阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 建物

建築違反もここまでくると、実に愉快!

前稿は、民間で行われている建築違反の話でしたが、今回はもっとすごい公共の建築違反の話です。

2011年の国勢調査結果でこのパタン地域の人口集中の状況を調べると、次のような結果になりました。下の図はラリトプール市全域の区(Ward)毎に人口密度の棒グラフを表しています。グラフの一番高い棒がパタン地域の中の世界遺産地域の人口密度を表しています。

そこの人口は、なんと世界の首都の中で一番人口密度が高いと言われているモルディブの首都マレの1.3倍の人口密度の高さです。東京の何と3倍の人口密度です。

City population Density(p/ha)(世界の色々な首都とパタンの人口密度比較)
Patan World heritage area(パタンの世界遺産地域) 459(人/ヘクタール)
Male(Maldivesモルジブの首都マレ) 350
Paris(Franceフランスの首都パリ) 206
Tokyo(Japan日本の東京) 144

こんな状況の中で、法律なんか何のその、少しでも居住面積を増やし、快適な生活を望むのは人情。重々その気持ちをおもんばかって、住宅のせり出しには目をつぶるとしてもこれはないでしょう!

国立競技場の観覧席がドカンと歩道の上だけではなく、車道の上まではみだしています。ここまでやると何か痛快、愉快、欣快!!

多分、ネパールでは法務省も国土交通省も文科省も厚労省も環境省も、日本の省庁のようなセクト意識がなく、仲良く意見を出し合い国の発展のために最善の案を出し合っているでしょうね。その結果、「いいよ、良いよ、設計を変るのは大変だろ。ちょこっと道路の上に出たって。気にしない、気にしない。」

(そんな調子で日本のモリ蕎麦もカケ蕎麦も、友だち同士、井戸の中で民間も含め仲良くやって、若い世代の教育を推進しようとした結果だったんでしょうね。)

国の施設がここまでするんだったら、俺の家なんかが敷地からちょこっと1mや2m跳ねだすぐらいなんていう事ないね、なんて言葉が出てくるね。私の勤めていた役所の連中が何も言わない訳が分かったような気がするね。

もともと歴史建造物のネワール建築は、庇を大きく道路にはねだしていましたから、はるか昔から敷地境界なんて小さなことを考えず、「世の中も個人も一心同体。世の中のものは私のもの、私のものはわたしのもの。」という広い気持ちできたのかな~~??

狭くなる空(あなたの空は私の空)

ネパールで活動していた時、私の事務所は世界遺産に指定されていたパタン地域にありました。毎朝、私が事務所に通う道が、何か少し暗くなったなと思い、見上げると、空が狭くなっていました。その道は4階建のネワール建築が立ち並んでいた狭い路地です。もう「立ち並んでいた。」と言う過去形でしか言えません。

此の事務所に通っていた2年間に100年以上の歴史を持つ20以上のネワール様式の建物が、新しく鉄筋コンクリート構造の建物に改築されました。ネワール建築の住居は、通常4階建で、1階は水場と倉庫、2階は主に寝室、3階は居室、4階は台所・食堂という配置です。このしゃ(ネワール建築での生活については「動態保存の家に住む難しさ」という稿であらためてお伝えします。)

伝統的なネワール建築様式の住宅

古い歴史建造物の家は観光客にとっては素晴らしい景観ですが、そこに住み日々の営みを続けることは、近代的な生活を知っている住人にとっては不便極まりない状況です。経済力を持ったネワール建築の家主は、その家を壊しコンクリートの建物を新築します。

建て替えることは致し方ないとしても、問題はその建て方です。上階に行くほど徐々に道路にはね出して、居室を広くしているのです。当然、空は狭くなります。勿論、自分の敷地をはみ出して建物を立てる事は法律違反です。しかし街を、気を付けてみると、どこでも同じように道路に跳ねだして家を建てていました。

私の配属先「ラリトプール市都市開発部」は、新築の建物の建築許可を出す所ですが、建築指導もする部署です。その直ぐ傍の通りの空が狭くなっているのです。しかし、なぜか誰も何も言いません。ここネパールでは住宅規模程度では、新築工事完了後の完成検査、建物使用許可書発行、そこで初めて建物の使用が出来ると言う日本にあるような制度によるチェック機能が働いていません。ですから「公共の空間は俺の物」と言う事がまかり通ってしまうのです。

両側からせり出して、ついには通りの向かいの建物とくっついてしまい、アーケードになってしまうのではと、思ってしまいます。

 

ネパールの国勢調査で分かる人々の生活

レンガとコンクリートの建物

前稿で扱いましたネパールの国勢調査項目には我々、日本人にはなじみのない項目が並んでいます。
まず、建物についてですが、建物の基礎の種類(泥目地煉瓦、セメント目地煉瓦、杭使用RCC、木杭等)、外壁の種類を質問している項目があります。これは地域防災と耐震技術を担当していた筆者には実に有効な情報でした。只、公表されている単位がward(日本で言うと区)レベルで集計されており、もしその下のcommunity(日本で言うと町)レベルであればより詳しく実像に迫れるのだが、と少し残念でした。


次に日本と違う項目は、飲み水についての質問です。水道水、井戸水、雨水、河水などの項目に分かれ、井戸水の項では、蓋をしている井戸か、カバーをしていない井戸か細かく尋ねています。はるか昔から国を統治する者にとって民に十分な飲み水を与えるという事は国の安定のためにも、公衆衛生の為にも重要な調査項目です。(昔、ネパールの治世者がどうやって民衆に水を与えていたのかは、他の項でお知らせします。) ただ、私たち日本人は余りにも便利な環境の中で生活しているために、こんな単純で基本的な最も重要な項目を忘れがちです。

次に日本と異なる点は、料理に使う燃料の種別を尋ねています。薪、石油、プロパンガスなどの種別を尋ねていますが、少し変わっている物として、「牛の糞」や「その他」という項目もあります。ネパールだけでなく隣国のパキスタンでも、田舎に行くと燃料にするため丸く平らにした牛の糞を、石の上で乾かしているのをよく見かけました。「その他」という項目には、太陽熱利用も含まれますが、日本で考えるような太陽熱を電気に替えるというシステムではありません。これは、パラボラ・アンテナのような形の集光機で熱源を得て、煮炊きにその熱を使うものです。実に単純な仕組みで光が集まる真ん中に鋳鉄製の鍋を置いて直接温める仕組みでしたが意外に早くお湯が沸くそうです。

太陽熱調理器。集光機の中央に鍋が置かれているだけです。

燃料政策に失敗したアフリカ大陸の東側にあるマダガスカルでは、大部分の樹木が薪に使われ、丸裸になった土地や畑の土は川に流れ、川の河床が高くなり、水田地帯が沼に替わり、食料の米の生産量も落ちました。燃料問題は、国土を維持していくうえで重要な問題です。
ネパールの国土の幅は、ほぼ日本の本州と同じくらいですがネパールの場合、北の中国国境から南のインド国境まで最大標高差は8,000m以上あります。如何に国土全体の表土を保つための樹木保全が必要なのか、わかる気がします。

日本の国勢調査の項目は、世帯の人数、生年月、国籍や仕事の従事の有無、従事地や通学地などがありますが、住居については賃貸か持ち家か或いは一戸建てか共同住宅か、床面積などを訊いています。また、5年前にはどこに住んでいたかを尋ねる項目もあります。これらの項目を見ていますと、日本の国土の中で、人がどのように生活し、移動しているのかをダイナミックに把握しようという意図が判ってきます。
しかし、いま社会的に問題になっている女性の社会進出や、労働力の問題、所得格差、貧困の問題などをより細かく把握し、日本の将来を見据えた方針を確立のためには、国勢調査項目は見直す時期なのかもしれません。日本の政府が莫大な借金を抱えた今、従来の方法や考え方に疑問を持たなければならない時なのではないでしょうか。特に日本では、10年毎の国勢調査以外に5年毎にも調査(この調査の調査項目は17項目です。) をしていますので、より細かく実情の把握が出来るシステムになっています。
ネパールでも日本でも、国勢調査の項目の中に、都市部の一所帯の家族人数を調べている項目があります。日本の場合、全国平均で2.54人、それに対してネパールの数字は4.32人。最近、ネパールでも小家族化が進んでいると言われていますが、まだまだ何か昔ながらの家族の存在がある様で、ホッとしました。

兎に角、この国勢調査の数字を読んで行くと、私の下衆の勘繰りも満足させてくれますし、色々と興味が尽きません。また、色々と日本やそれ以外の国との比較をやり始めると面白い物が次々と出てきそうです。今後も、ネパールの国勢調査結果を読み解きながら面白い事が見つかりましたら、この「阿寒平太の世界雑記」に書いていきます。

 

オペラ劇場の究極の舞台背景

今回はオペラ劇場の舞台背景についてお話ししましょう。

[オペラ劇場と舞台背景]
この舞台背景となる大道具の製作や設置には、どの劇場も独特のSystemを持っています。プラハの国立オペラ劇場(1888年完成)は、第二次世界大戦の際に破壊されましたが、新築当時以上の華麗なオペラ劇場として再建され毎年20以上の演目を200回以上公演しています。ヨーロッパでこの劇場ほど昔の劇場の姿を美しく留めながら、オペラや演劇を機能的に上演できる劇場は無いと言われています。再建の際にオペラ劇場の古い姿を其の儘に保持しながらレパートリー劇場として機能強化を図りました。

このオペラ劇場の周辺に近代的な3つのビルを建築し、地下で結んで大道具、小道具の製作部門を移し、これの移動に特殊なトロッコシステムを導入しました。加えてこれらの3つのビルには演劇、バレー、演奏などの練習場、演劇劇場、音楽関係の協会など舞台芸術に関係する全てのSystemが収まっています。チェコの舞台芸術のレベルの高さはこんな施設によっているのでしょう。 日本のオペラ劇場としては4面舞台を持つ新国立劇場が挙げられます。此処もレパートリー劇場を目指しているそうですが、今後どのような展開に成るのか楽しみです。

下の写真は、イタリアのヴィツェンツァ(Vicenza)にある世界最古の木造オペラハウスと言われるオリンピコ劇場(Theatro Olimpico 1584年完成)です。この劇場には慶長年間1615年にローマ法王謁見の前に支倉常長がこの劇場を訪ねており、劇場ホールにその記念プレートがあります。この劇場の舞台背景は街並み或いは豪華な室内とも見える固定背景です。古代ローマ劇場を模して造られたとい言われていますが、この固定背景の意匠が客席まで続いて一体感を表しています。固定背景の場合、演目は限られますがこの劇場ではモーツアルトの「魔笛」や、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」など意外に思うような演目も演じられ、各種の室内楽演奏にも使われています。しかし、此処の舞台背景は究極の背景と言えます。

ヴィツェンツァはルネッサンス期の建築が沢山残されており、建築美術館と言えます。一度は訪問して素晴らしい建築群をお楽しみされるようにお勧めします。

オリンピコ劇場

オペラ劇場と日本の芝居小屋

今回はオペラ劇場の裏側や劇場の衣装、舞台装置の製作についてお話ししましょう。

[オペラ劇場とエンターテイメント]
ガルニエ宮と呼ばれるパリの国立オペラ劇場(1874年完成)は、馬蹄形のパーケット席(平土間席)をとりか組むように5人程度が座れるBox席があります。このBox席には胸に仰々しく勲章を下げフロックコートを着た厳めしい感じの担当サービス係がいますが、なかなか物を頼めると言う雰囲気ではなく、ある時、このBox席で私は全く面識のない同席の4人の女性の為に幕間に、飲み物をサーブするのに大汗をかいた事がありました。

馬蹄形にカーブしている廊下の内径側にはBox席そして、外径側にはそれぞれのBox席専用の着替え用小部屋があります。Box席への扉を開けると片側に長椅子が置いてある小さな前室があり、其の奥の分厚いカーテンの先がBox席です。オペラがつまらなくなったら何時でも後ろのスペースでごろ寝が出来る、そんな空間がBox席にはあるのです。ヴェルディのオペラ「椿姫」の主役の女性のヴィオレッタはそんな華やかな空間を舞台にした職業婦人だったと言われています。

ガルニエ宮パリ国立オペラハウス

Opera・du・operaと言うオペレッタの舞台背景では、この廊下側から見たBox席の扉が並んでおり、そこで起こる男女の密会の話ですが、このオペレッタの中で銀の器をもったボーイがBox席に出入りしていました。つまりオペラ劇場と言うのは、「聞く、見る、飲む、食べる、買う」と言う総合エンターテイメントの世界でした。

[オペラ劇場と下請制度]
丁度、ヨーロッパのオペラ隆盛と時を同じくして日本でも勧進帳の初演が1840年、歌舞伎十八番の制定など歌舞伎も隆盛期を迎え、芝居見物は庶民にとって大きな楽しみでした。江戸には幕府認可の江戸4座だけではなく「宮地芝居」の小屋掛け芝居小屋が沢山あり、芝居演目で使う鬘(かつら)、衣装、舞台装置、舞台小物は下請けが製作していました。

所がヨーロッパの芝居Systemでは、下請制度が無く、当時からオペラ劇場には衣装制作の為のお針子の部屋から小道具、大道具製作室、はては布を染色する部門まであり、現在も使われています。これは、オペラ劇場は当時の為政者であった王侯貴族が開設した謂わば官制劇場であり、日本の芝居小屋は民間の起業家によって建てられたと言う違いによるものです。この下請制度は民間企業のスリム化、リスク分散、専門業者による高度技術化が図られた結果で、これも日本の近代化の一つの支えに成ったと言えます。

また、江戸時代は庶民はドレスコードなどに縛られることなく、沢山ある芝居小屋から演目を選び、気楽に芝居や演芸を楽しみ、それが民衆の大きなエンターテイメントになっており、民衆の文化度を挙げていました。

[オペラ劇場と上演形式]
オペラの面白さは、その内容だけではなく劇場の上演形式や、劇場の広さ、演目による舞台背景などにより大きく影響を受けます。先に述べたガルニエ宮やミラノのスカラ座などのオペラ劇場では色々な演目を日替わり公演するレパートリー制と言う興行システムを採っています。歌舞伎座や宝塚劇場が同じシステムです。ロングラン公演の場合、一つの公演用の舞台装置、背景しかいりませんが、レパートリー制の劇場の場合は上演する演目の数分を用意する必要があります。ミラノのスカラ座の場合は、サイド・ステージが無い為、色々な舞台装置、背景がバックステージに林立している状態です。

これに対して新しくパリに出来たオペラ・バスチーユ(1989年完成)は、バックやサイドの舞台に加えてそれぞれの舞台の地下にの舞台があり合計で9面の舞台で、主舞台をそっくりそのまま舞台転換できます。背景を置いておく舞台の数が多ければ、幕間の時間も短くなりますし、演出家は大きな舞台装置、背景を自由に構想出来ます。ベニスのフィニーチェ劇場やウィーンのフォルクスオパーなどの小さな劇場では舞台転換で、40分以上待たされた事がありました。ヨーロッパのオペラ劇場では夕食時の幕間が1時間半位あり、観客は劇場の外のレストランに食事に行き、舞台の上では大きな舞台転換の作業をしています。

日本からエジプトに贈ったオペラ劇場

2010年、『オペラ連盟が文化庁からの支援金を水増し』、『景気の影響で海外オペラや音楽の来日公演は、2008年比で1/3以下減少』など芸術オペラとは違う面のニュースが流れましたが、今回はオペラ劇場に纏わる芸術には余り関係のないお話しをしましょう。

[オペラ劇場と政治の世界]
昔の事ですが、私が建設会社の技術者だった時、エジプトでオペラ劇場を建てた事があります(1988年落成式)。このオペラ劇場は、日本からエジプトへの贈り物として建てられました。

エジプトは、スエズ運河の開通記念式典(1869年)に招いた多くのヨーロッパの王侯貴族を歓待する為にオペラ劇場を造りました。このバレー、演奏、声楽に演技が加わったオペラと言う複合芸術の場は、エジプトの音楽レベルを高い水準にしましたが、残念な事に1971年に焼失してしまい、育った芸術家たちはヨーロッパに散って行きました。

そこで日本からの贈り物のオペラ劇場です。日本・エジプトの友好強化、教育水準向上などODAとして色々な理由はありましたがその当時、日本にはオペラ劇場は無く、日本の国会では「自国にもないものを贈るとは!」と言う事で紛糾しました。しかし、ヨーロッパの諸国は、オペラ劇場をプレゼントしたと言う事で日本の文化度を高く評価し、エジプトでも記念切手や絵葉書が多数発行されました。因みにその時に日本側がつけたプロジェクト名は「エジプト教育文化センター」と言う隠れ蓑的な名前でしたが。この時の駐エジプト日本大使は、バレーの筋書きの作家で大のオペラファンだったとの話も聞きました。

日本で寄贈したオペラハウスを記念して発行された絵葉書

 

日本の寄贈したオペラハウスの記念切手及びシート

さて、私はこのオペラ劇場建設の際に、劇場設計、音響、照明、舞台装置など其々の専門家の方々と、ヨーロッパ諸国のオペラ劇場の調査を行いました。昼は調査、夜はオペラ、レヴューを見て、見終わると舞台比較論に明け暮れる毎日で、実にハードな業務出張でしたが夢のような素晴らしい時間を過ごしました。

近代戦争・憎しみ・報道・生存

ボスニア・ヘルツェゴビナ国で、通算1年ほど設計と監理の仕事をした事があります。ボスニア・ヘルツェゴビナ国は、昔のユーゴ連邦国の構成国で、チトー大統領が執っていた民族融和政策でムスリム、セルビア人、クロアチア人の異なった3民族、イスラム教、ローマ・カソリック教会及び東方正教会と言う異なった宗教の人たちが、纏まって近隣として生活していました。しかし、彼の死後、3つの宗教、3つの民族が入り乱れ内戦(1992年3月~95年11月)が起きました。

内戦の発端は、首都サラエボでの民族衝突だと言われますが、実際はそれから始まったそれぞれの立場からの宣伝報道が原因と言われています。報道から憎しみが生まれ増幅しある日、隣家からの銃弾で父親が撃たれ、返す弾で隣家の息子が傷つく、そんな隣人同士の争いが大きな内戦に発展しました。私が滞在していた時は、戦後8年も経っていましたが、自分の家が在るにも拘らずまだ、帰る事が出来ない人々が沢山いました。隣人が信用できない為、帰れないのです。

この戦争は、色々な近代兵器が使われましたが、内戦ですから大きな兵力がぶつかり合うと言う事ではなく結局は村、町の取り合い、人と人との殺し合いです。サラエボの日曜日の朝、夫婦で食事をしている時、夫の額に狙撃手の照準の赤い点が付いた途端に夫の頭が吹き飛んだ。北のクロアチア国境近くのブルチコと言う町では、町の中心部で何処からか弾が飛んできて沢山の人が犠牲になりました。最後に給水塔の上にいた狙撃兵が殺され、犠牲者は出なくなりましたが、その狙撃兵はオリンピックで活躍した女性の射撃選手だったそうです。彼女は幾らかの食料と弾で、生還する事のない一人の戦いをしていたのです。

現代の戦争では戦う双方は、それぞれ色々な国際機関を味方につけようと宣伝活動をします。最初から劣勢だったモスレム側は、国連に働きかけました。その際、自分たちの置かれている状況を説明するキャッチフレーズを考えました。最初、考えられたのが南アフリカの白人と非白人の分離を意味する人種隔離政策を意味する「アパルトヘイト(Apartheid)」です。しかし、これでは意味が弱いという事で考えられたのが「民族浄化(Ethnic cleansing)」です。この言葉は国際社会に大きな衝撃を与え、国連が動きました。

事実、それぞれの側がそれに近い事をしました。女学校を占領し、乱暴をするという事も起きました。この戦争以降、ハーグの国際法廷で戦争の際のレイプは戦争犯罪だと規定されました。戦後8年も経っていましたが、多くの男性が内戦で亡くなった為、どの会社に行っても働く主力は女性でした。ボスニア・ヘルツェゴビナ国では生まれる子供の男女の比率で、極端に女の子が多く、ある村では1:8だと報道されていました。戦争で男性が多く亡くなり、生まれる子供を守ろうとする母親の意思がそうするのかもしれません。

戦後8年経っても放置された建物のムクロ1

戦後8年経っても放置された 建物のムクロ2

写真名は両方の写真とも「戦後8年経っても放置された建物のムクロ」です。大きなビルの写真は、炎上している時の映像が世界に配信されました。このビルは現時点では既に新たに外装され使われ始めています。ただ、この短い文章で戦争の悲惨さ、報道と言うものの強さ、怖さを語っておくべきかと考え投稿しました。

 

建物の動態保存の難しさ

NPOつげの会の会員で精力的に活動されている水上勝之氏は「群馬音楽センターを愛する会」を主宰され、高崎にレーモンドが設計した群馬音楽センターの動態保存に奔走されています。

富山県五箇山、岐阜県白川郷は「合掌造り集落」として世界遺産に登録されていますが、3、4階建ての大きな茅葺の民家を生活しながら動態保存していく困難さは、よく報道されています。嘗てはそれぞれの家に大家族が住み、労働集約的な生産を行っていたこれらの集落では、大屋根の茅葺の葺き替えにも十分な労働力がありました。しかし、今ではそれぞれの家に住む家族の人数は、都市部の集合住宅の1戸と変わらない状態で、観光客のほうが多いのが現状で、茅の葺き替えも多くのボランティアに支えられて行われています。

ただ、観光地化されたこの「合掌造り集落」は、保存への様々な問題点を抱えながらも時代の流れの中で観光産業と言う新たな生産活動の中に生き続けることが出来ています。しかし、世界遺産に指定されながらもその存続を危ぶまれている、集落、町が沢山あります。そのような例を一つご紹介しましょう。

マザー・テレサが生まれた国としてご存知の方も多いアルバニア国(バルカン半島にありギリシャの北にある。) に「ギロカストラ」と言う都市があります。この都市の旧市街地は、2005年に「ギロカストラの博物館都市」として世界遺産に登録されました。街並みを形造っているのは、この地特有のクラ(kullë「塔」の意)と呼ばれる石作りの家で、オスマン帝国時代に作られたものです。

ギロカストラ旧市街地俯瞰

 

ギロカストラの大きな民家

壁も屋根も全て変成岩の一種の板状の結晶片岩で作っています。高い建物は3階建て4階建てもありますが、各階の床は木造ですが、それ以外はすべて石で造られています。屋根も木造の母屋、垂木の上に板状の石が葺かれています。

石屋根の屋根裏

この石葺きの屋根は、「合掌造り集落」の茅葺ほどのメンテナンスは必要ないのですが、石も長い間に劣化します。温度差による内部応力や、片理にしみ込んだ水の凍結により結晶は崩壊し、薄くそして時には崩壊しますので部分的な補修作業は必要です。それ以上に大きな問題は、その大きな重量の屋根を支えている木造の母屋、垂木です。

私がその都市を調査していた時、腐った母屋、垂木が折れ、屋根が崩壊し、その家で生活していた家族6人が死傷したというニュースをテレビで見ました。最近では旧市街地写真に見られるように瓦やトタン葺きの屋根も多くなってきました。この都市は城砦都市で大きな城もあるのですが、このバルカン半島はイスラム教、カソリック・キリスト教、東方正教などの宗教が入り乱れ覇権を争った地域ですので、少し大きな都市には城があり、それだけでは観光資源にはなりえません。まだ観光産業が発達していませんが、発達してもこの町が自立するためには、ギリシャ国境から40㎞と言う地の利を生かしてギリシャとの観光連携が必要なのかもしれません。

宗教施設の方向

古代では農作物や狩りの収穫は、今以上に季節や天候に左右されその為、古代の宗教者は今の「お天気お姉さん」のような役割も担っていました。古代の建造物で、春分や秋分の日の出に光が建物の一点に射すようになっているものや、明日の天気を見る物見台を備え、一種の天文台になっている施設はインカやエジプトを含め世界に広く見られます。この流れから今でも多くの宗教施設は、その軸方向が決まっています。

東方教会(Orthodox Church、キリスト教の分派、ロシア正教会、アルメニア正教会、シリア正教会、コプト教会など)は、祈りの方向が東である為、建物軸は東西になっています。所が以前、ボスニア・ヘルツェゴビナ国で仕事をした際、奇妙な東方教会を見ました。敷地に新旧の二つの教会が建っており、古い教会の軸は正確に東西をむいていますが、新築の教会の軸が10度以上ずれているのです。(写真1の左後ろの白い建物が古い教会で建物の軸線は正確に東西だが、手前の教会の軸線はずれて反時計回りに回転している。)

東方教会

早速、司祭に訊ねてみると、「教会の軸線がずれても問題ない。敷地の前を通るMotor-way(高速道路)に軸線を合わせた。」との事。怒り心頭に達し「宗教施設をなんと考える!神様は車で出勤するのか!」と思いましたが、ふと南極や北極に立った東方教徒はどの方向に祈るのかと言う自問に答える確たる知識もなく、全ての融和を考える仏教徒として素直に引き下がってきました。

イスラム教では、祈る方向は厳密にメッカの方向ですので、この南極、北極と言う問題もなく、教会の建物(モスク)としての軸線もそれほど厳密ではありません。キリスト教の教会を、イスラム教会として使っている建物では、建物軸線と内部で行われる礼拝儀式の方向が異なっていました。

イスラム教のプリミティブな祈りの場

この写真は、非常にプリミティブな旅人用のモスクで、イスラム諸国ではよく見られるものです。祈りの前に手足を洗い、口をゆすぐために川の傍にあり、目印の大きな樹が立ち、数人が祈りをあげられるようにモルタル仕上げの床があります。

つい先頃、Pakistanで130床の病院建築を監理した際の事ですが竣工2か月前、隣接したモスクの僧侶が現場の視察後、トイレの便器方向を変えろ、もし、変えないなら我々がぶっ壊すと強硬な指示。便器の方向がメッカの方向に向いているとの理由ですが、建物の軸線も便器も正確にはメッカ方向ではないのですが、大体その方角に向いているという事だけでこの指示。色々なイスラム諸国で仕事をしましたが、これは初めての経験でしたが、スタッフの話ではパキスタンではあり得るとの事。近くを流れるインダス河の川向うまで厳格な原理主義のタリバーンの勢力が迫っている中で、議論の余地はなく即、変更しましたが、なかなか理解に苦しむ状況でした。プリミティブな祈りから始まった宗教の発展(?)と、プリミティブな人間の生活との結びつきを、どのように解釈すればいいのでしょうか。

 

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