阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 覗き見散歩

阿寒平太の覗き見散歩・芸能・隅田川(2)

菅原考標(すがわらたかすえ)女(1008~1059年)が綴った『更級日記』の中に、上総介であった父に同行し、上総国から帰郷する際、「まつさとのわたりの津」(現・千葉県松戸市)を通って西に向かったとかかれています。平安から源平時代にかけては世紀以降、最大の温暖期で現・東京湾もかなり内陸まで入込んでおり、この時期の官道は北のほうに移動していたようです。

さて、これまでの色々なお話で昔の隅田川が川岸の風景が目に浮かんできます。それは見渡す限りの葦原です。(目をつぶらないとそんなイメージは浮かんできませんが。)しかし、江戸時代には、浅草近辺は諸国貿易の中心地でしたので両側に倉庫や店がずらりと並んで居ました。江戸時代はこの辺りの隅田川を「おおかわ」と言い、東岸を隅田川堤、西岸を大川端といいました。

それでは阿寒平太の覗き見散歩のルートです。日の出桟橋から乗った水上バスを大川端の浅草で降ります。江戸時代でしたら芝居茶屋や新吉原の茶屋の出迎えを受け、手を添えられて船から下りるのですが、今はそんな悠長なことをしてくれる人もなし、さっさと降りましょう。

降りた所が墨田公園の直ぐ横ですが、この公園の桜も実に見事です。水上バス乗り場の前の墨田公園駐輪場で台東区のレンタサイクル(6時から20時までで身分証明書の提示が必要です。利用料金は200円/日 墨田区道路交通課 自転車対策担当 TEL03-5246-1305)を借りてさて、歴史散歩に出発です。

隅田川堤の長命寺から梅若塚・木母寺を回り、大川端に戻り昔の新吉原を突き切って、鳳神社に寄って、浅草寺にお参りし出発点の墨田公園駐輪場に戻ります。全工程約9kmのサイクリングです。

長命寺には琵琶湖竹生島の弁財天の分身が祭られております。琵琶を持った色っぽい神様で知られる弁財天は、もともとはインドの河(水)の神様でしたが、日本に伝わってからは弁舌や音楽を司る芸能の神様として信仰されています。境内には芭蕉の句碑や十返舎一九の辞世の狂歌碑や色々な歴史的なものがありますが、ここで重要なことは門前の『山本や』の二百数十年の味を伝えている桜餅です。関西の道明寺の桜餅と違って、円形のクレープの様な薄皮で甘さを抑えた餡を包み、それを桜葉で包んであります。此処に寄って桜餅を食べながらお茶を飲む、これは素晴らしいことです。(これは全く余計なことですが昔、向島で芸者遊びのお土産は決まってこの桜餅でした。)

その次が江戸時代から昭和まで長い間続いた新吉原です。日本橋辺りにあった吉原を江戸の町の発展に伴い移した所で、今は千束4丁目ですがその面影を残し、風俗営業の店がずらり。夕方にはとても素通りが難しい所ですが、昼間は全て閉まっています。地図を見ながら周ると良くわかりますが、昔の新吉原を囲っていた鉄漿(おはぐろ)溝(どぶ)が道となってこの地域を四角く囲っています。
此処から鳳神社、浅草寺と回り出発点の水上バス乗り場に戻りますが、桜を見たり途中で桜餅を食べたりで、のんびり時間を過ごし夕方、5時頃に戻る計画で回ってください。

頃も良し、江戸時代での時刻では日没の暮れ六つ。浅草寺周辺にはなかなかおいしい店がそろっています。より取り見取り、それほど老舗が多く迷った末今回は店を選びません。
お腹を楽しませた後、今日の締めくくりは、明治13年(1880年)創業
「神谷バー」(台東区浅草1丁目1番1号TEL (03)3841-5400)です。

ここでかの有名な「デンキブラン」というブランデー・ベースのカクテルが出来たのは明治15年(1882年)、建物は大正10年に建てた物を現在も使用、と言う兎に角、歴史を感じさせる建物。此処の3階の和風レストランで食事と言う案もあるが、やはり食事をした後、ぶらりとバーに入ると言う過程が大切。
まっ、人それぞれでしょうけど。

酔ってふらっとする間もなく、地下鉄・東京メトロの浅草駅。花と歴史と芸能を楽しんだ一日でした。

隅田川の桜

阿寒平太の覗き見散歩・芸能・隅田川(1)

『春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂のしずくも 花と散る 眺めを何に たとうべき。』 この時期に隅田川の花を楽しみながら、日本の芸能に親しむと言うのが今回の「阿寒平太の覗き見散歩」です。

今回の覗き見散歩は、船を使い、貸し自転車を使い、のんびり且つ動きがよい散歩です。隅田川を上りながら川から土手の桜を楽しみ、「隅田川」ゆかりの地を貸し自転車でぶらりと回り、暮れ六つ(6時) 頃、浅草寺周辺に沢山ある老舗の鰻屋或いは牛鍋屋で、空腹を満たし、一日の散歩の締めくくりを東京メトロ・浅草駅のすぐ傍の大衆的なバー「神谷バー」で一杯やって、締めくくると言う散歩です。

出発点はJR浜松町駅南口から徒歩8分の「日の出桟橋」です。時刻は午後2時頃が良いでしょう。隅田川を上って行って、吉原や州崎へ粋な遊びに、或いは猿若町に芝居見物に繰り出す勢いで船に乗り込みます。乗船している時間はわずか40分間。橋の説明や川岸の風景については船の中の放送でも説明されますので、ここでは説明しません。

さて、隅田川と言えば「能」の『隅田川』や歌舞伎の数々の「隅田川物」、舞踊の「隅田川」。この元は墨田区堤通の梅柳山木母寺(ばいりゅうざんもくぼじ)に伝わる「梅若権現御縁起」の梅若伝説です。

『子宝に恵まれなかった京都北白川の吉田少将とその妻は日吉宮に祈願して梅若丸を授かった。5歳の時、父と死別した梅若丸は7歳の時、比叡山月林寺に入り、その英才を賞せられた。しかし、その才を妬まれ、襲われた挙句に人(ひと)商人(あきんど)にかどわかされ、奥州に向かう途中の隅田川のほとりで病に倒れ、梅若丸はわずか12歳で帰らぬ人となった。我が子の行方を捜し求めて狂女になった母が渡し守から、我が子の死を知らされたのは丁度、一周忌のことであった。その夜、母の思いが通じ梅若丸の亡霊が現れる。母は墓の傍に庵を作り暮らしたが結局、浅茅池に身を投じてしまうが、不思議にも亀がその亡骸を背に乗せ浮かび上がってくる。母を妙亀大明神としてまつり、梅若丸は山王権現に生まれ変わった。』

この話を謡曲にしたのが世阿弥の嫡子観世元(かんぜもと)雅(まさ)で、謡曲「隅田川」は妙亀大明神と山王権現の部分を除くとほぼこの梅若伝説の通りです。

この謡曲「隅田川」を下敷きにして、歌舞伎の世界では鶴屋南北(四世)作「隅田川花御所染」(通称、女清玄)、「隅田川」(竹本義太夫正本)、近松門左衛門の「雙生(ふたご)隅田川」、「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」などの「隅田川物」と言われるジャンルが出来ましたし、大正時代に作られた舞踊「隅田川」は登場人物も狂女と船頭の二人で隅田の渡しのシーンが演じられます。
この様に中世から近世まで多くの隅田川物が作られた背景には「狂女物」の世界と「人買い物」の世界と言う、中世の貧困の生活の中で多く語られた現実の二つの世界が「綯交(ないま)ぜ」になっていたからだと言われています。

源義経の一代記「義経記(ぎけいき)」には源頼朝が治承四年(1180年)、平氏打倒の石橋山の合戦に敗れた後に再起し、安房国から鎌倉を目指した際、増水で海のようになった隅田川を前にして5日間も足止めされた話が出ています。その時、江戸(えど)重長(しげなが)が千葉(ちば)常(つね)胤(たね)、葛西(かさい)清(きよ)重(しげ)の助けを借りて海人の釣り船数千艘で浮橋を作り、頼朝を渡しました。場所は東武伊勢崎線の「鐘ヶ淵駅」の南側を東西に走る古代東海道が、今の隅田川にぶつかるあたり一帯といわれています。此処に先に述べた木母寺もあります。

「昔、おとこありけり」で始まる「伊勢物語」の在原業平(ありわらのなりひら)が『名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思う人はありやなしや』と読んだ所も、この古代東海道の隅田川の渡し(朝廷が管理する渡し)でした。古代東海道(官道)はほぼ直線に京の都と地方を結び、この道も此処からまっすぐ葛飾区立石を通り千葉県市川の国府台に延びています。官道には立石、大道という遺称地名が多く残されています。

隅田川の桜

 

阿寒平太の覗き見散歩・江戸、明治をめぐる文学と芸能の散歩

今回の「阿寒平太の覗き見散歩」は、色々な睦びを訪ねる散歩です。江戸時代からの芸能「落語」を覗き、明治時代からの牛鍋に舌鼓を打ち、1月25日に行われる湯島天神の「鷽替神事」を訪ねた後、その名前も散歩を締めくくるにふさわしい大人のバーOnce upon a time(ワンスアポン・ア・タイム=昔々)で酒を楽しむと言うものです。

今回の散歩は上野の「鈴本演芸場」が出発点です。鈴本演芸場(開業1857年)は、江戸時代から大衆芸能、特に落語の殿堂でした。江戸時代では落語の他に浄瑠璃・軍事読み(講談)・手妻(奇術)・八人芸(一人で八人分の楽器の鳴り物や声色などを聞かせる芸で腹話術の原型)・説教・祭文・物真似などが上演され、安政年間(1854-1860)江戸には落語・講談の寄席が合計して約四百軒もあり、江戸時代に如何に素晴らしい大衆文化が花咲いたかわかります。 落語の歴史は何時からと言うのは難しく、『徒然草』(1330年)の兼好法師が『落語系図』に名をつらねて、落語の歴史の上に噺家として登場していることからも古い歴史がわかります。

落語には「落ち(サゲ)」、語り口(弁舌)の上手さ、仕型(仕形・仕方=身振り手振り、表情)の3つが大切です。落語は、しゃべるだけでなく、高座に正座して上半身の洗練された身振り手振りや表情によって、用いる道具も普通は扇子と手拭いだけで、一人で大勢の登場人物や情景を描写しわけなければなりません。それを見るのが寄席の楽しさです。

初天神の落語と言えば、落語「初天神」があります。『何時も物を買ってくれとねだる息子をしぶしぶと初天神につれてきた男。何やかやとねだる息子の作戦に負け、ついに大きな凧を買うはめに。子供時代腕に覚えがある男は、子供を差し置き、凧上げに夢中になり、子供は「こんな事なら親父なんか連れてくるんではなかった。」とぼやく。』 当日、この落語がうまい具合に聴けるかどうかは「鈴本演芸場」のHP(http://www.rakugo.or.jp/)をご覧ください。

さて鈴本演芸場には昼の部中入り(午後3時位)に入ります。勿論、座る前に売店でビール或いはコップ酒とつまみを買って落語を見ながら、ごくごく、ちびちび、飲みながら、つまみながら。これが又、寄席の楽しさです。二時間ほど楽しんで出ます。

鈴本演芸場の前の広い道路は、江戸幕府が火災発生の際に類焼を防ぐ為道幅を拡げた所で、今の道路幅はそのままです。この辺りは江戸時代に幕府の茶礼.茶器をつかさどり、殿中に於いて茶を供する数寄屋坊主が拝領した拝領町屋で、下谷御数奇屋町と言いました。さてこの上野広小路から春日通りに入り、湯島天神下までは江戸時代には無かった道ですが、湯島切通し坂は江戸時代のままです。

湯島天神の下を通り、少し切通し坂を上ると左側に江知勝(文京区湯島2-31-23、電話 03-3811-5293営業時間17:00~21:30)があります。ここは、創業明治4年ごろと伝えられている牛鍋屋です。明治8年の毎日新聞には、鍋料理の番付表で前頭にランクインしている老舗中の老舗です。味付けに使う割り下は、伝統的な関東風でちょっぴり辛口。しょうゆと砂糖、みりんといたってシンプルですが、何と開店当初から130年間使い続けているものだそうです。東京帝国大学のすぐ裏と言う場所柄、文人、教授などの溜まり場だったとの事。

ここで明治の味を楽しみ、お腹一杯になった所で食後の散歩に湯島天神まで。ここで木彫りの「鷽」を授与してもらいます。ここは江戸時代から梅の名所として庶民に親しまれて、園内には約300本の梅がありますが、ここの梅祭りは2月8日~3月8日の1ヶ月間ですが、早いものはこの「初天神」には咲いています。

鶯の授与

この神社は明治の文豪・泉 鏡花の小説『婦系図(おんなけいず)』の結ばれぬ「お蔦、主税」の悲恋の舞台としても有名で、境内には鏡花の「筆塚」もあります。この境内の開門時間は午後8時迄ですのでご注意ください。

現在の本殿は平成7年12月に、総桧木造りで建て直されましたがその際、日本初の建設大臣認定第一号として木造建築が許可されました。建築に携わる人には一見の価値ありです。

湯島切通し坂を天神下の信号まで下りて、そこを右折し神田方向に約300m歩き左折して二つ目のブロックにOnce Upon a Time(=昔々 住所:台東区上野1-3-3 電話:03-3836-3799)と言うバーがあります。江戸、明治時代と巡って来た散歩を締めくくる所がこのバーです。古い倉庫を思わせる明治初期のレンガの外壁にOnce Upon a Timeと言う赤いネオンが点き、入ると古い木材を使った内装。酒だけを飲ませると言う雰囲気の大人のバー。そんなバーの片隅に座り「お蔦」と言う昔の女に思いを馳せながら、今日の散歩を終わりにしましょう。ここは営団地下鉄千代田線「湯島駅」迄歩いて3分の位置です。

 

鷽替(うそかえ)神事

(この記事は12月に書いたものをアップしました)

来月はもうお正月「睦月」です。 「睦月」の意味は、人々が集まって宴をする「睦び月(むつびつき)」とする案が有力だとの事です。

天神或いは天満宮は、菅原道真を「天神」として祀り、彼の怨霊のたたりを鎮める為に作られた神社ですが、其のいきさつを講談風に語ると次の様なものです。

『400年の長きを誇る平安時代の始まりから100年ほど経った宇多天皇の時代、頭の良かった菅原道真(大伴旅人、大伴家持などを輩出した歌人、学者の家系)は、普通の事務係(18歳で文章生)からあれよ、あれよと言う間もなく出世に次ぐ出世。41歳で香川県知事(讃岐守)、46歳で天皇秘書官長(蔵人頭)、そして54歳にしてついに右大臣(朝廷の最高機関の最高位)。
しかし、出る杭は打たれるは世の常。左大臣にチクられたとか、天皇家のお家騒動に巻込まれたとか、色々噂はあるものの、ああ、九州の大宰府に左遷。その頃の大宰府は、いわば軍の九州方面本部で九州地域の軍事、外交の要、彼の役職は副本部長(太宰権帥・だざいのごんのそち)。実質は中国との交易利権も含め権限は副本部長に集中していたとの事。
こんな美味しいポジションはそうそうない。所が、おえらいさんの左遷先としても有名でまあ、今風に平たく言うと「左遷するけど、余生は年金なしでも安泰、安楽」。私だったらそこでのんびり暮らすけど、彼は違ったね。左遷2年後に大宰府で病死後、怨霊となって清涼殿に雷を落としたり、疫病を流行させたりの大活躍。「まあ、なんとか穏便にお願いします」と言う事で彼を神様にして造られたのが「天満宮」。』

彼が優れた学者であったことから「天神様」は学問の神様ともいわれ、教育熱心な日本全国に広まり、約8万社ある色々な神社の中で第3位、5%の約4000社が「天満宮」です。

彼が生まれたのは6月25日、左遷命令が1月25日、命日が2月25日で、毎月25日は「天神さんの日」とされ、1月25日を「初天神」といいます。(神社も意外に簡単にイベント日を決めるものですね。)
「初天神」この日、「天満宮」では「鷽(うそ)鳥」(名前は口笛の「おそ」から来ている。全長15cm程の小鳥で、130円切手デザインのモデル)の木彫りが授与されます。「鷽」という字が学の旧字に似ていることから「天神様」のお使いとなっているそうです。

鷽替神事は、この授与されたこの木彫りを、「替えましょう、替えましょう!」と言って隣の人と取り替えて、嘘を誠にするという行事です。

湯島天神鷽替神事

阿寒平太の覗き見散歩・お酉さま(2)

一葉記念館から、さらに一ブロック進んで右折し30mほど進み、信号・飛不動前を左折しますと、すぐに飛不動尊(龍光山正宝院)の入口が目に入ります。「本尊の不動が一夜のうちに大峰山から飛んで帰って来た」事から、江戸時代では「道中安泰」、現代では特に「航空に携わる人々或いは飛行機の旅の安泰」を願う人々の参拝を集め、「飛行護」というお守りを授与しています。しかし、パイロットが本殿の前で熱心に祈り、お守りを買う姿は余り見たくはありませんね。飛行機への信頼感が揺らぎます。

此処を出て右に進むとすぐに五差路にでて、斜めに走る少し太い道を右に行くと、すぐに国際通りの信号・西徳寺前と言う交差点に出ます。道路を渡り少し三ノ輪方向に戻り、二つ目の角を左折すると、大音寺の入口です。大音寺は「たけくらべ」の真如が育った龍華寺のモデルと言われていますが、落語の「悋気の火の玉」の舞台としても知られています。「吉原の遊女上がりの妾と本妻の火の玉が大音寺の前でぶつかり合い、大音響を立て・・・」と言う話ですが、吉原、根岸の里と言うとこの手の落語が生まれます。

この大音寺の先に正燈寺という寺があります。この寺は360年以上前に京都の高尾から紅葉を移植し、江戸時代の名所絵図には紅葉寺として登場するほどの景勝地で、その見物を口実に吉原遊郭に遊ぶ客が多かった所です。『鬼平犯科帳』『御宿かわせみ』などの時代物には登場する寺で、江戸末期の地図では敷地も大きく大音寺、その南隣りの西徳寺などと接し、景勝地と言われる規模を誇りましたが、今は残念ながら規模も小さく紅葉は見られなくなってしまいました。

先ほどの信号・西徳寺前に西徳寺という寺があります。この寺は大正12年の関東大震災で本堂が全壊しましたが、昭和5年に参詣席が椅子席で、鉄筋コンクリート造の本堂が再建されました。時代を先取りした寺院建築史の一頁を開く建物で、建築にたずさわる者としては見ておきたい施設です。

西徳寺の山門を出て右方向50mほどに信号・鷲神社前があります。この信号を右折し最初の角を曲がると普茶料理・梵(ぼん、台東区竜泉1-2-11 TEL 03-3872-0375)があります。
普茶料理は約300年前、明の隠元禅師が来日した折より伝わる精進料理で、これが野菜だけで作る料理かと目を見張ります。多くの料理が次々に出てきますが、簡単にお腹に入って行き、ちっとももたれません。

梵のメニュー

 

この店は予約が必要ですが、今まで覗いた所の開館時間や参拝時間を考えると、食事を始める時間は、少し早目ですが5時だと適当でしょう。三ノ輪を2時に出発しゆっくり回っても3時間あれば十分です。1時間の食事の後、暗くなって鷲神社の明るく華やかに灯る店・店を回りたいものです。

この時間には、鷲神社の鳥居の前にはものすごい行列が出来、物々しく警察の警備車両が並び、さすが江戸から続く祭りとうならせる雰囲気です。大きい熊手、小さな熊手、おかめの面が付いたもの、枡がついたもの、形も大きさも色々。色々な光に華々しく浮かび上がる日本の色の洪水。
勿論、熊手の値段も色々で値切る交渉もそれぞれ。ただ、それも遊びのうち、熊手の原価計算をしても野暮というもの。値切って値が決まると、ご祝儀に元の値段以上に払って、しゃんしゃんと手締め。これが粋というもの。

さて、ゆっくりと酉の市を楽しんだ後、国際通りをさらに三ノ輪とは反対方向に進むと、信号・西浅草3丁目の先の右手に浅草ビューホテルがあります。此処まで鷲神社から15分も掛らないでしょう。つくばエクスプレス出入り口2番に近いビューホテルの角を右に入ると、「バーリー浅草」(台東区西浅草3-15-11、電話:03-3847-1066 営業時間:平日・土日祝日 18:00~1:00)というバーが左手にあります。
このバーは昭和63年創業の落ち着いた大人のバーという雰囲気で、今日の散歩を締めくくるにはふさわしい所です。『酒を飲む所で女の話は野暮というもの』という思いが脳裏をかすめますが、はかなくも24歳の短い人生を生きた明治文学の美女を語る事は許してくれそうです。

樋口一葉照影

ゆっくりと時間が過ぎるのを楽しみ、帰りは目の前の「国際通り」に埋まっている「つくばエクスプレス」の「浅草駅」も、銀座線「田原町」、「浅草」も至近距離です。

 

阿寒平太の覗き見散歩・お酉さま(1)

今回の「阿寒平太の覗き見散歩」は、お酉さまをハイライトにして、根岸(前に季語を付けるとすぐに俳句になると言う『根岸の里の侘び住まい』)を覗きながらの樋口一葉の足跡を訪ね、医食同源の精進料理、普茶(ふちゃ)料理を楽しみ、お酉さまの後は、大人の雰囲気のバーで酒を楽しむと言う散歩にご案内します。

散歩の出発点は三ノ輪です。三ノ輪には東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅と都電三ノ輪橋駅がありますが、お勧めは三ノ輪橋駅です。大塚駅前からこの都電に乗って三ノ輪橋までの風景は、他の車窓からの風景とはまるで違います。電車に触れんばかりに目の前を通り過ぎる生活風景は実に新鮮です。

都電三ノ輪橋駅から昭和通りに出て右折し、明治通りの交差点、信号・大関横町を過ぎて直進すると、信号・三ノ輪に出ます。(此処までは5分程度です。) ここの下が東京メトロ・三ノ輪駅で、ここからが今回の散歩の主題が点在する「国際通り」の起点です。

「国際通り」は、松竹の国際劇場(ああ、SKDレビュー!なんと陽気で、華やかで、素晴らしい世界だった事か!) があったことから付いた道路名です。今では、それも浅草ビューホテルになり、名前の根拠をなくし、周辺の商店街は「ビートストリート」と愛称をつけて町おこしの活動をしています。(2005年から浅草ではビート・フェスティバル開催。西の京都にも園部ビートフェスティバルと言う祭りがあります。)
さて、この国際通りの信号・三ノ輪から250m程の所に、信号・竜泉2丁目があり、そこを右折するとすぐに「千束稲荷神社」があります。ここは樋口一葉の「たけくらべ」の中で舞台となった所で、本殿に向かって左側に一葉の胸像があります。「たけくらべ」の中の少年少女たちは、何と生き生きと遊びまわり又、冷酷でありながらやさしい時を過ごしているのだろうかと、思い出しました。

明治の美女、樋口一葉

此処から、再び「国際通り」に出て、それを横切り3つ目の角を右折し、150mほど行くと左手に一葉記念館(台東区竜泉3-18-4、入館料一般:300円、開館時間:9時~16時30分:休館日:月曜日、祝日と重なる場合は翌日)があります。酉の市が開催される24日は、勤労感謝の日の翌日で休館となりますので、此処をこの散歩に組み入れる場合は、休館日と重ならない「酉の市」にこの散歩をしてください。
樋口一葉は、貧しさの打開を目指し小説を書き始めますが、彼女の文学者としての人生は、明治27年12月「大つごもり」の発表から「たけくらべ」の連載が完結する明治29年1月までの、わずか14カ月でした。明治29年11月23日に結核で24歳8カ月の短い人生を閉じますが、翌年には『一葉全集』が刊行されるほど、評価の高い文学者です。この「一葉記念館」には「たけくらべ」の草稿が展示されており、苦労して推敲している状態が判ります。

 

お酉さま

季節毎の祭り、芸能、花、時には花より団子などを追いながら、ぶらりと気楽に散歩すると言う「阿寒平太の覗き見散歩」を次回の稿からからご紹介します。

次回の稿では、浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)で行われるお酉様(おとりさま)が主題ですので本稿ではお酉さまについて少しお話しします。

11月=霜月には「お酉様(おとりさま)」が2回或いは3回あります。その11月の酉(とり)の日に開かれるのが酉の市です。『もう、お酉さまか、すぐに師走だな。』と言う感覚を江戸時代の人は持っていました。2018年の酉の市は、3の酉まであり11月1,13,25日、は2019年11月8、20日です。

鷲宮(わしのみや)神社

酉の市は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際に戦勝祈願を、鷲宮神社(埼玉県久喜市)で行い、戦勝報告を11月の酉の日に足立区花畑にある大鷲神社(鷲大明神)で行ったことから、11月酉の日を鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として定着したといわれています。

このような寺社の年中行事が、神仏混淆の民衆の信仰に根ざした商売繁盛を願う「市」と結びつき関東一円に広まり、さらに寺でも神社でもご本尊の御開帳などの寺社行事と結びついて、民衆の間に強く根差していったのでしょう。

ちなみに酉の市で売られる熊手は、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをした際、社前の松に武具の熊手(戦場で敵を馬から引き落とし、盾や塀を引き倒し、高所に登る際に用いた。)を立て掛けたことから、熊手を縁起物とするとしたそうです。

武器として使われていた熊手

浅草の長国寺内の鷲(おおとり)大明神社は、江戸時代に妙見様と言われ、勝海舟やその他多くの人々の信仰を集めましたが、そのご本尊は鷲の背に乗った釈迦とされています。この鷲大明神社は、明治初年に出された神仏分離令で、長国寺から分離し鷲神社になりました。明治維新と言う大きな宗教革命により民衆の間に根付いた多くの祭りや信仰が消滅しましたが、その嵐に耐えて「酉の市」が残ってくれた事はうれしい事です。季節毎の祭り、芸能、花、時には花より団子などを追いながら、ぶらりと気楽に散歩すると言う「阿寒平太の覗き見散歩」を今回からご紹介します。

11月=霜月には「お酉様(おとりさま)」が2回或いは3回あります。その11月の酉(とり)の日に開かれるのが酉の市です。『もう、お酉さまか、すぐに師走だな。』と言う感覚を江戸時代の人は持っていました。お酉さまは霜月の酉の日に開催される関東の祭りで、もともとは神仏混淆の民衆の信仰に根ざした商売繁盛を願う「市」で、寺でも神社でもご本尊の御開帳や市が立ちます。

お酉様の賑わい

浅草の長国寺内の鷲(おおとり)大明神社は、江戸時代に妙見様と言われ、勝海舟やその他多くの人々の信仰を集めましたが、そのご本尊は鷲の背に乗った釈迦とされています。この鷲大明神社は、明治初年に出された神仏分離令で、長国寺から分離し鷲神社になりました。明治維新と言う大きな宗教革命により民衆の間に根付いた多くの祭りや信仰が消滅しましたが、その嵐に耐えて「酉の市」が残ってくれた事はうれしい事です。

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