阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

日: 2018年7月22日

オペラ劇場の究極の舞台背景

今回はオペラ劇場の舞台背景についてお話ししましょう。

[オペラ劇場と舞台背景]
この舞台背景となる大道具の製作や設置には、どの劇場も独特のSystemを持っています。プラハの国立オペラ劇場(1888年完成)は、第二次世界大戦の際に破壊されましたが、新築当時以上の華麗なオペラ劇場として再建され毎年20以上の演目を200回以上公演しています。ヨーロッパでこの劇場ほど昔の劇場の姿を美しく留めながら、オペラや演劇を機能的に上演できる劇場は無いと言われています。再建の際にオペラ劇場の古い姿を其の儘に保持しながらレパートリー劇場として機能強化を図りました。

このオペラ劇場の周辺に近代的な3つのビルを建築し、地下で結んで大道具、小道具の製作部門を移し、これの移動に特殊なトロッコシステムを導入しました。加えてこれらの3つのビルには演劇、バレー、演奏などの練習場、演劇劇場、音楽関係の協会など舞台芸術に関係する全てのSystemが収まっています。チェコの舞台芸術のレベルの高さはこんな施設によっているのでしょう。 日本のオペラ劇場としては4面舞台を持つ新国立劇場が挙げられます。此処もレパートリー劇場を目指しているそうですが、今後どのような展開に成るのか楽しみです。

下の写真は、イタリアのヴィツェンツァ(Vicenza)にある世界最古の木造オペラハウスと言われるオリンピコ劇場(Theatro Olimpico 1584年完成)です。この劇場には慶長年間1615年にローマ法王謁見の前に支倉常長がこの劇場を訪ねており、劇場ホールにその記念プレートがあります。この劇場の舞台背景は街並み或いは豪華な室内とも見える固定背景です。古代ローマ劇場を模して造られたとい言われていますが、この固定背景の意匠が客席まで続いて一体感を表しています。固定背景の場合、演目は限られますがこの劇場ではモーツアルトの「魔笛」や、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」など意外に思うような演目も演じられ、各種の室内楽演奏にも使われています。しかし、此処の舞台背景は究極の背景と言えます。

ヴィツェンツァはルネッサンス期の建築が沢山残されており、建築美術館と言えます。一度は訪問して素晴らしい建築群をお楽しみされるようにお勧めします。

オリンピコ劇場

オペラ劇場と日本の芝居小屋

今回はオペラ劇場の裏側や劇場の衣装、舞台装置の製作についてお話ししましょう。

[オペラ劇場とエンターテイメント]
ガルニエ宮と呼ばれるパリの国立オペラ劇場(1874年完成)は、馬蹄形のパーケット席(平土間席)をとりか組むように5人程度が座れるBox席があります。このBox席には胸に仰々しく勲章を下げフロックコートを着た厳めしい感じの担当サービス係がいますが、なかなか物を頼めると言う雰囲気ではなく、ある時、このBox席で私は全く面識のない同席の4人の女性の為に幕間に、飲み物をサーブするのに大汗をかいた事がありました。

馬蹄形にカーブしている廊下の内径側にはBox席そして、外径側にはそれぞれのBox席専用の着替え用小部屋があります。Box席への扉を開けると片側に長椅子が置いてある小さな前室があり、其の奥の分厚いカーテンの先がBox席です。オペラがつまらなくなったら何時でも後ろのスペースでごろ寝が出来る、そんな空間がBox席にはあるのです。ヴェルディのオペラ「椿姫」の主役の女性のヴィオレッタはそんな華やかな空間を舞台にした職業婦人だったと言われています。

ガルニエ宮パリ国立オペラハウス

Opera・du・operaと言うオペレッタの舞台背景では、この廊下側から見たBox席の扉が並んでおり、そこで起こる男女の密会の話ですが、このオペレッタの中で銀の器をもったボーイがBox席に出入りしていました。つまりオペラ劇場と言うのは、「聞く、見る、飲む、食べる、買う」と言う総合エンターテイメントの世界でした。

[オペラ劇場と下請制度]
丁度、ヨーロッパのオペラ隆盛と時を同じくして日本でも勧進帳の初演が1840年、歌舞伎十八番の制定など歌舞伎も隆盛期を迎え、芝居見物は庶民にとって大きな楽しみでした。江戸には幕府認可の江戸4座だけではなく「宮地芝居」の小屋掛け芝居小屋が沢山あり、芝居演目で使う鬘(かつら)、衣装、舞台装置、舞台小物は下請けが製作していました。

所がヨーロッパの芝居Systemでは、下請制度が無く、当時からオペラ劇場には衣装制作の為のお針子の部屋から小道具、大道具製作室、はては布を染色する部門まであり、現在も使われています。これは、オペラ劇場は当時の為政者であった王侯貴族が開設した謂わば官制劇場であり、日本の芝居小屋は民間の起業家によって建てられたと言う違いによるものです。この下請制度は民間企業のスリム化、リスク分散、専門業者による高度技術化が図られた結果で、これも日本の近代化の一つの支えに成ったと言えます。

また、江戸時代は庶民はドレスコードなどに縛られることなく、沢山ある芝居小屋から演目を選び、気楽に芝居や演芸を楽しみ、それが民衆の大きなエンターテイメントになっており、民衆の文化度を挙げていました。

[オペラ劇場と上演形式]
オペラの面白さは、その内容だけではなく劇場の上演形式や、劇場の広さ、演目による舞台背景などにより大きく影響を受けます。先に述べたガルニエ宮やミラノのスカラ座などのオペラ劇場では色々な演目を日替わり公演するレパートリー制と言う興行システムを採っています。歌舞伎座や宝塚劇場が同じシステムです。ロングラン公演の場合、一つの公演用の舞台装置、背景しかいりませんが、レパートリー制の劇場の場合は上演する演目の数分を用意する必要があります。ミラノのスカラ座の場合は、サイド・ステージが無い為、色々な舞台装置、背景がバックステージに林立している状態です。

これに対して新しくパリに出来たオペラ・バスチーユ(1989年完成)は、バックやサイドの舞台に加えてそれぞれの舞台の地下にの舞台があり合計で9面の舞台で、主舞台をそっくりそのまま舞台転換できます。背景を置いておく舞台の数が多ければ、幕間の時間も短くなりますし、演出家は大きな舞台装置、背景を自由に構想出来ます。ベニスのフィニーチェ劇場やウィーンのフォルクスオパーなどの小さな劇場では舞台転換で、40分以上待たされた事がありました。ヨーロッパのオペラ劇場では夕食時の幕間が1時間半位あり、観客は劇場の外のレストランに食事に行き、舞台の上では大きな舞台転換の作業をしています。

日本からエジプトに贈ったオペラ劇場

2010年、『オペラ連盟が文化庁からの支援金を水増し』、『景気の影響で海外オペラや音楽の来日公演は、2008年比で1/3以下減少』など芸術オペラとは違う面のニュースが流れましたが、今回はオペラ劇場に纏わる芸術には余り関係のないお話しをしましょう。

[オペラ劇場と政治の世界]
昔の事ですが、私が建設会社の技術者だった時、エジプトでオペラ劇場を建てた事があります(1988年落成式)。このオペラ劇場は、日本からエジプトへの贈り物として建てられました。

エジプトは、スエズ運河の開通記念式典(1869年)に招いた多くのヨーロッパの王侯貴族を歓待する為にオペラ劇場を造りました。このバレー、演奏、声楽に演技が加わったオペラと言う複合芸術の場は、エジプトの音楽レベルを高い水準にしましたが、残念な事に1971年に焼失してしまい、育った芸術家たちはヨーロッパに散って行きました。

そこで日本からの贈り物のオペラ劇場です。日本・エジプトの友好強化、教育水準向上などODAとして色々な理由はありましたがその当時、日本にはオペラ劇場は無く、日本の国会では「自国にもないものを贈るとは!」と言う事で紛糾しました。しかし、ヨーロッパの諸国は、オペラ劇場をプレゼントしたと言う事で日本の文化度を高く評価し、エジプトでも記念切手や絵葉書が多数発行されました。因みにその時に日本側がつけたプロジェクト名は「エジプト教育文化センター」と言う隠れ蓑的な名前でしたが。この時の駐エジプト日本大使は、バレーの筋書きの作家で大のオペラファンだったとの話も聞きました。

日本で寄贈したオペラハウスを記念して発行された絵葉書

 

日本の寄贈したオペラハウスの記念切手及びシート

さて、私はこのオペラ劇場建設の際に、劇場設計、音響、照明、舞台装置など其々の専門家の方々と、ヨーロッパ諸国のオペラ劇場の調査を行いました。昼は調査、夜はオペラ、レヴューを見て、見終わると舞台比較論に明け暮れる毎日で、実にハードな業務出張でしたが夢のような素晴らしい時間を過ごしました。

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