『春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂のしずくも 花と散る 眺めを何に たとうべき。』 この時期に隅田川の花を楽しみながら、日本の芸能に親しむと言うのが今回の「阿寒平太の覗き見散歩」です。

今回の覗き見散歩は、船を使い、貸し自転車を使い、のんびり且つ動きがよい散歩です。隅田川を上りながら川から土手の桜を楽しみ、「隅田川」ゆかりの地を貸し自転車でぶらりと回り、暮れ六つ(6時) 頃、浅草寺周辺に沢山ある老舗の鰻屋或いは牛鍋屋で、空腹を満たし、一日の散歩の締めくくりを東京メトロ・浅草駅のすぐ傍の大衆的なバー「神谷バー」で一杯やって、締めくくると言う散歩です。

出発点はJR浜松町駅南口から徒歩8分の「日の出桟橋」です。時刻は午後2時頃が良いでしょう。隅田川を上って行って、吉原や州崎へ粋な遊びに、或いは猿若町に芝居見物に繰り出す勢いで船に乗り込みます。乗船している時間はわずか40分間。橋の説明や川岸の風景については船の中の放送でも説明されますので、ここでは説明しません。

さて、隅田川と言えば「能」の『隅田川』や歌舞伎の数々の「隅田川物」、舞踊の「隅田川」。この元は墨田区堤通の梅柳山木母寺(ばいりゅうざんもくぼじ)に伝わる「梅若権現御縁起」の梅若伝説です。

『子宝に恵まれなかった京都北白川の吉田少将とその妻は日吉宮に祈願して梅若丸を授かった。5歳の時、父と死別した梅若丸は7歳の時、比叡山月林寺に入り、その英才を賞せられた。しかし、その才を妬まれ、襲われた挙句に人(ひと)商人(あきんど)にかどわかされ、奥州に向かう途中の隅田川のほとりで病に倒れ、梅若丸はわずか12歳で帰らぬ人となった。我が子の行方を捜し求めて狂女になった母が渡し守から、我が子の死を知らされたのは丁度、一周忌のことであった。その夜、母の思いが通じ梅若丸の亡霊が現れる。母は墓の傍に庵を作り暮らしたが結局、浅茅池に身を投じてしまうが、不思議にも亀がその亡骸を背に乗せ浮かび上がってくる。母を妙亀大明神としてまつり、梅若丸は山王権現に生まれ変わった。』

この話を謡曲にしたのが世阿弥の嫡子観世元(かんぜもと)雅(まさ)で、謡曲「隅田川」は妙亀大明神と山王権現の部分を除くとほぼこの梅若伝説の通りです。

この謡曲「隅田川」を下敷きにして、歌舞伎の世界では鶴屋南北(四世)作「隅田川花御所染」(通称、女清玄)、「隅田川」(竹本義太夫正本)、近松門左衛門の「雙生(ふたご)隅田川」、「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」などの「隅田川物」と言われるジャンルが出来ましたし、大正時代に作られた舞踊「隅田川」は登場人物も狂女と船頭の二人で隅田の渡しのシーンが演じられます。
この様に中世から近世まで多くの隅田川物が作られた背景には「狂女物」の世界と「人買い物」の世界と言う、中世の貧困の生活の中で多く語られた現実の二つの世界が「綯交(ないま)ぜ」になっていたからだと言われています。

源義経の一代記「義経記(ぎけいき)」には源頼朝が治承四年(1180年)、平氏打倒の石橋山の合戦に敗れた後に再起し、安房国から鎌倉を目指した際、増水で海のようになった隅田川を前にして5日間も足止めされた話が出ています。その時、江戸(えど)重長(しげなが)が千葉(ちば)常(つね)胤(たね)、葛西(かさい)清(きよ)重(しげ)の助けを借りて海人の釣り船数千艘で浮橋を作り、頼朝を渡しました。場所は東武伊勢崎線の「鐘ヶ淵駅」の南側を東西に走る古代東海道が、今の隅田川にぶつかるあたり一帯といわれています。此処に先に述べた木母寺もあります。

「昔、おとこありけり」で始まる「伊勢物語」の在原業平(ありわらのなりひら)が『名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思う人はありやなしや』と読んだ所も、この古代東海道の隅田川の渡し(朝廷が管理する渡し)でした。古代東海道(官道)はほぼ直線に京の都と地方を結び、この道も此処からまっすぐ葛飾区立石を通り千葉県市川の国府台に延びています。官道には立石、大道という遺称地名が多く残されています。

隅田川の桜