ボスニア・ヘルツェゴビナ国で、通算1年ほど設計と監理の仕事をした事があります。ボスニア・ヘルツェゴビナ国は、昔のユーゴ連邦国の構成国で、チトー大統領が執っていた民族融和政策でムスリム、セルビア人、クロアチア人の異なった3民族、イスラム教、ローマ・カソリック教会及び東方正教会と言う異なった宗教の人たちが、纏まって近隣として生活していました。しかし、彼の死後、3つの宗教、3つの民族が入り乱れ内戦(1992年3月~95年11月)が起きました。

内戦の発端は、首都サラエボでの民族衝突だと言われますが、実際はそれから始まったそれぞれの立場からの宣伝報道が原因と言われています。報道から憎しみが生まれ増幅しある日、隣家からの銃弾で父親が撃たれ、返す弾で隣家の息子が傷つく、そんな隣人同士の争いが大きな内戦に発展しました。私が滞在していた時は、戦後8年も経っていましたが、自分の家が在るにも拘らずまだ、帰る事が出来ない人々が沢山いました。隣人が信用できない為、帰れないのです。

この戦争は、色々な近代兵器が使われましたが、内戦ですから大きな兵力がぶつかり合うと言う事ではなく結局は村、町の取り合い、人と人との殺し合いです。サラエボの日曜日の朝、夫婦で食事をしている時、夫の額に狙撃手の照準の赤い点が付いた途端に夫の頭が吹き飛んだ。北のクロアチア国境近くのブルチコと言う町では、町の中心部で何処からか弾が飛んできて沢山の人が犠牲になりました。最後に給水塔の上にいた狙撃兵が殺され、犠牲者は出なくなりましたが、その狙撃兵はオリンピックで活躍した女性の射撃選手だったそうです。彼女は幾らかの食料と弾で、生還する事のない一人の戦いをしていたのです。

現代の戦争では戦う双方は、それぞれ色々な国際機関を味方につけようと宣伝活動をします。最初から劣勢だったモスレム側は、国連に働きかけました。その際、自分たちの置かれている状況を説明するキャッチフレーズを考えました。最初、考えられたのが南アフリカの白人と非白人の分離を意味する人種隔離政策を意味する「アパルトヘイト(Apartheid)」です。しかし、これでは意味が弱いという事で考えられたのが「民族浄化(Ethnic cleansing)」です。この言葉は国際社会に大きな衝撃を与え、国連が動きました。

事実、それぞれの側がそれに近い事をしました。女学校を占領し、乱暴をするという事も起きました。この戦争以降、ハーグの国際法廷で戦争の際のレイプは戦争犯罪だと規定されました。戦後8年も経っていましたが、多くの男性が内戦で亡くなった為、どの会社に行っても働く主力は女性でした。ボスニア・ヘルツェゴビナ国では生まれる子供の男女の比率で、極端に女の子が多く、ある村では1:8だと報道されていました。戦争で男性が多く亡くなり、生まれる子供を守ろうとする母親の意思がそうするのかもしれません。

戦後8年経っても放置された建物のムクロ1

戦後8年経っても放置された 建物のムクロ2

写真名は両方の写真とも「戦後8年経っても放置された建物のムクロ」です。大きなビルの写真は、炎上している時の映像が世界に配信されました。このビルは現時点では既に新たに外装され使われ始めています。ただ、この短い文章で戦争の悲惨さ、報道と言うものの強さ、怖さを語っておくべきかと考え投稿しました。