阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

日: 2018年7月17日

はるか離れた南の国の日本軍のトーチカ

私は、2009年にインドネシアのシムルー島と言う所で、仕事をいたしました。そこはインド洋に広く津波の被害が及んだ2004年12月26日のスマトラ島沖地震の震源地に一番近い島です。日本から首都のJakartaまで7時間かけて飛び、そこで乗り継いでスマトラ島(日本の面積に2倍くらいの大きな島)の州都Medanに約2時間掛けて飛び、そこからは12人乗りのセスナ機に乗り換えて1時間でやっとシムルー島に着きます。

そこは小さな島ですが、インドネシアで一番早く鉄道と飛行場が出来た島とされています。作ったのは、大東亜戦争当時の日本軍です。今のジェット機の時代でもこれだけかかる遠い島に、昔はどのくらい時間をかけて行ったのでしょうか。鉱山がありその鉱石積み出し用に山からSinabangと言う港まで鉄道が引かれていたそうです。勿論、飛行場は戦略的な意味があったのでしょう。
この島にもトーチカがあります。島の南西海岸に3か所ありました。多分、当時はもっと多かったのでしょう。

シムルー島のトーチカ

全体は5角形に柄が付いているような形で左側の横長の間口が迎撃窓でしょう。

ここでどのような戦闘があったのかは知りませんが、故国から遠く離れた赤道直下で、トーチカの中で敵を迎え撃つ心境はどのようなものだったのでしょう。
鉄道、飛行場、トーチカなど多くの戦闘目的の施設が造られた際、現地の人たちも徴用され働いた事でしょう。
私はこの島に、合計で4カ月程滞在しましたが、日本人のお墓のようなものは見つかりませんでした。せめてこの島では戦闘などなく、死傷した日本兵がいない事を祈ります。遥か昔の日本軍の戦跡があるこの島の、地震被害の救済に日本から出向いていると言う事に何か因縁めいたものを感じます。

 

 

孤立感から生まれたトーチカと言う戦跡(アルバニア国)

「トーチカ」と言う言葉をご存知ですか?もともとは、「ロシア語точка トーチュカ」ですが、主に鉄筋コンクリート製の防御陣地の事です。飛行機からの爆撃や、野砲や戦車による砲弾攻撃にも耐えられるように、分厚いコンクリートで覆われ、歩兵や戦車による攻撃を撃退するため小さな窓があり、色々な兵器で反撃できるようになっています。

一般的な形は、攻撃の弾の力を分散しやすいように半円になっている物が多いのですが、時には一般の民家に似せて屋根をつけ、窓を描いて偽装する事もありました。

バルカン半島の突端のギリシャのすぐ北西にアルバニアという国があります。そこに医療施設の調査に行った時、峠を越えて視界が開け広い農地が見えた時、クラゲのような半円をした物が、畑の中に何列にもわたって見えました。それがトーチカでした。

すぐ向こうがイタリア半島の靴の踵と言うアドリア海の入口に面する風光明美な保養地サランダで快適な時を過ごした後に、この醜悪な人工物に出会った時は、いささかいやな気分になりました。

農地に何列にも連なるトーチカの列
(白い点々がトーチカ)

農地の中のトーチカ
ギリシャ国境から12km位の所

トーチカは、入り口が攻撃されにくい自軍方向についており、敵が攻めてくる方向に攻撃用の窓が付いています。平原に無数に散らばっているこれらのトーチカの防御方向はギリシャ方向でした。

1976年6月の或る朝突然、アルバニア国民に総動員令が発令されました、その頃、まだ女子高校生だった私の仕事相手も、それから何カ月も学校で学ぶ事もなく毎日、トーチカ造りをしたそうです。当時、60万個のトーチカが作られたと言われています。その当時、アルバニアは社会主義をとり、隣国のユーゴスラビアのチトー大統領、ソ連、近隣諸国とも対立し鎖国状態でした。

これらのトーチカは、実際には使われる事はありませんでしたが、世界的な孤立状態から生まれた、脅迫観念に追い立てられて作られた膨大な数の戦跡です。

 

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