阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 雑感

海外に対するコロナ防疫体制と隔離施設の実体験報告

現在、ワクチン接種が連日ニュースになっていますが今回は、あまり話題にならない海外に対する防疫体制について、私の経験をもとにお話しします。

私は今、バングラデシュで地下鉄の設計のお手伝いをしておりますが、ワクチン接種の為、一時帰国いたしました。現在、日本政府はインド型コロナの蔓延地域からの飛行機の乗り入れを禁じており、東南アジアから直接、日本に入るフライトはありません。

そのため今回の帰国は、バングラデシュから、まず中東のカタールに5時間かけて西に飛び、そこから日本に10時間かけて東に飛ぶという、大回りルートで帰国しました。

成田到着後、4段階の検査があります。まず、出発前48時間以内のPCR検査結果報告書のチェック、その次は健康チェックシートなどの事前に作成した書類審査、次は各人のスマホにダウンロードした4種類の指定アプリを実際に立ち上げるまでのチェック、次に唾液による抗体検査或いはPCR検査が行われます。夜間にもかかわらずそれぞれの検査会場では、30人以上の若い女性たちが生き生きと働いており、コロナが生み出した新しい職場という感じです。さて、この検査で陰性と判定され、それから入国審査、通関で入国となりましたが、ここまで飛行機を降りてから3時間近くかかりました。

国によって隔離期間が決められており、バングラデシュは10日間隔離対象国で、空港からバスで、隔離施設成田東横インに運ばれました。(最近、6日間に変更されました。)

ホテルのロビーで、入所の注意・説明書と体温計が渡されましたが、書類には一切、チェックイン、チェックアウトという言葉はなく、入所、退所という言葉でした。3食と宿泊代はただ、しかし収容所なのだということをはっきりと認識した瞬間です。

部屋は、20m2以下の狭いシングルベッド室で、ベッド脇にデスクと大きな液晶TVがついています。衣類収納棚はなく、壁に衣類が掛けられるようになっています。

収容所室内のデスク写真

 

食事は、毎食弁当で、8時、11時、4時に「これから食事を配る。配り終わった時に知らせるので、それまで扉は明けるな。(勿論、もう少し丁寧な言葉で)」というアナウンスがあり、1時間後位に扉の外のドアノブにビニール袋に入った弁当が掛けられます。

ベッドメーキングはなし、自分で全てしなくてはなりません。浴室タオルの取り換えも電話で頼むと、ビニール袋に入れてドアノブにかけてくれます。

買物はこのホテルの1階にコンビニがあり、午前、午後共に2時間ぐらい開店し、その時間帯にコールセンターに買物を依頼すると、代金を入れるビニール袋がマグネットで張り付けられ、それにお金を入れて張り付けると、品物、お釣り、レシートを入れたビニール袋がドアノブにかけられます。

このコールセンターというのは、このホテルとは全く異なる組織で、この収容所の管理を厚労省から委託されている組織のようで、全く素人的&お役人的。ノンアルコールビールを頼んだら、ビールという名称がついているのでダメと言われてしまいました。ある日、「滞在者が千人を超えているので弁当の配布に時間がかかり遅くなる。」との放送がありました。普通でしたら、こんな言い訳じみた放送は、ホテルの印象を悪くするので一切ないでしょう。

収容所に入って3,6,10日目に唾で行うPCR検査があり、検体配布もドア越しにされ、検体提出の際は全身防護服に身を固めた検査官が名前を確認しながら受け取っていきます。部屋の扉の内側には唾が出やすいように、梅干しとレモンの写真が貼ってあります。

扉に貼ってある梅干しとレモンの写真

この収容所内では、一切禁酒です。収容者はコロナ感染被疑者の危険人物ですから、他の人が入室する事は一切ありません。今回の帰国便の乗り換え地であるドーハ空港では、コロナどこ吹く風で、色々ないい酒がすべて無税で買えます。そこで酒類を購入し、荷物に入れてこの収容所まで持ってきても、入所時の荷物検査はありませんので、身近に酒類を持った人たちは、禁酒への強い意志を試されることになります。

この収容所が、刑務所と異なる点は、労働時間も運動時間もないことです、私の滞在中の1日の平均歩数は300歩程度でした。兎に角、椅子に座ると全てが手の届く範囲にあり、歩く必要がないのです。正に非歩行による人間の足の退化実験です。

私は、幸いなことに急ぎの仕事があり、大きな液晶TVをPCモニターとして使い、毎日この良い環境で仕事が出来、いい時間を過ごせましたが、急ぎの用事も酒もない日々を過ごさなくてはならない人にはつらい留置生活だろうと思います。

こうして私は、長いお務めを終え、出所しました。

ほうれん草

ほうれん草

ほうれん草の写真から始まったからと言ってCOOKPADではありません。バター炒めなんで考えると、よだれが出てきますが料理サイトではありませんのでお間違いなく。ただ、この稿ではホウレン草について書きましょう。

私のPCにホウレンソウと打ち込むと、「菠薐草」と出てきます。全く知らない漢字で、この場合は「こいつもなかなか頭が良いな」と思いますが、時には「馬鹿だねー、こんな事も知らないのか!」なんて思う事や、「自分の立場をわきまえろ」と思う事も度々。

一番、気にくわないのがPCを点けた途端に、画面真ん中に『ようこそ』。これは、他人の訪問などを喜ぶ挨拶語(出典:広辞苑)ではないか!自分のPCをいじって居て、この言いぐさは何だ!お前、「俺の顔認証しただろう?」、だったら三つ指ついて「おかえりなさいませ。お疲れ様でした。肩でもお揉みいたしましょうか?」ぐらい、出来なくても言ってみろ!

何を話していたのでしたっけ?あっ、そうそう、菠薐草だ!どうも、感情に負けてしまい、失礼しました。さて、此の菠薐草の「菠薐(ハリョウ)」と言うのはネパールの地名だそうです。(出典:広辞苑第六版)

さてこのネパールの地名ハリョウHaryo或いはホリョウHoryoというのは何処なのか調べましたが、それと思しき所が見つかりません。私が働いていたラリトプール市内でその発音に似た、或いはその発音を含んだ所を上げると「Harisiddhi」「Harihar Vawan」等が見つかりましたが、ネパール全国となると?? ネパール語の『Ha Ryo』という発音は「lost(失う)」「Green(緑)」という言葉に近いそうですが、これに関係する地名なのかも??

話が飛びましたが、さてこのホウレン草というと野菜ですが、ビジネスの世界では別の重要な意味を持ちます。そうです、組織の中で「ホウレンソウ」というと業務における部下だけではなく組織で働く人の心得、或いは業務推進のポイントです。「報告(ホウコク)」、「連絡(レンラク)」、「相談(ソウダン)」を意味する事は皆さんご存じの通り。

 

ネパールで活動していた時の事です。私の仕事の上で、市場調査やCAD図作成などの業務をサポートしてくれるアシスタントのネパール人に、この話をしました。勿論、その時の状況は・・・、打合せと調査が目的で市役所に行かせた所、なかなか帰ってきません。当然、連絡もなし。『自分で自分を管理できなければ、単なる学生としか扱わないぞ!』と叱ってみたものの、これではいかんと、上記の話となりました。

この話の最中にふと、ネパール語でこんな言葉が見つからないかと相談すると、アシスタントが見つけてくれた言葉が『Beshar (बेशर ベシャール)』。意味は「Turmeric Powder (ターメリック)」で、日本でもカレーライスを作るときや、エスニック料理を作るときに普段からよく使う調味料です。

Be:         Bishleshan          बिश्लेशन               (Report 報告)

Sha:       Shampark           शम्पार्क                 (Contact 連絡)

R:           Raya                    राय                      (Discussion 討議)

何か部下との間で問題が起きたとき、くどくど言わなくても『Besharを忘れるな!』の一言で、大切なポイントを伝えられるというわけです。

しかし、辞書を見るとネパール語の場合、発音のアルファベット表記が辞書によりまちまちですので、まっ、頭の固い人たちからは色々と異論が出るかもしれません。それもまたおもしろい物で、そんな議論をしながら、このビジネス・ポイントが理解されたら良いのでは。

ついでに英語ではと、相談して決めたのは『Red coat』。丁度、アシスタントが着ていたのが、赤いロングのカーディガン。

Re:         Report   (報告)

Co:         Contact (連絡)

T:           Talk       (相談)

しかし、『Red coat忘れるな!』と言ったら「今日は黒のセーターです。」なんて言われるかな。何かもう少し適切な言葉がありそうにも思えます。皆さんもお考え下さい。

単なる言葉遊び、くだらないと言うなかれ!もともと「ホウレン草」もそんな言葉遊びなのですから。だけど言葉遊びも「ホウレン草忘れるなよ!」とか「ホウレン草思い出してくれよ!」等と仕事の世界で気楽に使えるようになると、遊びとも言えなくなります。

ネパールで仕事をされている皆さん!『Beshar (बेशर ベシャール)』を使って『Nabhulnu Beshar』(ベシャールを忘れるな!) と片言のネパール語を使いながら、プロジェクトが上手く進むようされてはいかがですか? (上手く進むかな??)

海外でお仕事をされている皆さん!そこの国の言葉で仕事上の「ほうれん草」を見つけて試されては如何??

幸福度世界一?

ネパールの子供たち

ネパールの山向こうの国ブータンが幸福度世界一と話題になりましたが、幸福度というのは、どうやって算出するのかとふと不思議に思い調べました。

この『ブータンが幸福度世界一』という文章は、全くの私の間違いでした。普通、幸福度と言うと、世界幸福度報告(英語: World Happiness Report)で述べられているものです。

この世界幸福度報告は、国連の持続可能開発ソリューションネットワークが発行する幸福度調査で、(1)GDP、(2)社会的支援(困ったときに頼ることができる親戚や友人がいるか)、(3)健康寿命、(4)人生で何をするかの選択の自由度、(5)寛容さ、(6) 政府の腐敗の6つについて調査して国際的なランキングを示しています。

因みに今年の「世界幸福デー」の3月20日に国連が発表した2018世界幸福度では、調査対象155ヵ国中、日本は54位、ブータン97位、ネパールは101位です。私が10年以上暮らしたエジプトは122位でしたが、住みやすい国なのに??

下の図がその記事に添付されていた幸福度地図ですが、これは米ギャラップ社による幸福度調査図で、国連発表の物とは異なります。やはり北米、南米の国々の幸福度が高くなっています。(と言う事は、幸福度なんてものは、気持ちの持ちようかな??しかし、政府の腐敗度も評価対象になり、その点で日本は低い評価だとか、日本の政治家は嘘などつかず、勇気をもって、しっかりしてもらいたいなー。)

世界幸福度地図

所で『ブータン云々・・』というのは、1972年にブータン国王が提唱し、ブータン王国で初めて調査され、国の政策を決めるために活用されている国民総幸福量或いは国民総幸福感の尺度「国民全体の幸福度(GNH Gross National Happiness)」です。

GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素からなる72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い決めるとの事。

因みにブータン国立研究所が2010年に行った調査では、ブータン国民の平均幸福度は6.1で、日本の6.6を下回っているのだそうです。(日本ってそんなに幸福な国だったんだ!)

日本の国内の幸福度ランキングというのも有って、一番は福井県だそうです。

共働き率が全国1位で経済的に安定し、3世代同居が多く、夫の家事・育児貢献度も高く、家庭環境が充実している福井型のライフスタイルが高評価につながった、と書かれていました。

インド亜大陸とユーラシア大陸の四つ相撲現場

私は、このユーラシア・プレートとインド亜大陸プレートが正に其の四つ相撲を取っている土俵に登って、四つに組んでいる所を見てきました。以下がその相撲観戦記です。(前稿に引き続きこれからの文章も私が書くのですから、勝手に単純な相撲モデルを使いますよ。)
現在、中国に占領されているチベット国とネパールとの間に8000m級の山々を抱えるヒマラヤ山脈が走っていますが、一部はネパール国内に入り込んで、アンナプルナ・ヒマラヤ山脈を形作っています。そのアンナプルナ・ヒマラヤ山脈の北側に広がっているのが、嘗てのムスタン(Mustang)王国です。この王国は、2008年にネパールに併合され、なくなってしまいました。
ネパールには、ダサイン(Dasain)という10日間の秋祭り休暇があります。その休暇を利用して、ムスタン(Mustang)王国の首都ローマンタン(Lo-Manthang)までトレッキングしました。(トレッキングのお話は別の項でお話しします。)
アンナプルナI(8091m)の北側に回り込むと、そこは正にムスタン王国の入り口。そこにカグベニ(Kagbeni)という村があります。そこが正に四つ相撲の土俵。チベット国境からムスタン王国を縦断しアンナプルナ山脈の裾を巡って流れるカリ・ガンダキ・ナディ(Kali-Gandaki-Nadi)河が其の四つ相撲をまざまざと見せてくれます。

上がインド亜大陸側で、下がユーラシア大陸側。・・・だと想像しています

南から押してくる地層と、北でがっしりとそれを受け止める地層が、正に四つに組んでじっと土俵中央で動かず聳え立っていました。
そこは正に悠久の時の流れの地球の歴史の中の一齣を見せてくれている場所でした。

ムスタンの地に入ると地層は水平でなだらかな丘が続いていました

それまで荒々しく立ち上がったり、斜めに歪曲したりしていた地層は、チベット語で「肥沃な平原」の意味のムスタン王国に入ると全く平らな地層を見せていました。

(※これまで読んでいただいた皆様には、全く申し訳ないのですが、この項で述べたことは、学術的な見地から記載したものではありません。私が四つ相撲の場所をこの目で見たい、こうであればいいなと思う願望が強く入って述べておりますので、ご理解のほどお願いいたします。)

 

インド亜大陸は、ひょっこりひょうたん島?

ひょっこりひょうたん島のモデルの一つになったと言われるGuamのALPAT島

『昔々、Once upon a time インド亜大陸は、アフリカ大陸の東の端を出発して、5000万年から7000万年という気の遠くなるような時を経て、7500㎞の長い旅の果てに、吸い寄せられるようにチベットの地にたどり着いた。』などと書くと、今でも我々の心の中で長い旅を続けている「ひょっこりひょうたん島」のようなイメージが浮かびます。

ご存知のように「ひょっこりひょうたん島」は、NHK総合TVで放送された人形劇番組で、1,224回の最終回で国連加盟を認められたにもかかわらず、それを断って今でもぷかぷかと漂流しています。
まッ、インド亜大陸、ひょっこりひょうたん島というのは全く私の個人的なイメージで、勿論その頃はチベットという国もありませんし、「ぷかぷかと」というイメージではないのは確かですが、こう考えると何かロマンというか楽しい夢を感じます。

ジュラ紀(1億9500万年~1億3500万年前)後期にゴンドワナ大陸がアフリカから分離し、白亜紀(1億4550万年~6550万年前)にさらにインド亜大陸がマダガスカルから分離・孤立し、北に移動しつづけ、ついにユーラシア・プレートにめりめりと衝突。その後もこの押しくら饅頭は現代まで続き、その結果できたのがヒマラヤ。現在でもこの押しくら饅頭は続いておりその結果、ヒマラヤは今でもその高さを増しつづけています。
マダガスカルは、現時点ではアフリカから500kmの距離ですが、先に離れて行ったインド亜大陸を追うように、北東に向かって移動し続けています。

この押しくら饅頭の最前線が、ネパールです。ユーラシア・プレートもインド亜大陸プレートも共に大陸型プレートで、比重が同じなため双方一歩も引かずがっちり四つ。その結果、ぶつかったあたりの筋肉が押されて盛り上がった、そこがヒマラヤです。
ユーラシア・プレートの東端にある日本列島も、太平洋プレートやフィリピン海プレートとぶつかっていますが、ユーラシア・プレートが大陸型プレートに対して、太平洋プレートとフィリピン海プレートは海洋型プレートです。この海洋型は、大陸型に比べて比重が重いので、ユーラシア・プレートの下にもぐり込もうとしています。
大陸型プレートの厚さは、100㎞位で、太平洋プレートは海の下の海嶺で湧き出ている所では10㎞位だそうですが、日本にぶつかっているあたりの厚さは70㎞位だそうです。今のところまわし充分、がっちり四つに組み時々、ユーラシア関が筋肉を震わせて何とか踏ん張っていますが、ついに太平洋関が潜り込み成功、なんていう事になると日本列島は海抜7万mの高地に。(なんていう事はないか!)
(ご専門の方からみると「何をばかなことを!」と言われるのでしょうが、素人はちょっとききかじったことで、面白い夢を見るものです。御免なさい。)
「日本沈没」という小松左京の名著がありますが、その名著の最後のエピローグの章は、『北半球の半分をおおうユーラシア大陸の東端で、いま、一頭の竜が死にかけていた。』という文章で始まり、日本列島を竜になぞらえて、火を噴きながら悶え苦しんで海に沈んでいくさまが描かれています。この部分は、実に迫力があり桃中軒雲右衛門に語ってもらいたいと思うほどです。

彼はこの名著の章ごとに日本列島のどの部分がどんな形で変化し、沈んでいくのかを計算しシミュレーション・モデル作ったそうです。その当時では珍しかった、四則演算の機能位しかできないにも拘らず数十万円もする13桁表示の計算機を購入し、それを駆使してそのシミュレーション・モデルを作ったのだそうです。しかし、9年間という長い著作期間の後、この名著が出来上がる頃には、5千円位でその計算機は買えるようになっていたそうです。しかし、すごい人が考えることは、私が考えるような単純な相撲モデルではないようです。

道楽者の弁

毎月その発売日(毎月5日と20日)が待ち遠しい私の愛読書「ビック・コミック・オリジナル」(マンガ雑誌)に「どうらく息子」(尾瀬あきら作)と言うマンガが掲載されていました。幼稚園の保育士をしていた青年が、落語に目覚め、真打を目指し前座から二枚目にまで苦労して成長するさまが描かれています。落語家と落語噺の世界が克明に描かれ、実に面白いお薦めのマンガです。

しかし、なぜ苦労しながら落語家の真打を目指す青年が道楽息子なのでしょう。落語の噺の道楽息子は、大店の跡取りが吉原の花魁にいれあげて勘当になるという筋でも描かれるように、余り良い意味合いでは使われていません。所謂、放蕩者です。放蕩とは、「酒色にふけって品行がおさまらないこと」です。

広辞苑では「道楽」の項に「道を解して自ら楽しむ意から」とあり、それほど悪い意味の言葉ではなさそうな表現から始まって、次に「本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。」と解釈が出て、その次に「放蕩者のすること」と書いてあります。 この「道を解して自ら楽しむ」、言い換えると「その道の真の楽しさにのめり込む」と言う意味で、この「どうらく息子」と言うマンガが描かれていると、私は解釈しています。

さて、この稿の「道楽」は、楽しさ一杯の「放蕩者のすること」と言う意味で書いております。昔、道楽者の行状は「呑む・打つ・買う」と言う事に決まっておりました。いわゆる酒色と博打です。この三つが、人に快楽や刺激を与える最たるものだからでしょう。一つではなく複数の楽しさと言う事も快楽や刺激を何倍にもする重要な要素です。

昔、ラスベガスのホテル・フラミンゴやスターダスト等の賭博場で遊んだ事があります。食事をしながら煌びやかなショーを見て、その後で賭博場に入ると、広大と言う表現が適切な煙草で煙っているフロアーにカードの台が無数にあり、バニー・ガールが飲み物を配っています。壁側にはガラス張りのバカラのゲーム室があり、上品な人種が高額なゲームを楽しんでいました。男性トイレに行くルートの空間には、映画女優なのではと見紛う程の美女たちがたむろし、声をかけてきます。まさに「呑む、打つ、買う」と言う放蕩道楽の極致という世界でした。

(最近、様々な反対意見がありながら成立した「カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法(カジノ法)」というので出来上がる賭博場は、どんなもんなんでしょうね??最終的にはラスベガス??)

今では重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産と言う何か高級な趣味の様になってしまいましたが、「お能」も「歌舞伎」も含めて大衆演芸、芸能は全て酒を飲みながら、食べながら、おしゃべりをしながら、そして権力者は美女を傍に侍らせ、芝居茶屋で役者と時を過ごすという幾つもの刺激を含んだ道楽でした。

四国 金毘羅さん金丸座

江戸城大奥の御年寄・絵島は先の将軍の墓参りの後、役者・生島新五郎と芝居茶屋で宴会(密会?)し、江戸城への帰参門限に遅れた事で起きる「絵島生島事件(1714年)」。歌舞伎や小説、映画の世界でも有名ですが、この事件のおかげで、1500人余の人々が、遠島、斬首ほかで罰せられ、江戸4座の芝居小屋の一つの山村座は廃座、芝居小屋は簡素な造りに改築させられ、そして夕方の公演は廃止になったそうです。この事件と比べると、どこかの国の大統領や首相や国会議員の艶話など些細な事と思うほどです。

さて、煙草好きにはパッケージに「健康に影響あり」と書かれようが、命に代えてもと言うくらいに煙草は大切な道楽です。しかし、今では禁煙の波に押されて肩身が狭くなりましたが、東日本大震災、国債の格下げと言う国難山積みのこのご時世に1本吸うごとに13円のたばこ税(マイルドセブンの場合)を納めて頂いている事を考えると、吸わない私は有難いと思ってしまいます。

エジプト・カイロの喫茶店で水煙草を楽しんでいる男

大相撲でも2005年初場所から全面禁煙になりましたが、それまでは相撲と煙草は切っても切れない仲と言うほど密接な関係でした。現在の国技館(1984竣工)を造るとき、「沢山の人が集まる室内では禁煙」(1962年施行の火災予防条例)と言う法律に対して、相撲協会は頑強に抵抗し国会議員まで動かし、人の楽しみとは何かと言う事を追求した結果が喫煙できる国技館でした。 相撲を見ながら酒を飲み、食事をし、タバコを飲み、時には相撲茶屋に行って遊ぶ、これが相撲という神事を民衆の側から見た演芸の世界でした。

なぜ、タバコの喫煙が相撲という楽しみとそれほど強く結び付いていたかと言いますと、相撲が始まり、そして盛んになった江戸時代は、喫煙率が非常に高かったからです。文政3年(1820年)に江戸の煙草屋三河屋弥平次が記した「狂歌煙草百首」には、喫煙率は97%以上と記載されているそうです。 極端な言い方をしますと老若男女、全て吸っていた。客が家に来た時、お茶を出す前にまずタバコ盆を客の前に出すのがあたりまえでした。ですから相撲と言う楽しみと喫煙と言う楽しみは切れなかった。(しかし、当時はキセルで現在のような両切りではありませんし、火の始末に非常に厳しかったので咥えタバコはなく、常にタバコ盆を傍において喫煙しました。)

お茶も道楽の一つですが、煙草と言う道楽とも結びついていました。裏千家も含めて各お茶の流派には、それぞれ煙草盆の火入れ(煙管に火をつける炭入れ)の炭のいけ方、灰のならし方が作法としてあり、待合や腰掛には煙草盆が必ずおかれていたそうです。亭主は小間の薄茶席、広間での席でも、煙草盆の配慮が必要と書かれています。

現在、「落語」の演芸場ではタバコは吸えませんが、座席の前に小さなテーブルが出せるようになっており、其処にビールと弁当を置いてのんびり見るのが落語の楽しみでしょうか。

日本だけでなく海外の演芸、芸能も同じように「呑む・打つ・買う」という事に強く結びついていました。オペラ鑑賞と言う道楽でも、まさにこの「呑む・打つ・買う」という事に強く配慮して客席が設計されていました。パリのガルニエのオペラハウスも、ミラノのスカラ座も、バルコニー席では食事もできましたし、退屈すればバルコニー席の後ろに長椅子を置いた小部屋もありました。

昔から「人の楽しみ・娯楽」と言うことは何かを我慢しながら何かを楽しむと言う事ではなかったのです。(勿論、それなりのスマートなルールはありましたが。)
私は演芸が芸術という範疇で語られようと、「人の楽しみ・娯楽」を与えるという意味から考えて、道楽者の三つの放蕩のうち、せめて「呑む(食う)」という事と共に演芸、芸能を楽しみたいと考えています。

 

はるか離れた南の国の日本軍のトーチカ

私は、2009年にインドネシアのシムルー島と言う所で、仕事をいたしました。そこはインド洋に広く津波の被害が及んだ2004年12月26日のスマトラ島沖地震の震源地に一番近い島です。日本から首都のJakartaまで7時間かけて飛び、そこで乗り継いでスマトラ島(日本の面積に2倍くらいの大きな島)の州都Medanに約2時間掛けて飛び、そこからは12人乗りのセスナ機に乗り換えて1時間でやっとシムルー島に着きます。

そこは小さな島ですが、インドネシアで一番早く鉄道と飛行場が出来た島とされています。作ったのは、大東亜戦争当時の日本軍です。今のジェット機の時代でもこれだけかかる遠い島に、昔はどのくらい時間をかけて行ったのでしょうか。鉱山がありその鉱石積み出し用に山からSinabangと言う港まで鉄道が引かれていたそうです。勿論、飛行場は戦略的な意味があったのでしょう。
この島にもトーチカがあります。島の南西海岸に3か所ありました。多分、当時はもっと多かったのでしょう。

シムルー島のトーチカ

全体は5角形に柄が付いているような形で左側の横長の間口が迎撃窓でしょう。

ここでどのような戦闘があったのかは知りませんが、故国から遠く離れた赤道直下で、トーチカの中で敵を迎え撃つ心境はどのようなものだったのでしょう。
鉄道、飛行場、トーチカなど多くの戦闘目的の施設が造られた際、現地の人たちも徴用され働いた事でしょう。
私はこの島に、合計で4カ月程滞在しましたが、日本人のお墓のようなものは見つかりませんでした。せめてこの島では戦闘などなく、死傷した日本兵がいない事を祈ります。遥か昔の日本軍の戦跡があるこの島の、地震被害の救済に日本から出向いていると言う事に何か因縁めいたものを感じます。

 

 

孤立感から生まれたトーチカと言う戦跡(アルバニア国)

「トーチカ」と言う言葉をご存知ですか?もともとは、「ロシア語точка トーチュカ」ですが、主に鉄筋コンクリート製の防御陣地の事です。飛行機からの爆撃や、野砲や戦車による砲弾攻撃にも耐えられるように、分厚いコンクリートで覆われ、歩兵や戦車による攻撃を撃退するため小さな窓があり、色々な兵器で反撃できるようになっています。

一般的な形は、攻撃の弾の力を分散しやすいように半円になっている物が多いのですが、時には一般の民家に似せて屋根をつけ、窓を描いて偽装する事もありました。

バルカン半島の突端のギリシャのすぐ北西にアルバニアという国があります。そこに医療施設の調査に行った時、峠を越えて視界が開け広い農地が見えた時、クラゲのような半円をした物が、畑の中に何列にもわたって見えました。それがトーチカでした。

すぐ向こうがイタリア半島の靴の踵と言うアドリア海の入口に面する風光明美な保養地サランダで快適な時を過ごした後に、この醜悪な人工物に出会った時は、いささかいやな気分になりました。

農地に何列にも連なるトーチカの列
(白い点々がトーチカ)

農地の中のトーチカ
ギリシャ国境から12km位の所

トーチカは、入り口が攻撃されにくい自軍方向についており、敵が攻めてくる方向に攻撃用の窓が付いています。平原に無数に散らばっているこれらのトーチカの防御方向はギリシャ方向でした。

1976年6月の或る朝突然、アルバニア国民に総動員令が発令されました、その頃、まだ女子高校生だった私の仕事相手も、それから何カ月も学校で学ぶ事もなく毎日、トーチカ造りをしたそうです。当時、60万個のトーチカが作られたと言われています。その当時、アルバニアは社会主義をとり、隣国のユーゴスラビアのチトー大統領、ソ連、近隣諸国とも対立し鎖国状態でした。

これらのトーチカは、実際には使われる事はありませんでしたが、世界的な孤立状態から生まれた、脅迫観念に追い立てられて作られた膨大な数の戦跡です。

 

塩分摂取量

戦禍がまだ、あちらこちらに見られるボスニア・ヘルツェゴビナの春の4月、雪の消えた山道で、道路を塞ぐ様に羊の群れが道路で何かを舐めていました。羊飼いに聞くと塩を舐めているとの事。彼らは冬の間に融雪用にまいた塩をアスファルトの亀裂から摂取していたのです。戦火のない、のどかな春の一頁でした。

道路の亀裂を舐めている羊の群れ

人間と同じように動物たちも塩を必要とし、その量は一日当たり、ヤギは20g、馬は30~40g、牛は80g、ニワトリが0.8~1gとされています。牧場で飼われているこれらの動物たちは通常、岩塩を与えられています。

一方、野生のライオンや豹の様な肉食動物は、血まみれになって獲物を食べている時、その血に含まれている塩分を同時に摂取しているのです。草食動物は岩塩がある場所を知っていて、そこから塩分を摂取しています。

いちめん雪で覆われた極寒の地の草食動物たちは、露出した岩塩から塩分を採取しますが、食餌と塩分摂取の両立は難しく、トナカイが人間に飼われる様になったのは、人間のオシッコに含まれる塩分を求めて、人間の生活空間に入り込んだのが大きな理由だと言われています。

犬は塩分が不足すると、軽症では次のような行動や症状を見せると、獣医が書いています。『散歩の際、よその犬のオシッコをよく舐める。人の手や足をよく舐める。オシッコの後、陰部を長く舐めている。』『口の中が乾いていて、指で触ってもよだれがつかない、目も乾きがちで、白っぽい粘液状の目やにが見られる。』

重症になると『シュウ酸カルシウム結石が出来やすくなり、オシッコの色が濃い黄色になる。腎臓の数値が上がり始め、手術の麻酔時に不整脈が観察されるようになり、麻酔で死亡するケースもある。軽い下痢・嘔吐でも動けなくなる。』

極限状態になると『意識状態が朦朧とし、飼い主への反応が鈍くなり、運動能力も衰え運動障害や椎間板疾患と誤診される。内臓機能の限界から下痢をおこし、腎機能検査の値が跳ね上がる。』『このような症状に対する処置としては、点滴が行われるが、何杯かの味噌汁が、効果がある。』と書いています。(しかし通常、犬に塩分は禁物と言われており、多少抵抗感もありますが。)

さて、人間にとって塩はなくてはならないものです。胎児を育む女性のおなかの中の羊水は、原始の海の成分や塩分濃度と同じだと言われています。卵子と精子により誕生した新しい生命の最初の1、2カ月は、魚と同じ様にエラ呼吸をしています。胎児は、『地球上に生命が誕生した時から今の人間に至る40億年の過程を、十月十日の短い間にたどって誕生する』と言われています。壮大なロマンですが、その短時間の劇的な変化により、女性は「つわり」で苦しむのだとも言われています。(これを換算するとおなかの中の1秒は、胎児にとって約165年を意味します。女性も赤ちゃんもすごいですね!)

人間の体の中の塩も、動物と同じように血液やその他の体液の中に存在します。体重70kgの男性の場合、約200gの塩が体内に存在しています。塩分は体液の中で浸透圧により老化物を運び、水分量の調整で細胞と体液の間の圧力調整をし、筋肉を動かし、運動機能の素となっています。

ところで塩の摂取量について、日本とアメリカで基準の表示が違っています。塩は「塩化ナトリウムNaCl」を含む物の総称です。アメリカではこの「塩化ナトリウム」の中のナトリウム量(sodium)を摂取量基準に使い、日本では「塩化ナトリウム」(sodium nitrate)の量を摂取量の基準にしています。通常使用する塩には色々な物が含まれていますので、「塩化ナトリウム」量で計るより「ナトリウム量」で計る方が正確なのですが、通常の生活の中では不便です。

塩分・ナトリウム換算式: [ナトリウム(mg)×2.54÷1000=食塩相当量(g)]

この計算式よると、日本高血圧学会のガイドラインの「6g未満」は、アメリカのナトリウム量換算では2,362mgとなります。勿論、これはアメリカの摂取ガイドライン内です。

病気知らずの私は、最近、不覚にも血圧が高いと診断されました。高血圧の原因とされる塩分の摂取量について調べた際に見つけた多少、一般に興味がありそうな事を取り上げて羅列いたしました。調べた中に『塩分は高血圧の原因ではない』と言う学説もありました。もし、これが実証されれば塩辛やラーメンなど心おきなく食べられるのですが。

 

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