阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

日: 2018年7月18日

日本の血についての考え方の変化

この稿は、前稿「日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方」の続きとして書きました。

さて、日本でも古くは生贄の儀式があり、今に残る巨石の中には生贄の血を流したという説がある溝が残るものもあります。『日本書紀』には、642年に牛馬を生贄にしたと言う記録があり、実際に生贄の牛の頭骨が出土しています。又、日本神話では、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄として女神である奇稲田姫(クシナダヒメ)が奉げられようとした時、素戔男尊(スサノオノミコト)がオロチを退治し、奇稲田姫と結ばれると言う話がありますが、これは生贄の行事を廃止させたことを神話化したとも言われています。

生贄の儀式に使われたという説もある石

『古事記』の中で宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚した日本武尊(ヤマトタケル)が、宴席でミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついてるのに気づいて、「襲(おすひ)に裾に 月立ちにけり」と月経を新月になぞらえた歌をよみ、それに対してミヤズヒメは「あなたを待ちくたびれて月も上ってしまった」といった意味の歌をさらりとよみ返しています。さらにこのあと二人は褥を共にもしています。(襲(おすひ)は、頭から被って衣類の上を覆うもの。)

おすひを着た巫女の埴輪

日本の古い時代では、「血」その物が不浄と言う考えはありませんでした。民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、一時的な穢れに過ぎず、その時々にお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできました。しかし、女性を不浄のものと見なす考え方を仏教が持ち込み、その経典では「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(『仏本行集経』「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(『相応部経典』)など、血と母性を穢れとし、仏教は女性の本性を救済しがたい不浄、穢れと見る存在に変質させてしまいました。

死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々はヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入しました。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がって行きました。

この様に日本では、仏教伝来により「血」に対する考え方は変化して行きましたが、世界の国々でも、その国の神話や宗教などによりそれぞれ違った考え方をしており、他の国を理解しようとする際には、一つの基準では計れない多様性に対する理解が必要だと感じています。

日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方

タブー(Taboo)と言う言葉があります。「社会生活の中で何をしてはならない」と言う行動を規制する規範を表しますが、元々はポリネシア語のTabuが語源で、ジェームス・クックが、その旅行記でポリネシアの風習を紹介する際に使い広まった言葉で、日本では「禁忌(きんき)」と訳されています。

この禁忌の中に「血」と言う物もあげられます。しかし、この「血」は時には死との繋がりから「穢れ(けがれ)」として忌避され、時には「血の繋がり」や「子孫繁栄・生命力」など生命を象徴し、日本語としても単に「禁忌」の意味だけではなく反対の「好ましい物・清浄」と言う意味も持ち両義性があります。世界の国々でも「血」についての考え方は様々です。

最後の晩餐

キリスト教では、イエスの最後の晩餐での「パンとワイン」を「肉と血」になぞらえていて、我々日本人とは違った思いを「血」について持っています。

パンとワイン・肉と血

今から20年以上前、私がエジプトに住んでいた際、借りていたアパートの部屋の模様替えの為に大きな本棚を動かした時、丁度本棚のうしろの壁に茶色の手の痕が無数についていました。会社のスタッフに聞くと、オーナーがその部屋が災難にも会わず使い続けられるようにと、生贄の血を壁につけたものとの事。「生贄の血と言うのは何なんだ?」と聞くと、通常は羊か牛との事でしたが、何か気味が悪く、模様替えは中止。

いすゞ自動車とGMとのエジプト合弁会社の工場が完成し、1号車がラインから出てきた際に、その車体全体も真っ赤な手形で覆われていました。これも生贄の牛の血でした。

エジプトの首都カイロは、エジプト4000年の歴史を展示するカイロ博物館でも有名ですが、スエズ運河の開通を祝って1869年にカイロ・オペラハウスが作られた事でも有名です。それ以来、カイロは中近東、アフリカでの音楽文化の中心となりましたが、残念ながら1971年に焼失してしまいました。1988年に日本から開発援助の一環として新しいオペラハウスが贈られました。当時、ヨーロッパ諸国では開発援助でオペラハウスを贈ったと言う事で日本の文化度を高く評価していました。

さて、この日本の文化度の高さを示すオペラハウスの地鎮祭での出来事です。建設事務所の脇の空き地に1頭の大きな牛が連れてこられ、イスラム教の導師がコーランを牛の前で唱え、すぐさま牛の頸動脈が切られると、牛は徐々に前足を折り、跪いて横倒しに成って行きました。廻りは血だらけで、私が見たのはそこまでで、事務所に入ってしまいました。暫くして、秘書の女性が一緒に写真を撮ろうと呼びに来て外に出てみると、事務所の女性達が、血が滴る牛の首の角をむんずと掴み、私と一緒に写真を撮ろうと並んでいました。

日本的な感覚では、見るもおぞましいと言う所ですが、この頃のエジプトでは動物の屠殺を見ると言うのはそれほど稀な事ではありませんでした。ラマダン明けの休暇の前には、家の前の道路で羊を殺して、皮をはぐと言う血だらけの作業が当たり前のように見られました。さすがに今ではあまりにも残酷と言う批判の為か、公衆が見る事が出来る道路では禁止に成りましたが、エジプトの人々にとっては動物の血を見たり、触ったりと言う事は、日本的な穢れ(けがれ)と言う事とは結びつきません。動物を殺し、その捧げられた尊い命の血によって災いから守られると言う感覚です。

エジプトと同じ様に国民の大部分がイスラム教徒であるインドネシアでは、この「血」に対する感覚が全く違います。プロジェクトの開始、完成の時に、牛、鶏、羊などを殺してその成功を祈願したり、祝ったりすることはエジプトと同じですが、その血に触ることは「穢れ」となっており、牛や羊などを殺した際には、その首は土に埋めています。

このように、同じ宗教の国であっても禁忌というものに対する考え方は、全く正反対です。何が禁忌というものの基本的条件となっているのでしょうか。宗教ではなく、色々な要素、歴史が組み合わされてその国々、その民族の一般的な常識のようになるのでしょう。

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