは、大東亜戦争当時の日本軍です。今のジェット機の時代でもこれだけかかる遠い島に、昔はどのくらい時間をかけて行ったのでしょうか。鉱山がありその鉱石積み出し用に山からSinabangと言う港まで鉄道が引かれていたそうです。勿論、飛行場は戦略的な意味があったのでしょう。
この島にもトーチカがあります。島の南西海岸に3か所ありました。多分、当時はもっと多かったのでしょう。

シムルー島のトーチカ

全体は5角形に柄が付いているような形で左側の横長の間口が迎撃窓でしょう。

ここでどのような戦闘があったのかは知りませんが、故国から遠く離れた赤道直下で、トーチカの中で敵を迎え撃つ心境はどのようなものだったのでしょう。
鉄道、飛行場、トーチカなど多くの戦闘目的の施設が造られた際、現地の人たちも徴用され働いた事でしょう。
私はこの島に、合計で4カ月程滞在しましたが、日本人のお墓のようなものは見つかりませんでした。せめてこの島では戦闘などなく、死傷した日本兵がいない事を祈ります。遥か昔の日本軍の戦跡があるこの島の、地震被害の救済に日本から出向いていると言う事に何か因縁めいたものを感じます。

 

 

孤立感から生まれたトーチカと言う戦跡(アルバニア国)

「トーチカ」と言う言葉をご存知ですか?もともとは、「ロシア語точка トーチュカ」ですが、主に鉄筋コンクリート製の防御陣地の事です。飛行機からの爆撃や、野砲や戦車による砲弾攻撃にも耐えられるように、分厚いコンクリートで覆われ、歩兵や戦車による攻撃を撃退するため小さな窓があり、色々な兵器で反撃できるようになっています。

一般的な形は、攻撃の弾の力を分散しやすいように半円になっている物が多いのですが、時には一般の民家に似せて屋根をつけ、窓を描いて偽装する事もありました。

バルカン半島の突端のギリシャのすぐ北西にアルバニアという国があります。そこに医療施設の調査に行った時、峠を越えて視界が開け広い農地が見えた時、クラゲのような半円をした物が、畑の中に何列にもわたって見えました。それがトーチカでした。

すぐ向こうがイタリア半島の靴の踵と言うアドリア海の入口に面する風光明美な保養地サランダで快適な時を過ごした後に、この醜悪な人工物に出会った時は、いささかいやな気分になりました。

農地に何列にも連なるトーチカの列
(白い点々がトーチカ)

農地の中のトーチカ
ギリシャ国境から12km位の所

トーチカは、入り口が攻撃されにくい自軍方向についており、敵が攻めてくる方向に攻撃用の窓が付いています。平原に無数に散らばっているこれらのトーチカの防御方向はギリシャ方向でした。

1976年6月の或る朝突然、アルバニア国民に総動員令が発令されました、その頃、まだ女子高校生だった私の仕事相手も、それから何カ月も学校で学ぶ事もなく毎日、トーチカ造りをしたそうです。当時、60万個のトーチカが作られたと言われています。その当時、アルバニアは社会主義をとり、隣国のユーゴスラビアのチトー大統領、ソ連、近隣諸国とも対立し鎖国状態でした。

これらのトーチカは、実際には使われる事はありませんでしたが、世界的な孤立状態から生まれた、脅迫観念に追い立てられて作られた膨大な数の戦跡です。

 

阿寒平太の覗き見散歩・芸能・隅田川(2)

菅原考標(すがわらたかすえ)女(1008~1059年)が綴った『更級日記』の中に、上総介であった父に同行し、上総国から帰郷する際、「まつさとのわたりの津」(現・千葉県松戸市)を通って西に向かったとかかれています。平安から源平時代にかけては世紀以降、最大の温暖期で現・東京湾もかなり内陸まで入込んでおり、この時期の官道は北のほうに移動していたようです。

さて、これまでの色々なお話で昔の隅田川が川岸の風景が目に浮かんできます。それは見渡す限りの葦原です。(目をつぶらないとそんなイメージは浮かんできませんが。)しかし、江戸時代には、浅草近辺は諸国貿易の中心地でしたので両側に倉庫や店がずらりと並んで居ました。江戸時代はこの辺りの隅田川を「おおかわ」と言い、東岸を隅田川堤、西岸を大川端といいました。

それでは阿寒平太の覗き見散歩のルートです。日の出桟橋から乗った水上バスを大川端の浅草で降ります。江戸時代でしたら芝居茶屋や新吉原の茶屋の出迎えを受け、手を添えられて船から下りるのですが、今はそんな悠長なことをしてくれる人もなし、さっさと降りましょう。

降りた所が墨田公園の直ぐ横ですが、この公園の桜も実に見事です。水上バス乗り場の前の墨田公園駐輪場で台東区のレンタサイクル(6時から20時までで身分証明書の提示が必要です。利用料金は200円/日 墨田区道路交通課 自転車対策担当 TEL03-5246-1305)を借りてさて、歴史散歩に出発です。

隅田川堤の長命寺から梅若塚・木母寺を回り、大川端に戻り昔の新吉原を突き切って、鳳神社に寄って、浅草寺にお参りし出発点の墨田公園駐輪場に戻ります。全工程約9kmのサイクリングです。

長命寺には琵琶湖竹生島の弁財天の分身が祭られております。琵琶を持った色っぽい神様で知られる弁財天は、もともとはインドの河(水)の神様でしたが、日本に伝わってからは弁舌や音楽を司る芸能の神様として信仰されています。境内には芭蕉の句碑や十返舎一九の辞世の狂歌碑や色々な歴史的なものがありますが、ここで重要なことは門前の『山本や』の二百数十年の味を伝えている桜餅です。関西の道明寺の桜餅と違って、円形のクレープの様な薄皮で甘さを抑えた餡を包み、それを桜葉で包んであります。此処に寄って桜餅を食べながらお茶を飲む、これは素晴らしいことです。(これは全く余計なことですが昔、向島で芸者遊びのお土産は決まってこの桜餅でした。)

その次が江戸時代から昭和まで長い間続いた新吉原です。日本橋辺りにあった吉原を江戸の町の発展に伴い移した所で、今は千束4丁目ですがその面影を残し、風俗営業の店がずらり。夕方にはとても素通りが難しい所ですが、昼間は全て閉まっています。地図を見ながら周ると良くわかりますが、昔の新吉原を囲っていた鉄漿(おはぐろ)溝(どぶ)が道となってこの地域を四角く囲っています。
此処から鳳神社、浅草寺と回り出発点の水上バス乗り場に戻りますが、桜を見たり途中で桜餅を食べたりで、のんびり時間を過ごし夕方、5時頃に戻る計画で回ってください。

頃も良し、江戸時代での時刻では日没の暮れ六つ。浅草寺周辺にはなかなかおいしい店がそろっています。より取り見取り、それほど老舗が多く迷った末今回は店を選びません。
お腹を楽しませた後、今日の締めくくりは、明治13年(1880年)創業
「神谷バー」(台東区浅草1丁目1番1号TEL (03)3841-5400)です。

ここでかの有名な「デンキブラン」というブランデー・ベースのカクテルが出来たのは明治15年(1882年)、建物は大正10年に建てた物を現在も使用、と言う兎に角、歴史を感じさせる建物。此処の3階の和風レストランで食事と言う案もあるが、やはり食事をした後、ぶらりとバーに入ると言う過程が大切。
まっ、人それぞれでしょうけど。

酔ってふらっとする間もなく、地下鉄・東京メトロの浅草駅。花と歴史と芸能を楽しんだ一日でした。

隅田川の桜

阿寒平太の覗き見散歩・芸能・隅田川(1)

『春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂のしずくも 花と散る 眺めを何に たとうべき。』 この時期に隅田川の花を楽しみながら、日本の芸能に親しむと言うのが今回の「阿寒平太の覗き見散歩」です。

今回の覗き見散歩は、船を使い、貸し自転車を使い、のんびり且つ動きがよい散歩です。隅田川を上りながら川から土手の桜を楽しみ、「隅田川」ゆかりの地を貸し自転車でぶらりと回り、暮れ六つ(6時) 頃、浅草寺周辺に沢山ある老舗の鰻屋或いは牛鍋屋で、空腹を満たし、一日の散歩の締めくくりを東京メトロ・浅草駅のすぐ傍の大衆的なバー「神谷バー」で一杯やって、締めくくると言う散歩です。

出発点はJR浜松町駅南口から徒歩8分の「日の出桟橋」です。時刻は午後2時頃が良いでしょう。隅田川を上って行って、吉原や州崎へ粋な遊びに、或いは猿若町に芝居見物に繰り出す勢いで船に乗り込みます。乗船している時間はわずか40分間。橋の説明や川岸の風景については船の中の放送でも説明されますので、ここでは説明しません。

さて、隅田川と言えば「能」の『隅田川』や歌舞伎の数々の「隅田川物」、舞踊の「隅田川」。この元は墨田区堤通の梅柳山木母寺(ばいりゅうざんもくぼじ)に伝わる「梅若権現御縁起」の梅若伝説です。

『子宝に恵まれなかった京都北白川の吉田少将とその妻は日吉宮に祈願して梅若丸を授かった。5歳の時、父と死別した梅若丸は7歳の時、比叡山月林寺に入り、その英才を賞せられた。しかし、その才を妬まれ、襲われた挙句に人(ひと)商人(あきんど)にかどわかされ、奥州に向かう途中の隅田川のほとりで病に倒れ、梅若丸はわずか12歳で帰らぬ人となった。我が子の行方を捜し求めて狂女になった母が渡し守から、我が子の死を知らされたのは丁度、一周忌のことであった。その夜、母の思いが通じ梅若丸の亡霊が現れる。母は墓の傍に庵を作り暮らしたが結局、浅茅池に身を投じてしまうが、不思議にも亀がその亡骸を背に乗せ浮かび上がってくる。母を妙亀大明神としてまつり、梅若丸は山王権現に生まれ変わった。』

この話を謡曲にしたのが世阿弥の嫡子観世元(かんぜもと)雅(まさ)で、謡曲「隅田川」は妙亀大明神と山王権現の部分を除くとほぼこの梅若伝説の通りです。

この謡曲「隅田川」を下敷きにして、歌舞伎の世界では鶴屋南北(四世)作「隅田川花御所染」(通称、女清玄)、「隅田川」(竹本義太夫正本)、近松門左衛門の「雙生(ふたご)隅田川」、「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」などの「隅田川物」と言われるジャンルが出来ましたし、大正時代に作られた舞踊「隅田川」は登場人物も狂女と船頭の二人で隅田の渡しのシーンが演じられます。
この様に中世から近世まで多くの隅田川物が作られた背景には「狂女物」の世界と「人買い物」の世界と言う、中世の貧困の生活の中で多く語られた現実の二つの世界が「綯交(ないま)ぜ」になっていたからだと言われています。

源義経の一代記「義経記(ぎけいき)」には源頼朝が治承四年(1180年)、平氏打倒の石橋山の合戦に敗れた後に再起し、安房国から鎌倉を目指した際、増水で海のようになった隅田川を前にして5日間も足止めされた話が出ています。その時、江戸(えど)重長(しげなが)が千葉(ちば)常(つね)胤(たね)、葛西(かさい)清(きよ)重(しげ)の助けを借りて海人の釣り船数千艘で浮橋を作り、頼朝を渡しました。場所は東武伊勢崎線の「鐘ヶ淵駅」の南側を東西に走る古代東海道が、今の隅田川にぶつかるあたり一帯といわれています。此処に先に述べた木母寺もあります。

「昔、おとこありけり」で始まる「伊勢物語」の在原業平(ありわらのなりひら)が『名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思う人はありやなしや』と読んだ所も、この古代東海道の隅田川の渡し(朝廷が管理する渡し)でした。古代東海道(官道)はほぼ直線に京の都と地方を結び、この道も此処からまっすぐ葛飾区立石を通り千葉県市川の国府台に延びています。官道には立石、大道という遺称地名が多く残されています。

隅田川の桜

 

塩分摂取量

戦禍がまだ、あちらこちらに見られるボスニア・ヘルツェゴビナの春の4月、雪の消えた山道で、道路を塞ぐ様に羊の群れが道路で何かを舐めていました。羊飼いに聞くと塩を舐めているとの事。彼らは冬の間に融雪用にまいた塩をアスファルトの亀裂から摂取していたのです。戦火のない、のどかな春の一頁でした。

道路の亀裂を舐めている羊の群れ

人間と同じように動物たちも塩を必要とし、その量は一日当たり、ヤギは20g、馬は30~40g、牛は80g、ニワトリが0.8~1gとされています。牧場で飼われているこれらの動物たちは通常、岩塩を与えられています。

一方、野生のライオンや豹の様な肉食動物は、血まみれになって獲物を食べている時、その血に含まれている塩分を同時に摂取しているのです。草食動物は岩塩がある場所を知っていて、そこから塩分を摂取しています。

いちめん雪で覆われた極寒の地の草食動物たちは、露出した岩塩から塩分を採取しますが、食餌と塩分摂取の両立は難しく、トナカイが人間に飼われる様になったのは、人間のオシッコに含まれる塩分を求めて、人間の生活空間に入り込んだのが大きな理由だと言われています。

犬は塩分が不足すると、軽症では次のような行動や症状を見せると、獣医が書いています。『散歩の際、よその犬のオシッコをよく舐める。人の手や足をよく舐める。オシッコの後、陰部を長く舐めている。』『口の中が乾いていて、指で触ってもよだれがつかない、目も乾きがちで、白っぽい粘液状の目やにが見られる。』

重症になると『シュウ酸カルシウム結石が出来やすくなり、オシッコの色が濃い黄色になる。腎臓の数値が上がり始め、手術の麻酔時に不整脈が観察されるようになり、麻酔で死亡するケースもある。軽い下痢・嘔吐でも動けなくなる。』

極限状態になると『意識状態が朦朧とし、飼い主への反応が鈍くなり、運動能力も衰え運動障害や椎間板疾患と誤診される。内臓機能の限界から下痢をおこし、腎機能検査の値が跳ね上がる。』『このような症状に対する処置としては、点滴が行われるが、何杯かの味噌汁が、効果がある。』と書いています。(しかし通常、犬に塩分は禁物と言われており、多少抵抗感もありますが。)

さて、人間にとって塩はなくてはならないものです。胎児を育む女性のおなかの中の羊水は、原始の海の成分や塩分濃度と同じだと言われています。卵子と精子により誕生した新しい生命の最初の1、2カ月は、魚と同じ様にエラ呼吸をしています。胎児は、『地球上に生命が誕生した時から今の人間に至る40億年の過程を、十月十日の短い間にたどって誕生する』と言われています。壮大なロマンですが、その短時間の劇的な変化により、女性は「つわり」で苦しむのだとも言われています。(これを換算するとおなかの中の1秒は、胎児にとって約165年を意味します。女性も赤ちゃんもすごいですね!)

人間の体の中の塩も、動物と同じように血液やその他の体液の中に存在します。体重70kgの男性の場合、約200gの塩が体内に存在しています。塩分は体液の中で浸透圧により老化物を運び、水分量の調整で細胞と体液の間の圧力調整をし、筋肉を動かし、運動機能の素となっています。

ところで塩の摂取量について、日本とアメリカで基準の表示が違っています。塩は「塩化ナトリウムNaCl」を含む物の総称です。アメリカではこの「塩化ナトリウム」の中のナトリウム量(sodium)を摂取量基準に使い、日本では「塩化ナトリウム」(sodium nitrate)の量を摂取量の基準にしています。通常使用する塩には色々な物が含まれていますので、「塩化ナトリウム」量で計るより「ナトリウム量」で計る方が正確なのですが、通常の生活の中では不便です。

塩分・ナトリウム換算式: [ナトリウム(mg)×2.54÷1000=食塩相当量(g)]

この計算式よると、日本高血圧学会のガイドラインの「6g未満」は、アメリカのナトリウム量換算では2,362mgとなります。勿論、これはアメリカの摂取ガイドライン内です。

病気知らずの私は、最近、不覚にも血圧が高いと診断されました。高血圧の原因とされる塩分の摂取量について調べた際に見つけた多少、一般に興味がありそうな事を取り上げて羅列いたしました。調べた中に『塩分は高血圧の原因ではない』と言う学説もありました。もし、これが実証されれば塩辛やラーメンなど心おきなく食べられるのですが。

 

近代戦争・憎しみ・報道・生存

ボスニア・ヘルツェゴビナ国で、通算1年ほど設計と監理の仕事をした事があります。ボスニア・ヘルツェゴビナ国は、昔のユーゴ連邦国の構成国で、チトー大統領が執っていた民族融和政策でムスリム、セルビア人、クロアチア人の異なった3民族、イスラム教、ローマ・カソリック教会及び東方正教会と言う異なった宗教の人たちが、纏まって近隣として生活していました。しかし、彼の死後、3つの宗教、3つの民族が入り乱れ内戦(1992年3月~95年11月)が起きました。

内戦の発端は、首都サラエボでの民族衝突だと言われますが、実際はそれから始まったそれぞれの立場からの宣伝報道が原因と言われています。報道から憎しみが生まれ増幅しある日、隣家からの銃弾で父親が撃たれ、返す弾で隣家の息子が傷つく、そんな隣人同士の争いが大きな内戦に発展しました。私が滞在していた時は、戦後8年も経っていましたが、自分の家が在るにも拘らずまだ、帰る事が出来ない人々が沢山いました。隣人が信用できない為、帰れないのです。

この戦争は、色々な近代兵器が使われましたが、内戦ですから大きな兵力がぶつかり合うと言う事ではなく結局は村、町の取り合い、人と人との殺し合いです。サラエボの日曜日の朝、夫婦で食事をしている時、夫の額に狙撃手の照準の赤い点が付いた途端に夫の頭が吹き飛んだ。北のクロアチア国境近くのブルチコと言う町では、町の中心部で何処からか弾が飛んできて沢山の人が犠牲になりました。最後に給水塔の上にいた狙撃兵が殺され、犠牲者は出なくなりましたが、その狙撃兵はオリンピックで活躍した女性の射撃選手だったそうです。彼女は幾らかの食料と弾で、生還する事のない一人の戦いをしていたのです。

現代の戦争では戦う双方は、それぞれ色々な国際機関を味方につけようと宣伝活動をします。最初から劣勢だったモスレム側は、国連に働きかけました。その際、自分たちの置かれている状況を説明するキャッチフレーズを考えました。最初、考えられたのが南アフリカの白人と非白人の分離を意味する人種隔離政策を意味する「アパルトヘイト(Apartheid)」です。しかし、これでは意味が弱いという事で考えられたのが「民族浄化(Ethnic cleansing)」です。この言葉は国際社会に大きな衝撃を与え、国連が動きました。

事実、それぞれの側がそれに近い事をしました。女学校を占領し、乱暴をするという事も起きました。この戦争以降、ハーグの国際法廷で戦争の際のレイプは戦争犯罪だと規定されました。戦後8年も経っていましたが、多くの男性が内戦で亡くなった為、どの会社に行っても働く主力は女性でした。ボスニア・ヘルツェゴビナ国では生まれる子供の男女の比率で、極端に女の子が多く、ある村では1:8だと報道されていました。戦争で男性が多く亡くなり、生まれる子供を守ろうとする母親の意思がそうするのかもしれません。

戦後8年経っても放置された建物のムクロ1

戦後8年経っても放置された 建物のムクロ2

写真名は両方の写真とも「戦後8年経っても放置された建物のムクロ」です。大きなビルの写真は、炎上している時の映像が世界に配信されました。このビルは現時点では既に新たに外装され使われ始めています。ただ、この短い文章で戦争の悲惨さ、報道と言うものの強さ、怖さを語っておくべきかと考え投稿しました。

 

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