肉食の文化
注)下部に羊の丸焼きの写真があります。ご注意ください。
ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしている時に、「羊の丸焼き」と言う料理に遭遇しました。今回は、日本の食肉文化と、私が遭遇した海外の「肉食文化」について少しお話します。
縄文時代は狩猟文化で肉が主食と思われがちですが、主食はドングリで、肉は副食の一部だったと推測されています。縄文時代は、温暖化が進み海面の上昇(縄文海進)により陸の食料だけでなく、漁・貝・藻の採集も行われ、豊かな食生活が営まれていました。本州中部以北の日本列島東部には、ナラ、クルミ、クリ、トチなどの温帯的な落葉広葉樹林が、東海から九州に至る列島西部には、カシ、シイなどの暖帯的な照葉樹林が分布していましたが、列島東部の落葉広葉樹林のほうが狩猟動物、木の実は豊富で、魚漁も発達し、人口も列島西部と比べて圧倒的に多かったと言われています。数千年続いた縄文時代末期に、列島西部では、雑穀(アワ、ヒエ、モロコシ、ソバ)を主要作物とする農業が行われる様に成りましたが、列島東部を含めて広く肉食は続いていました。
仏教伝播以降の天武4年(675年)天武天皇によって「殺生禁断令」が出され、「牛、馬、犬、鶏、猿」の肉を食べる事が禁じられましたが、猪、熊、雉などは含まれていませんし、禁止期間は毎年4月から9月までの農耕期間に期間が限られていました。また、701年(大宝元年8月3日)の大宝律令には「死亡牛馬処理」に関する項があり、「官有牛馬が乗用あるいは使役中に死亡または病死した場合は、皮及び肉はその役所で売却して公の費用に充てよ」の旨が書かれていました。
『庭訓往来(ていきんおうらい)』(南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる往復書簡集で、江戸時代でも寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書)の5月返状に「豕焼皮(いのこやきがわ)」という脂肪がのったイノシシの皮を焼いた料理の名前や料理材料として干鳥、干兎、干鹿などの名前が出ています。
天明(1781年~1788年)から嘉永(1848年~1854年)にかけて、彦根城主から将軍へ、寒中見舞として牛肉の味噌漬が樽で献上されていたとの記録が残され、享保3(1718)年には江戸両国に「豊田屋」、通称「ももんじ屋」という獣肉専門店が開店しています。
しかし、仏教の影響で、獣肉食、獣肉が「穢れ」とされ、屠殺人・獣肉解体人・死体処理人・皮製造職人などを穢多・非人として穢れ、差別対象としてきた事も事実です。しかし、猪肉を.牡丹・.山鯨、馬肉を桜、鹿肉を紅葉、鶏肉をかしわ、と隠語で呼び「薬喰い」と称して一般の人も食していたと言うのも事実です。
『しづしづと 五徳(ごとく)据えたり 薬喰(くすりぐい)』 与謝蕪村
このタテマエとホンネの違いは、明治5(1872)年1月に明治天皇が公に牛肉を試食した時を境に無くなり、肉食を誰に憚ることなく出来るようになりましたが、今でも隠語は生きているようです。
肉の食べ方は色々ありますが、その中で「丸焼き」と言う豪快な料理方法があります。この「丸焼き」と言う肉の食べ方は何時頃からの物でしょうか?少なくとも火は、炎を上げる火ではなく、炭火或いは輻射熱が豊富に使えなければ、この「丸焼き」と言う料理方法はありません。この観点から日常にこの料理方法が使われたのは人間が豊かになってからのことでしょう。ヨーロッパの様々な宮廷料理の記述の中にも牛、豚、鹿、七面鳥などの丸焼きは記載されており、客の好む料理でしたが、やはり火を贅沢に使った料理として、余り通常は食べられない料理としてもてはやされたようです。
ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をした際に、建設業者からプロジェクトの打ち上げパーティーに招待されました。建設業者の経営陣、技術者、その家族など合わせて60人位が参加した大きなパーティーでしたが、始まった時間は午前中、終わったのは夜中で、延々12時間に亘るパーティーですが、ずっと飲み続けているわけではなくサッカー、バレーや水泳をしながら、時々ドンッと据えられている生ビールを飲んだり、昼寝したりしながら時間を過ごします。その時に「ヒツジの丸焼き」に初めて遭遇しました。
まず、羊の皮を剥ぎ、内臓を抜き、丸焼き用のシャフトを通します。その後で皮の内側の脂身のネットで包みます。
丸焼き用の炉は単に屋根がある大きな暖炉のような構造ですが、薪が燃える熱で後ろのレンガ壁を熱し、炎とそのレンガ壁の輻射熱でじっくり焼き上げる構造に成っています。
ほぼ焼きあがる状態まで、6時間ぐらい掛っています。
「ヒツジの丸焼き」が焼きあがり、皆がそろっている食卓に行くと、どん!と目の前に丸焼き羊の頭が熟したトマトを口に頬張って置かれていました。
確かに「ヒツジの丸焼き」は食べると実に美味しいのですが、目の前でトマトを頬張った目で見つめられると食べた気がせず、早々に移動してもらいましたが、我々日本人の感覚からは遠い食べ物と感じました。