阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

日: 2018年7月25日

様々な弔い(とむらい)の方法と各国のお墓

最近、弔うと言う事に対しても時代の流れで、火葬で消費される多量のエネルギーや排出される二酸化炭素、或いは土葬の為の土地の不足が問題になり、全く新しい弔いの方法が報じられ、すでに幾つかの国では承認されているそうです。

一つは「フリーズドライ方法」です。遺体を液体窒素で-196℃まで冷やしその後、粉々に粉砕すると言う方法で、既に英国やスエーデン、韓国、米国の一部の州で承認されているとの事。次の方法は遺体を絹布で包み、160℃に熱したアルカリ性溶液の中に沈め全て溶かしてしまうと言う方法です。何か異次元の話のようで、そこまでやるのかと言う言葉が出てきますが、土葬から火葬へと弔いの方法が変化した時、遺体を燃やすと言う事に対して同じような感覚を我々の先祖は持ったのかもしれません。

東北地方の葬列のシーンが映画「おくりびと」の中で出てきますが、色とりどりの細長い布の旗指物が行列を彩っていました。この色とりどりの布は、エジプト、ネパール、パキスタンでも見られます。この布は、日本では見られなくなりましたが、色々な国では魔除けとしてお墓の廻りの木に、布が朽ちるまで下がっています。只、日本のお寺が何か行事をするときに、軒下に飾る布の様々な配色はこれとそっくりです。

インドネシアの葬列では、同伴するのは男性だけで、女性は娘のみが許され、なぜか妻は許されません。同じイスラム教の国であってもエジプトでは遺体に多くの女性が、時には泣き女が雇われ、泣き叫びながら行列に墓地(エジプトでは土葬) まで同伴します。イスラム教の場合、通常、女性は、亡くなった方が彼女の夫であっても遺体に面会することはできないとされていますがしかし、最近、時にはこのルールは無視されるように成っています。

お墓も設ける国と無い国があります。インド、インドネシアやヒンドゥー教では火葬した後、遺灰や遺骨を川や海に流し、或いは遺体をガンジス川に流し墓を設けません。かってキリスト教でも遺体を教会の内部に収め、最後の審判の後に復活する時を待ち、墓は設けませんでした。

昔、日本では両墓制をとっている地方がありました。人里から離れた所に遺体を埋める「埋め墓(葬地)」と、人の住む所から近い所に「参り墓」を建て、お参り、祭祀はそこですると言う方式です。只、江戸時代辺りまでは土葬、火葬に限らず墓石、石塔は建立されなかったと言われています。

お墓の形や墓標も国によって様々な形があります。あまり石を加工していない素朴な墓から高度な加工技術を駆使した墓まで様々です。下の写真はボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓ですが、これは北欧で活躍していたバイキングの墓の形だそうです。インドネシア民族と同様に海洋民族のお墓の形は、広く世界に広がっています。オランダも古くはインドネシアにコロニーを造り、今でもその足跡をお墓の形に見る事が出来ます。

ボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓

 

インドネシアのスマトラ島の近くのシムルー島の古い墓

1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、多くの人が亡くなりお墓の面積が3倍に成ったと言われていますが、その墓地の中を歩くと全く暗さを感じません。様々な墓標には、亡くなった方の写真が墓標に刻まれていますから、どんな人が埋葬されているのかは一目瞭然です。しかし、人間死しても見栄があるのか、墓標の写真と死亡した人の年齢が異なり、男女含めて若い素敵な写真が多いようです。

写真入り墓碑が並ぶボスニアの墓地

 

ボスニアの写真入り墓碑。享年57歳のお墓には思えません

お墓に様々な花を供えると言うのは、日本も他の国も同じです。日本の花の生産の7割が菊と言われていますが、その需要を支えるのが葬式や仏壇に供える花です。墓参りでも今では洋花が広く使われますが、昔はその季節の花が添えられました。日本のお墓では、花立やお線香立てなどお墓参りに配慮した設計に成っていますが、海外の場合、花立があるお墓はそれほど多くありません。

ボスニア・ヘルツェゴビナでの墓地の前には花屋が必ずあって、華やかな色とりどりの花が店先を鮮やかに彩っています。しかし、これが全て造花。生花は全く置いていません。

ボスニア・ヘルツェゴビナの墓地の前のお花屋さん

土葬の場合は、個々人のお墓で謂わば個室ですが、日本のお墓は大部分がその家のお墓で、共同住宅の様な意味を持っています。その為、土葬の場合のお墓参りは個人の命日や、誕生日などの特定の日にお墓参りをする事に成ります。それに対して日本のお墓のようにそれぞれの家、家系と結びついているとお墓参りをお盆やお彼岸などの決まった時にするようになります。
沖縄では毎年4月にシーミー(清明祭)と言う墓参りの行事があり、家族、親戚が料理、お酒を持ち墓参りをします。この行事は、昔の洗骨の儀式の名残だと言われています。 海外の人に聞いてみると、イスラム教の場合、家族でも個人でもお墓参りに行くという習慣は無いそうです。インドネシアのクリスチャンの場合は、死後3日目、7日目、40日目とクリスマスとイースターにお墓参りをするそうです。

 

色々なお葬式の風習

東日本大震災で亡くなられた方の土葬が新聞で報じられ又、最近、「直葬(ちょくそう)」(臨終後、通夜や葬儀をせずに火葬場で見送る形式の葬儀)や千の風にのって「散骨」する等、新しい弔いの形が話題に成っています。また、国際テロ組織指導者のオサマ・ビンラディン容疑者の遺体が水葬され、イスラム教の弔い儀式と違うと言う事も話題に成りました。この稿では、人を弔う形や意味についてお話ししたいと思います。

尚、この稿では、弔いに関連する様々な事を浅薄な知識で書いておりますが、これは私が海外の様々な国を廻った時に見聞きした物を纏めたもので学術的に調べた物ではありませんのでその点をお断りしておきます。

お葬式の方法は、その国の風土や昔からのしきたり、宗教などを反映して様々です。 日本では亡くなったその夜に「通夜」を行います。この「通夜」と言うのは、殯(もがり)の風習の残りと言われています。殯は古代に行われていた貴人を本葬前に仮に祀る葬式儀礼で長い間、仮安置する事で遺体の腐敗、白骨化の変化から死を確認すると言う意味がありました。古代の日本や韓国では1年、時には3年以上も殯の儀礼が続いた事があったそうです。 殯や通夜と言う風習は、仏教だけではなく、神道やキリスト教でも似たような儀式があり、亡くなった人との別れの時を大切に思う人の気持ちから自然に生まれたのでしょう。

昔、インドネシアのジャワ島などでは石を井桁に積んだ石室に遺体を安置し、鳥や昆虫、腐敗菌などにより白骨化させ、1年後に親戚一同が集まり、残った骨を川で洗い清め、壺に入れて石室の下にある墓に納めると言う「洗骨」の風習がありました。この風習は、海洋民族であるインドネシア人の広範囲な移動に伴いマダガスカル島や沖縄まで広がっていました。沖縄の古いお墓は、納骨をする部屋の前に広い場所があり、古くはここに遺体を安置し、殯から洗骨までの儀式を行っていたそうです。

インドネシアの王の墓、塔の間の風がふき抜ける所で殯の儀式が行われた。

「火葬」と言う新しい弔いの形が出来て、殯や洗骨と言う風習も無くなっています。現在、インドネシアでも火葬が一般的になり、高温多湿の気候の中で腐敗を防ぎ衛生面に配慮し『人が死去するとその日の太陽が沈む前に火葬する』と言うように風習が変化してきています。火葬は沢山の薪や燃えにくい遺体を燃やすと言う技術が必要で、日本ではこの風習は、近代まで一般的ではありませんでした。しかし、仏教の経典の中に『喜見菩薩は、法華経と如来を供養するためにご自身の身を捧げようと決意し、体に火をつけて1200年燃えつづけた。』との記述があり仏教徒の間では火葬の風習は根付きました。

明治政府は明治6年(1873年)に神仏分離令に関連して火葬禁止令を布告しましたが、仏教徒からの反発と衛生面の問題から2年後の明治8年にこの火葬禁止令を廃止しています。

 

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