阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 建物 Page 1 of 2

動態保存の家に住む難しさ

ネパールの首都カトマンズの南に隣接するラリトプール市の世界遺産地域には多くの古いネパールの時代を彷彿とさせる建物が、現代でも生活の場として使われています。まさに動態保存地域です。

日本では地域としての動態保存では世界遺産の「白川郷」が有名です。

白川郷の住居(左)とラリトプールの住居(右)

ラリトプールには木造の細かな装飾の格子窓が特徴の古い時代の住居が沢山あり、白川郷と同じように今でも住居として使われています。

ネパールの歴史建造物外部立面・断面

 

木造の内部と急な階段

嘗ては全ての建物は3階半建で統一されていましたが、現状では4階或いは5階建に増築されている建物が大部分です。外壁に日干しレンガを使用している構造となっていますが、窓を含め主要構造部材は全て木造となっています。

白川郷の家は生活空間と作業場という2つの機能を持っていましたが、全ての生活空間は1階にあり、その上階は全て蚕だな或いは養蚕道具スペースが占めて謂わば、生産の作業場でした。其の為、養蚕を行わなくなっても、建物を保存しやすかったと言えます。

ラリトプールの建物は、1階は不浄の階と考えられて、台所は臭気、排煙の為、3階或いは屋根裏階に設けられています。居間は3階、寝室は2階を使います。このように生活空間は建物の上階まで広がっており、それだけ生活しにくいと言えます。

この様な家の多くの家主は、郊外に引越をして、多くの古い建物は内部を細かく間仕切って安く賃貸されています。冬場はプロパンが手に入りにくくなりますし、質の悪い灯油は焚いていると目がしょぼついてきて、涙が止まらなくなります。調査に入ったそこでは、裸の赤ちゃんを抱いたお母さんの傍で裸火が燃えていました。

狭く区切られた台所、裸火の傍のお母さんと赤ちゃん、裸火が燃えている居間

この様な状況のなか、この歴史的な建物はどうやって生き延びていくのでしょうか?

 

東洋のベルサイユ宮殿-Singha Durbar

ネパールのカトマンズに建つこの宮殿は1974年7月4日まではアジアで一番大きくて且つ華麗な王宮でした。

この王宮はChandra Shumsher( Chandra Shumsher Jung Bahadur Rana)国王が建てたものですが、7つの中庭を持ち、部屋数は1700室もありました。

設計と監理を担当したのは、以前歴史建造物の橋の項で記載しましたラナ家の一員と目されるKumar Nursingh Rana Bahadurです。

これは当時のこの王宮の正面です。これは当時この王様の私邸として建てられたものです。1957年に着工し、ネパール人の工人により1年間で完成したそうです。

フランスのベルサイユ宮殿は、ルイ14世が建てたものですが、700室の部屋を持ち、1661年に着工しなんと完成まで50年も掛ったそうです。

はるか昔からネパールは技術面でも、芸術面でも非常に高いレベルの工人がおり、1645年から10数年掛けて完成した、今は中国に占領されているチベットの首都ラサにあるポタラ宮殿もネパールの工人により施工されたものです。

これは、今も宮殿の正面の屋根の上を飾っているライオンの像です。高い芸術性と冶金技術を示しています。

この宮殿は、7つの中庭を持ち、家具はヨーロッパ諸国から、ステンドグラスが飾られたドアはイギリスから輸入し、シャンデリアはミラノから、ベルギーから輸入した青色の鏡と自国の水晶をかざった噴水がある大広間で、1961年に先ごろ亡くなられたエリザベス二世女王と現国王のフィリップ王子をお迎えし華やかな歓迎式典が開催されました。

これはその大広間です。今は飾られていませんが多くの水晶が周りから噴き出す噴水に揺れ、軽やかな音色を響かせていたのでしょう。

これは中庭の様子です。このような中庭が7つもありました。

残念なことにこの王宮は1974年7月4日に、この王宮内部からの火災で焼失してしまいました。鎮火する迄、2日2晩燃え続け、残ったのはファサードのみでした。今はこのファサードを残し政府の各省庁が入る建物が付属し建てられ、官庁となっています。

下が今現在の官庁建物ですがもし、この宮殿が今もそのまま残っていたら、世界遺産の一つに加えられたかもしれません。そしてネパールはこの近代遺産を含め、より沢山の時代にまたがる世界遺産を保持する国となったのではないかと思います。

 

ヒティー(Hiti)と言うネパールの歴史建造物

ネパールのカトマンズ盆地にある首都カトマンズ、その南に隣接しているラリトプール、東にあるバクタプールは、ユネスコに登録されている世界遺産です。それぞれに王宮があり、王宮を中心とした古い時代の都市は、周辺の川の流れから50ⅿほどの高台に広がっています。
為政者がまず一番に考えなければならない要素は、住民に対して如何に毎日の水を提供できるかです。これらの都市には、1500年前から今まで変わることなく使われているヒティーという水の供給施設があります。

今でも生活の中で使われているヒティー

建設時は400ものヒティーあったそうですが、今でも200以上のヒティーが市民の生活の中で使われています。その代表的な構造は、カトマンズ盆地の周辺の山から導いた地下水路網と、その地下水路網の高さに合わせて地面から数メートル下がった水の受け口からなっています。

小さなヒティーは夏になると排水を止めて子供たちのプールに。

全くのフリーメンテではありませんが、ローマの水道と同じように泥や落ち葉などを除去するシステムがあるそうです。メンテナンスはその地域の住民が行っていますが、このヒティーや井戸は、今でも住民組織の基本単位になっています。

日本で最初の水道施設は、徳川家康が、人々の居住には飲み水や生活水の確保が必要だと考え、1590年に小石川上水を作らせたのが最初です。それより1000年も前の作られた水道施設が今でも使われているという動態保存の現状も、ネパールのカトマンズ盆地の都市が世界遺産に選ばれた一つの理由なのです。

ラリトプール王宮の中にある王様専用のヒティー

生活の中で使われているので街を歩いていると、ふとしたところに小さなヒティーがあって運が良ければ若い女性が水浴びしているシーンにぶつかることもあります。

ラリトプール王宮の中にある王様専用のヒティー

ネパールは、昔はローマに匹敵するくらいの文明国だったというネパールの凄いことを紹介させていただきました。

建物のムクロ

連日、ウクライナの色々な都市の破壊された様子が報道される。そこには破壊された建物がこれでもかこれでもかと容赦なく映し出されています。

同じような光景を昔、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナでも見ました。チトー大統領が三つの宗教と三つの民族の融和を図り、宗教を超え民族の壁を乗り越えて、一つの国として様々な人が当たり前のように生活していた。それが、何かの小さなきっかけで、隣家同士の銃撃戦の中で、それぞれの家族が傷つき、次第にそれぞれの宗教、民族ごとに争い始め、大きな内戦に進んでいってしまった。

このボスニア・ヘルツェゴビナで2年ほど仕事をしたとき『時の流れ』と『同化』と言うことを特に意識しました。この時は、内戦が終わってすでに9年ぐらいたっていましたが、いたるところに見捨てられた建物が建っていました。ただ、帰る家があっても隣人を信じることが出来ないため帰れないのです。

ウクライナが1991年にロシアから独立する以前、ソ連の民族融和政策によってお隣同士で住んでいたときもありました。しかし、ロシアのウクライナ侵攻によって、大きく分類すると兄弟のような民族同士が信じられない状況になっています。ウクライナもボスニア・ヘルツェゴビナと同じように建物の残骸が累累と打ち捨てられているようになるかも知れません。

それは自然の中に自然でない建物が生まれ、その意に反して生命を絶たれ、自然がその浄化作用で自分の傷口を治していく過程は人の時の流れの速さでは測れないほどゆっくり流れていくという実感を覚えました。何時になったらこの屍は自然に帰るのだろうか、人の時間では計れない時間が必要なのではないかと。

建物がその生命を終わらせるとき、どのような儀式がふさわしいのか、全ての物に神仏が宿ると考えた昔はどうだったのか、知りたいものです。昔、井戸を埋めるときに儀式をしたのを覚えています。今は忘れ去られた解体の儀式、撤去の儀式があったのではないでしょうか。

人間の生活がほかの動物のそれと同じように自然なものと考えると、コルビジェの考えのように人間が建てる建物も、蟻が作る蟻塚やビーバーが作るダムのように自然の一部とも考えらます。最近、人間が作る建物も単に部品が処理しやすいもの、再生しやすいものと言う考えから、建物そのものが自然に同化しやすい物、自然の浄化作用に適合する物が求められるようになってきています。漁礁や鳥の住処のように人間が住まなくなった時は他の動物が住むと言う考えもするかもしれません。ボスニア・ヘルツェゴビナでも人の住まなくなった家に沢山の鳩が住んでいるのを見かけました。

自然も人間社会も異なるものをその体内に取り入れるとき、長い時間をかけてそれを異なっていないものに変えていきます。時にはそれを浄化といい、時にはそれを同化とも言い、長い時間を掛けながら確実に変化を進行させます。

人間は、民族とか国とか社会とかと言う業を背負って生きています。人間がその業という異物を自然に同化していくためにはどのくらいの時間が必要なのでしょうか???

建築違反もここまでくると、実に愉快!

前稿は、民間で行われている建築違反の話でしたが、今回はもっとすごい公共の建築違反の話です。

2011年の国勢調査結果でこのパタン地域の人口集中の状況を調べると、次のような結果になりました。下の図はラリトプール市全域の区(Ward)毎に人口密度の棒グラフを表しています。グラフの一番高い棒がパタン地域の中の世界遺産地域の人口密度を表しています。

そこの人口は、なんと世界の首都の中で一番人口密度が高いと言われているモルディブの首都マレの1.3倍の人口密度の高さです。東京の何と3倍の人口密度です。

City population Density(p/ha)(世界の色々な首都とパタンの人口密度比較)
Patan World heritage area(パタンの世界遺産地域) 459(人/ヘクタール)
Male(Maldivesモルジブの首都マレ) 350
Paris(Franceフランスの首都パリ) 206
Tokyo(Japan日本の東京) 144

こんな状況の中で、法律なんか何のその、少しでも居住面積を増やし、快適な生活を望むのは人情。重々その気持ちをおもんばかって、住宅のせり出しには目をつぶるとしてもこれはないでしょう!

国立競技場の観覧席がドカンと歩道の上だけではなく、車道の上まではみだしています。ここまでやると何か痛快、愉快、欣快!!

多分、ネパールでは法務省も国土交通省も文科省も厚労省も環境省も、日本の省庁のようなセクト意識がなく、仲良く意見を出し合い国の発展のために最善の案を出し合っているでしょうね。その結果、「いいよ、良いよ、設計を変るのは大変だろ。ちょこっと道路の上に出たって。気にしない、気にしない。」

(そんな調子で日本のモリ蕎麦もカケ蕎麦も、友だち同士、井戸の中で民間も含め仲良くやって、若い世代の教育を推進しようとした結果だったんでしょうね。)

国の施設がここまでするんだったら、俺の家なんかが敷地からちょこっと1mや2m跳ねだすぐらいなんていう事ないね、なんて言葉が出てくるね。私の勤めていた役所の連中が何も言わない訳が分かったような気がするね。

もともと歴史建造物のネワール建築は、庇を大きく道路にはねだしていましたから、はるか昔から敷地境界なんて小さなことを考えず、「世の中も個人も一心同体。世の中のものは私のもの、私のものはわたしのもの。」という広い気持ちできたのかな~~??

狭くなる空(あなたの空は私の空)

ネパールで活動していた時、私の事務所は世界遺産に指定されていたパタン地域にありました。毎朝、私が事務所に通う道が、何か少し暗くなったなと思い、見上げると、空が狭くなっていました。その道は4階建のネワール建築が立ち並んでいた狭い路地です。もう「立ち並んでいた。」と言う過去形でしか言えません。

此の事務所に通っていた2年間に100年以上の歴史を持つ20以上のネワール様式の建物が、新しく鉄筋コンクリート構造の建物に改築されました。ネワール建築の住居は、通常4階建で、1階は水場と倉庫、2階は主に寝室、3階は居室、4階は台所・食堂という配置です。このしゃ(ネワール建築での生活については「動態保存の家に住む難しさ」という稿であらためてお伝えします。)

伝統的なネワール建築様式の住宅

古い歴史建造物の家は観光客にとっては素晴らしい景観ですが、そこに住み日々の営みを続けることは、近代的な生活を知っている住人にとっては不便極まりない状況です。経済力を持ったネワール建築の家主は、その家を壊しコンクリートの建物を新築します。

建て替えることは致し方ないとしても、問題はその建て方です。上階に行くほど徐々に道路にはね出して、居室を広くしているのです。当然、空は狭くなります。勿論、自分の敷地をはみ出して建物を立てる事は法律違反です。しかし街を、気を付けてみると、どこでも同じように道路に跳ねだして家を建てていました。

私の配属先「ラリトプール市都市開発部」は、新築の建物の建築許可を出す所ですが、建築指導もする部署です。その直ぐ傍の通りの空が狭くなっているのです。しかし、なぜか誰も何も言いません。ここネパールでは住宅規模程度では、新築工事完了後の完成検査、建物使用許可書発行、そこで初めて建物の使用が出来ると言う日本にあるような制度によるチェック機能が働いていません。ですから「公共の空間は俺の物」と言う事がまかり通ってしまうのです。

両側からせり出して、ついには通りの向かいの建物とくっついてしまい、アーケードになってしまうのではと、思ってしまいます。

 

ネパールの国勢調査で分かる人々の生活

レンガとコンクリートの建物

前稿で扱いましたネパールの国勢調査項目には我々、日本人にはなじみのない項目が並んでいます。
まず、建物についてですが、建物の基礎の種類(泥目地煉瓦、セメント目地煉瓦、杭使用RCC、木杭等)、外壁の種類を質問している項目があります。これは地域防災と耐震技術を担当していた筆者には実に有効な情報でした。只、公表されている単位がward(日本で言うと区)レベルで集計されており、もしその下のcommunity(日本で言うと町)レベルであればより詳しく実像に迫れるのだが、と少し残念でした。


次に日本と違う項目は、飲み水についての質問です。水道水、井戸水、雨水、河水などの項目に分かれ、井戸水の項では、蓋をしている井戸か、カバーをしていない井戸か細かく尋ねています。はるか昔から国を統治する者にとって民に十分な飲み水を与えるという事は国の安定のためにも、公衆衛生の為にも重要な調査項目です。(昔、ネパールの治世者がどうやって民衆に水を与えていたのかは、他の項でお知らせします。) ただ、私たち日本人は余りにも便利な環境の中で生活しているために、こんな単純で基本的な最も重要な項目を忘れがちです。

次に日本と異なる点は、料理に使う燃料の種別を尋ねています。薪、石油、プロパンガスなどの種別を尋ねていますが、少し変わっている物として、「牛の糞」や「その他」という項目もあります。ネパールだけでなく隣国のパキスタンでも、田舎に行くと燃料にするため丸く平らにした牛の糞を、石の上で乾かしているのをよく見かけました。「その他」という項目には、太陽熱利用も含まれますが、日本で考えるような太陽熱を電気に替えるというシステムではありません。これは、パラボラ・アンテナのような形の集光機で熱源を得て、煮炊きにその熱を使うものです。実に単純な仕組みで光が集まる真ん中に鋳鉄製の鍋を置いて直接温める仕組みでしたが意外に早くお湯が沸くそうです。

太陽熱調理器。集光機の中央に鍋が置かれているだけです。

燃料政策に失敗したアフリカ大陸の東側にあるマダガスカルでは、大部分の樹木が薪に使われ、丸裸になった土地や畑の土は川に流れ、川の河床が高くなり、水田地帯が沼に替わり、食料の米の生産量も落ちました。燃料問題は、国土を維持していくうえで重要な問題です。
ネパールの国土の幅は、ほぼ日本の本州と同じくらいですがネパールの場合、北の中国国境から南のインド国境まで最大標高差は8,000m以上あります。如何に国土全体の表土を保つための樹木保全が必要なのか、わかる気がします。

日本の国勢調査の項目は、世帯の人数、生年月、国籍や仕事の従事の有無、従事地や通学地などがありますが、住居については賃貸か持ち家か或いは一戸建てか共同住宅か、床面積などを訊いています。また、5年前にはどこに住んでいたかを尋ねる項目もあります。これらの項目を見ていますと、日本の国土の中で、人がどのように生活し、移動しているのかをダイナミックに把握しようという意図が判ってきます。
しかし、いま社会的に問題になっている女性の社会進出や、労働力の問題、所得格差、貧困の問題などをより細かく把握し、日本の将来を見据えた方針を確立のためには、国勢調査項目は見直す時期なのかもしれません。日本の政府が莫大な借金を抱えた今、従来の方法や考え方に疑問を持たなければならない時なのではないでしょうか。特に日本では、10年毎の国勢調査以外に5年毎にも調査(この調査の調査項目は17項目です。) をしていますので、より細かく実情の把握が出来るシステムになっています。
ネパールでも日本でも、国勢調査の項目の中に、都市部の一所帯の家族人数を調べている項目があります。日本の場合、全国平均で2.54人、それに対してネパールの数字は4.32人。最近、ネパールでも小家族化が進んでいると言われていますが、まだまだ何か昔ながらの家族の存在がある様で、ホッとしました。

兎に角、この国勢調査の数字を読んで行くと、私の下衆の勘繰りも満足させてくれますし、色々と興味が尽きません。また、色々と日本やそれ以外の国との比較をやり始めると面白い物が次々と出てきそうです。今後も、ネパールの国勢調査結果を読み解きながら面白い事が見つかりましたら、この「阿寒平太の世界雑記」に書いていきます。

 

オペラ劇場の究極の舞台背景

今回はオペラ劇場の舞台背景についてお話ししましょう。

[オペラ劇場と舞台背景]
この舞台背景となる大道具の製作や設置には、どの劇場も独特のSystemを持っています。プラハの国立オペラ劇場(1888年完成)は、第二次世界大戦の際に破壊されましたが、新築当時以上の華麗なオペラ劇場として再建され毎年20以上の演目を200回以上公演しています。ヨーロッパでこの劇場ほど昔の劇場の姿を美しく留めながら、オペラや演劇を機能的に上演できる劇場は無いと言われています。再建の際にオペラ劇場の古い姿を其の儘に保持しながらレパートリー劇場として機能強化を図りました。

このオペラ劇場の周辺に近代的な3つのビルを建築し、地下で結んで大道具、小道具の製作部門を移し、これの移動に特殊なトロッコシステムを導入しました。加えてこれらの3つのビルには演劇、バレー、演奏などの練習場、演劇劇場、音楽関係の協会など舞台芸術に関係する全てのSystemが収まっています。チェコの舞台芸術のレベルの高さはこんな施設によっているのでしょう。 日本のオペラ劇場としては4面舞台を持つ新国立劇場が挙げられます。此処もレパートリー劇場を目指しているそうですが、今後どのような展開に成るのか楽しみです。

下の写真は、イタリアのヴィツェンツァ(Vicenza)にある世界最古の木造オペラハウスと言われるオリンピコ劇場(Theatro Olimpico 1584年完成)です。この劇場には慶長年間1615年にローマ法王謁見の前に支倉常長がこの劇場を訪ねており、劇場ホールにその記念プレートがあります。この劇場の舞台背景は街並み或いは豪華な室内とも見える固定背景です。古代ローマ劇場を模して造られたとい言われていますが、この固定背景の意匠が客席まで続いて一体感を表しています。固定背景の場合、演目は限られますがこの劇場ではモーツアルトの「魔笛」や、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」など意外に思うような演目も演じられ、各種の室内楽演奏にも使われています。しかし、此処の舞台背景は究極の背景と言えます。

ヴィツェンツァはルネッサンス期の建築が沢山残されており、建築美術館と言えます。一度は訪問して素晴らしい建築群をお楽しみされるようにお勧めします。

オリンピコ劇場

オペラ劇場と日本の芝居小屋

今回はオペラ劇場の裏側や劇場の衣装、舞台装置の製作についてお話ししましょう。

[オペラ劇場とエンターテイメント]
ガルニエ宮と呼ばれるパリの国立オペラ劇場(1874年完成)は、馬蹄形のパーケット席(平土間席)をとりか組むように5人程度が座れるBox席があります。このBox席には胸に仰々しく勲章を下げフロックコートを着た厳めしい感じの担当サービス係がいますが、なかなか物を頼めると言う雰囲気ではなく、ある時、このBox席で私は全く面識のない同席の4人の女性の為に幕間に、飲み物をサーブするのに大汗をかいた事がありました。

馬蹄形にカーブしている廊下の内径側にはBox席そして、外径側にはそれぞれのBox席専用の着替え用小部屋があります。Box席への扉を開けると片側に長椅子が置いてある小さな前室があり、其の奥の分厚いカーテンの先がBox席です。オペラがつまらなくなったら何時でも後ろのスペースでごろ寝が出来る、そんな空間がBox席にはあるのです。ヴェルディのオペラ「椿姫」の主役の女性のヴィオレッタはそんな華やかな空間を舞台にした職業婦人だったと言われています。

ガルニエ宮パリ国立オペラハウス

Opera・du・operaと言うオペレッタの舞台背景では、この廊下側から見たBox席の扉が並んでおり、そこで起こる男女の密会の話ですが、このオペレッタの中で銀の器をもったボーイがBox席に出入りしていました。つまりオペラ劇場と言うのは、「聞く、見る、飲む、食べる、買う」と言う総合エンターテイメントの世界でした。

[オペラ劇場と下請制度]
丁度、ヨーロッパのオペラ隆盛と時を同じくして日本でも勧進帳の初演が1840年、歌舞伎十八番の制定など歌舞伎も隆盛期を迎え、芝居見物は庶民にとって大きな楽しみでした。江戸には幕府認可の江戸4座だけではなく「宮地芝居」の小屋掛け芝居小屋が沢山あり、芝居演目で使う鬘(かつら)、衣装、舞台装置、舞台小物は下請けが製作していました。

所がヨーロッパの芝居Systemでは、下請制度が無く、当時からオペラ劇場には衣装制作の為のお針子の部屋から小道具、大道具製作室、はては布を染色する部門まであり、現在も使われています。これは、オペラ劇場は当時の為政者であった王侯貴族が開設した謂わば官制劇場であり、日本の芝居小屋は民間の起業家によって建てられたと言う違いによるものです。この下請制度は民間企業のスリム化、リスク分散、専門業者による高度技術化が図られた結果で、これも日本の近代化の一つの支えに成ったと言えます。

また、江戸時代は庶民はドレスコードなどに縛られることなく、沢山ある芝居小屋から演目を選び、気楽に芝居や演芸を楽しみ、それが民衆の大きなエンターテイメントになっており、民衆の文化度を挙げていました。

[オペラ劇場と上演形式]
オペラの面白さは、その内容だけではなく劇場の上演形式や、劇場の広さ、演目による舞台背景などにより大きく影響を受けます。先に述べたガルニエ宮やミラノのスカラ座などのオペラ劇場では色々な演目を日替わり公演するレパートリー制と言う興行システムを採っています。歌舞伎座や宝塚劇場が同じシステムです。ロングラン公演の場合、一つの公演用の舞台装置、背景しかいりませんが、レパートリー制の劇場の場合は上演する演目の数分を用意する必要があります。ミラノのスカラ座の場合は、サイド・ステージが無い為、色々な舞台装置、背景がバックステージに林立している状態です。

これに対して新しくパリに出来たオペラ・バスチーユ(1989年完成)は、バックやサイドの舞台に加えてそれぞれの舞台の地下にの舞台があり合計で9面の舞台で、主舞台をそっくりそのまま舞台転換できます。背景を置いておく舞台の数が多ければ、幕間の時間も短くなりますし、演出家は大きな舞台装置、背景を自由に構想出来ます。ベニスのフィニーチェ劇場やウィーンのフォルクスオパーなどの小さな劇場では舞台転換で、40分以上待たされた事がありました。ヨーロッパのオペラ劇場では夕食時の幕間が1時間半位あり、観客は劇場の外のレストランに食事に行き、舞台の上では大きな舞台転換の作業をしています。

日本からエジプトに贈ったオペラ劇場

2010年、『オペラ連盟が文化庁からの支援金を水増し』、『景気の影響で海外オペラや音楽の来日公演は、2008年比で1/3以下減少』など芸術オペラとは違う面のニュースが流れましたが、今回はオペラ劇場に纏わる芸術には余り関係のないお話しをしましょう。

[オペラ劇場と政治の世界]
昔の事ですが、私が建設会社の技術者だった時、エジプトでオペラ劇場を建てた事があります(1988年落成式)。このオペラ劇場は、日本からエジプトへの贈り物として建てられました。

エジプトは、スエズ運河の開通記念式典(1869年)に招いた多くのヨーロッパの王侯貴族を歓待する為にオペラ劇場を造りました。このバレー、演奏、声楽に演技が加わったオペラと言う複合芸術の場は、エジプトの音楽レベルを高い水準にしましたが、残念な事に1971年に焼失してしまい、育った芸術家たちはヨーロッパに散って行きました。

そこで日本からの贈り物のオペラ劇場です。日本・エジプトの友好強化、教育水準向上などODAとして色々な理由はありましたがその当時、日本にはオペラ劇場は無く、日本の国会では「自国にもないものを贈るとは!」と言う事で紛糾しました。しかし、ヨーロッパの諸国は、オペラ劇場をプレゼントしたと言う事で日本の文化度を高く評価し、エジプトでも記念切手や絵葉書が多数発行されました。因みにその時に日本側がつけたプロジェクト名は「エジプト教育文化センター」と言う隠れ蓑的な名前でしたが。この時の駐エジプト日本大使は、バレーの筋書きの作家で大のオペラファンだったとの話も聞きました。

日本で寄贈したオペラハウスを記念して発行された絵葉書

 

日本の寄贈したオペラハウスの記念切手及びシート

さて、私はこのオペラ劇場建設の際に、劇場設計、音響、照明、舞台装置など其々の専門家の方々と、ヨーロッパ諸国のオペラ劇場の調査を行いました。昼は調査、夜はオペラ、レヴューを見て、見終わると舞台比較論に明け暮れる毎日で、実にハードな業務出張でしたが夢のような素晴らしい時間を過ごしました。

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