阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

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昆虫食の昆虫捕獲方法

この阿寒平太の世界雑記では現在、ネパール編を書いていますが、先ごろミャンマーに行った時に実に興味深い昆虫食用の昆虫の捕獲方法を見ましたので、ネパール編を中断し、忘れないうちに皆様にご報告します。

昆虫食と聞くと、眉を顰(ひそ)める方もおられるのではないかと思いますがしかし、この稿は、昆虫食の味や調理についての報告ではありません。皆さんも常日頃からお世話になっているCookpadにも「イナゴの生姜入り佃煮」「イナゴ入りピーナッツ・バー」「炒め蜂の子」などのレシピが並んでいるように、日本にも昆虫食はあります。

昔から昆虫は身近なたんぱく源でした。最近流行りの自然食材を売りの六本木にあるレストランでは、前菜として「へぼ」呼ばれる蜂の子の甘露煮が出てくるそうです。また、最近の新聞に『食用を目的としたセミの幼虫などの捕獲はやめてください。』という看板が埼玉県川口市にある公園にこんな文言の看板が設置されたそうです。日本でも意外とブームなの??

タイでは、ゴキブリのフライ(あの姿そのままです!!)や赤蟻の卵(スープやオムレツ、サラダに使うそうです。)、アフリカやオーストラリアでは蛾の幼虫を食べるそうです。

これ以外にタガメ(水中を泳ぎ回っているアレです。タイ国)、サソリ(中国)、蛾の幼虫(アフリカ諸国)など多士済々。

さて、先日ミャンマーに行った時のことです。宿舎に入ると居間や寝室に興梠(コウロギ)がうようよ。浴室に入るとそこでもうようよ。踏み潰さないように注意しながら、ベッドにたどり着き早速、殺虫剤をシュー。何とか通路を確保。

森の中の民家

翌日の朝の散歩のとき、森の中に点在する木造の家の前にビニールのシートがかかっていました。コテージのような小屋が点在し、その家の周りには同じようにいくつものビニールが竹で組んだ高さ3ⅿ位の枠から垂れ下がっていました。

コオロギ捕獲装置

多分、夜の暑さしのぎに外で寝るときの夜露除けかなと思って、その話をミャンマー通の同僚に話すと虫取り装置との事。

捕獲されたコオロギ

翌朝、観察するとちゃんと虫を集めるための照明装置があり、ビニールのシートの底は袋状になっており捕獲した虫が逃げられないようになっていました。

村の中の朝市に行くと、売っていました、興梠の佃煮や生きているそのままのものも。宿舎の部屋は、たんぱく質がうようよだったんですね、もったいないことしたかな??

朝市で売っている茶色と黒の生のコオロギ

ビニールという透明で滑りやすく且つ、安価な材料を使った実に単純にして、機能的な素晴らしい捕獲装置。誰が考えたのですかね?? しかし、興梠だけではなく他の虫も入ると思いますが、どうやって分別するのだろうか?

思っている以上に高度な技術で、興梠だけが集まる波長のランプや底の袋の深さを興梠の飛翔高さ以上にしたり・・・・・。だけどMyanmarだからなぁ~??

肉食の文化

注)下部に羊の丸焼きの写真があります。ご注意ください。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしている時に、「羊の丸焼き」と言う料理に遭遇しました。今回は、日本の食肉文化と、私が遭遇した海外の「肉食文化」について少しお話します。

縄文時代は狩猟文化で肉が主食と思われがちですが、主食はドングリで、肉は副食の一部だったと推測されています。縄文時代は、温暖化が進み海面の上昇(縄文海進)により陸の食料だけでなく、漁・貝・藻の採集も行われ、豊かな食生活が営まれていました。本州中部以北の日本列島東部には、ナラ、クルミ、クリ、トチなどの温帯的な落葉広葉樹林が、東海から九州に至る列島西部には、カシ、シイなどの暖帯的な照葉樹林が分布していましたが、列島東部の落葉広葉樹林のほうが狩猟動物、木の実は豊富で、魚漁も発達し、人口も列島西部と比べて圧倒的に多かったと言われています。数千年続いた縄文時代末期に、列島西部では、雑穀(アワ、ヒエ、モロコシ、ソバ)を主要作物とする農業が行われる様に成りましたが、列島東部を含めて広く肉食は続いていました。

仏教伝播以降の天武4年(675年)天武天皇によって「殺生禁断令」が出され、「牛、馬、犬、鶏、猿」の肉を食べる事が禁じられましたが、猪、熊、雉などは含まれていませんし、禁止期間は毎年4月から9月までの農耕期間に期間が限られていました。また、701年(大宝元年8月3日)の大宝律令には「死亡牛馬処理」に関する項があり、「官有牛馬が乗用あるいは使役中に死亡または病死した場合は、皮及び肉はその役所で売却して公の費用に充てよ」の旨が書かれていました。

『庭訓往来(ていきんおうらい)』(南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる往復書簡集で、江戸時代でも寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書)の5月返状に「豕焼皮(いのこやきがわ)」という脂肪がのったイノシシの皮を焼いた料理の名前や料理材料として干鳥、干兎、干鹿などの名前が出ています。

天明(1781年~1788年)から嘉永(1848年~1854年)にかけて、彦根城主から将軍へ、寒中見舞として牛肉の味噌漬が樽で献上されていたとの記録が残され、享保3(1718)年には江戸両国に「豊田屋」、通称「ももんじ屋」という獣肉専門店が開店しています。

しかし、仏教の影響で、獣肉食、獣肉が「穢れ」とされ、屠殺人・獣肉解体人・死体処理人・皮製造職人などを穢多・非人として穢れ、差別対象としてきた事も事実です。しかし、猪肉を.牡丹・.山鯨、馬肉を桜、鹿肉を紅葉、鶏肉をかしわ、と隠語で呼び「薬喰い」と称して一般の人も食していたと言うのも事実です。

『しづしづと 五徳(ごとく)据えたり 薬喰(くすりぐい)』  与謝蕪村
このタテマエとホンネの違いは、明治5(1872)年1月に明治天皇が公に牛肉を試食した時を境に無くなり、肉食を誰に憚ることなく出来るようになりましたが、今でも隠語は生きているようです。

肉の食べ方は色々ありますが、その中で「丸焼き」と言う豪快な料理方法があります。この「丸焼き」と言う肉の食べ方は何時頃からの物でしょうか?少なくとも火は、炎を上げる火ではなく、炭火或いは輻射熱が豊富に使えなければ、この「丸焼き」と言う料理方法はありません。この観点から日常にこの料理方法が使われたのは人間が豊かになってからのことでしょう。ヨーロッパの様々な宮廷料理の記述の中にも牛、豚、鹿、七面鳥などの丸焼きは記載されており、客の好む料理でしたが、やはり火を贅沢に使った料理として、余り通常は食べられない料理としてもてはやされたようです。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をした際に、建設業者からプロジェクトの打ち上げパーティーに招待されました。建設業者の経営陣、技術者、その家族など合わせて60人位が参加した大きなパーティーでしたが、始まった時間は午前中、終わったのは夜中で、延々12時間に亘るパーティーですが、ずっと飲み続けているわけではなくサッカー、バレーや水泳をしながら、時々ドンッと据えられている生ビールを飲んだり、昼寝したりしながら時間を過ごします。その時に「ヒツジの丸焼き」に初めて遭遇しました。

まず、羊の皮を剥ぎ、内臓を抜き、丸焼き用のシャフトを通します。その後で皮の内側の脂身のネットで包みます。

皮を剥いだ羊

脂身のネットを被せる

丸焼き用の炉は単に屋根がある大きな暖炉のような構造ですが、薪が燃える熱で後ろのレンガ壁を熱し、炎とそのレンガ壁の輻射熱でじっくり焼き上げる構造に成っています。

丸焼きの炉

輻射熱でじっくりと焼く

ほぼ焼きあがる状態まで、6時間ぐらい掛っています。

ほぼ焼き上がった

「ヒツジの丸焼き」が焼きあがり、皆がそろっている食卓に行くと、どん!と目の前に丸焼き羊の頭が熟したトマトを口に頬張って置かれていました。

主賓の前に出された料理

確かに「ヒツジの丸焼き」は食べると実に美味しいのですが、目の前でトマトを頬張った目で見つめられると食べた気がせず、早々に移動してもらいましたが、我々日本人の感覚からは遠い食べ物と感じました。

 

蒸留酒ラキヤ

今回はお酒について書きましょう。『酒なんて書くものじゃないの!酒は呑むもの!書いた物読んで肴に成るか?』と既に酔ったご仁に言われるかもしれません。このご意見に私も全く賛同。ただ、HP管理者が原稿出せ、原稿出せとせっつくものですから、仕方なく呑んでいる酒を中断して・・・・。

さて、「酒は全て醸造酒です」と書くと、「お前、酔っ払っているな。酒は醸造酒もあり、蒸留酒もある、これが常識だろう。」と言われるかもしれませんが、これは本当です。

特にことさら書く事ではありませんが、醸造法にはワインのように果汁に酵母を添加して発酵・熟成させる直接醸造法と、清酒やビールのように原料となる穀物原料の米や麦芽を一度糖化させてから発酵させる糖化醸造法があります。これらのエチルアルコールを含む飲料を作る過程を醸造と言うので、全ての酒は醸造酒だと言えます。

酒の原料は多種多様ですが、糖分、もしくは糖分に転化されうるデンプンを含む物は、果物、穀物、樹木の枝葉、樹皮を含め全て酒の原料に成ります。

話が飛びますが、アラビア半島のサウジアラビア国の南西にイエメンと言う国があります。遥か昔ですが、美人で有名なシバの女王の国(紀元前10世紀頃)があった所です。今でもその頃作られたと言うダムの一部が残っており現在は、その内側にアメリカからの援助で作られたダムが満々と水を湛えています。又、イエメンはアラブ人、ヘブライ人やフェニキア人などのセム族の故郷でもあります。
イスラム教の国ですから勿論、酒は禁じられていますがその代わりに「カート」と呼ばれる葉を噛む習慣があります。この木は、東アフリカとアラビア半島の熱帯に自生するお茶の木に似たような葉をもつニシキギ科の常緑樹の一種で、葉が付いている小枝を束ねて売っています。一説では、これは非常に原始的な酒だと言われています。

若葉を選び、そのまま口の中で噛んで大きな飴玉を口に含んだように口の中で丸め、葉っぱから出てくるエキスを飲みます。このエキスには、軽い興奮作用を起こす成分(覚醒作用をもたらすアルカロイドの一種カチノン)が含まれており、イエメン以外のアラブ諸国ではカートは麻薬の一種として禁止されています。口の中の適切な温度で長時間噛まれる事で、エキスが口の中で発酵し弱いアルコールに転化し、覚醒成分と混ざり酒の代わりとなっていると言われています。ソマリアでもカートは流通しており、ソマリア沖の海賊の身代金の一部がカートで支払われたこともあるそうです。(イエメンで仕事をした時に、私も噛んでみましたが、青臭いだけで美味くもなんともなく勿論、酔う事もありませんでしたが、酒やコーヒーなど刺激物を飲んでいると酔わないそうです。)

南米・アジア・アフリカのごく一部では、各種穀物を口に入れ噛み砕いた後、瓶や甕に吐き出し発酵を待つという、低アルコールながら原始的な「口噛み酒」と言う酒造法が有史以前から現在まで行われているそうです。古代日本でも巫女がその役を務め「醸す」の語源となっていると言う説があるそうです。

さて、醸造で出来た「アルコール」を含んだ水を一度蒸発させ、後で冷やして凝縮させ、沸点の異なる成分「アルコール」を水から分離する作業が蒸留です。水の沸点は100℃、アルコールの沸点は約78℃ですので醸造した液体を、100℃以下78℃以上に沸かすとアルコールだけが蒸発し、その蒸気を冷やすと蒸留酒が出来あがります。ウイスキーとウォッカは穀物の醸造酒を蒸留したもの、ブランデーはワインを蒸留したものですし、焼酎はご存じのように米、芋、麦など様々な物の醸造酒を蒸留したものです。

この蒸留という過程が実に簡潔明瞭に判る単純な装置で出来た、実に美味い蒸留酒ラキヤをボスニア・ヘルツェゴビナで呑みました。

ラキヤの蒸留装置1

 

ラキヤの蒸留装置2

ボスニア・ヘルツェゴビナの家庭の庭には、洋ナシ、オレンジ、ブドウ、リンゴなど様々な果物の木が植わっています。この果物を秋に収穫し、潰して冬まで樽で貯蔵します。潰すと言っても殆どが足で踏みつけていました。この踏みつけた物をただ貯蔵するだけで何もしません。貯蔵している間に、樽やその家の食料庫に住み付いている酵母菌がじっくりと発酵作業をしてアルコールを作って行きます。ボスニア・ヘルツェゴビナの冬は寒いのでそれほど腐造や変調は起きないのでしょう。

車で引いてきた蒸留装置を家の前に据え、手前の釜(上の写真のまきが燃えている炉の上の小さな容器)に貯蔵していた液体を入れ下から薪を焚いて沸かします。アルコールの蒸気は斜めの管を通って後ろの凝縮釜(写真の青い色のタンク)に行き冷やされて、蒸留酒となって出てきます。この作業は装置を所有している専門業者が行うそうですが、その対価は出てきた蒸留酒の1割と言う事で決まっているそうです。冬の2月から3月頃に各家を廻り蒸留酒作りを請け負って移動していきますが、据え付けから蒸留完了までは量にもよりますが数時間で済みますので、この1割と言うのもそれほど少ない対価ではないのでしょう。沸かす為に使う薪と凝縮に使う水は、各家庭持ちです。

同じ果物を使った蒸留酒でも、味も香りも様々です。各家に住みついた酵母菌は同じではありませんので出来あがった蒸留酒も違った味と香りになります。

酵母菌もそれほど管理されたものではなく働く力も弱いので、一度の蒸留ではそれほどアルコール度の強い酒はできませんが、蒸留した酒を再度、釜に入れ沸騰させると言う事を繰り返すとアルコール度が徐々に高まり90度位のものすごい酒が出来ます。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしていた時、国中を廻りその土地、土地で色々な自家製ラキヤを楽しみました。なんと、素晴らしき時を過ごした事か。

あな醜(みにく)、賢(さか)しらをすと、酒飲まぬ、人をよく見ば、猿(さる)にかも似む
万葉集:大伴旅人(おおとものたびと)
(ああ醜い。賢そうにして酒を飲まない人を、よくよくみたら、猿(さる)に似ているようだ。)

(大伴旅人は「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おおともきょう)」と言われ、出世街道なれの果ての大宰府長官の時に、酒で憂さを晴らしていた時の歌なのでしょう。)

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