阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

月: 2018年7月 Page 1 of 4

音楽と心の平安・安全

人の生活の中で音楽は大切で、なくてはならないものだと言われ、音楽と性犯罪率は比例していると言われています。事実、パキスタンで仕事をした時、街中で聞こえる音というのは、一日5回モスクから流れるコーランの響きだけで、殆ど音楽と言う類の音は聞けない状態でした。妻子から遠く離れて、一緒に仕事をしていた若いスタッフは「危なくて妻子を残して来られない。」と両親や姉妹の所に預けてきていました。新聞でも連日、そんな犯罪記事が出ており、其の率が多い事を報じていました。

私が働いていたパキスタンの街は、首都イスラマバードからカラコルム街道を車で6時間ほど行った「バタグラム」という「バタグラム県」の県庁所在地で、行った当初はジャズやクラシック音楽のカセットテープやCDを売る店が何軒かありました。

バタグラム県県庁所在地バタグラム

所が川向うまでタリバンが勢力を伸ばしてきた頃には、早々に店を閉めてしまい、音楽の元は全くなくなってしまいました。そうこうするうちに、一晩で外国援助機関の事務所が3か所も一度に爆破され、私も慌てて逃げだしました。これも音楽がないという結果なのかもしれません。

所が同じイスラムの国のインドネシアは、世界で一番イスラム教徒が多いと言われていますが、街だけではなく、田舎でも色々なジャンルの音楽が流れ、若者たちは色々な楽器を奏で、女性の服装は、開放的な状態ですが性犯罪は少ないと聞きました。

インドネシア・シムルー島で楽器をもって歩いている若者

仏教の声楽で「声明(しょうみょう)」というものが有ります。梵唄(ぼんばい)とも言うそうで余り抑揚の無い音が延々と続きます。16世紀頃のグレゴリア聖歌が長崎の隠れキリシタンの島で「歌おらしょ」(「おらしょ」はラテン語やポルトガル語の「祈り」と言う意味の「Oratio」)として残っていますが、この旋律は、声明ともお遍路さんの御詠歌にも良く似ています。また、エジプトで古代キリスト教と言われる「コプト教」のミサの音楽も、ボスニアヘルツェゴビナの東方正教のミサの音楽もこれによく似ていました。祈りの旋律は、基本的には同じルーツの音階を使っているのでしょうか?

人の猛々しい心を平安に導く宗教と音楽は深く結び付いています。このネパールには、色々な音や音楽が生活の中で息づき、人の生活を豊かにしている様な気がしてなりません。休日の朝、そんな気持で音を聞いていました。
皆さんが外国旅行でどこかの町に行ったとき、気を付けて耳を澄ませてそこに音楽が流れているか聴いてください。もし、音楽が聞こえてきたらまあ、安全と思ってください。勿論、これは私の判断基準ですが。

 

カトマンズの音

カトマンズの朝は、暗いうちから色々な小鳥のさえずりから始まります。4月に入るとすぐにカッコーの声が聞こえ始め、普段から騒々しい街の印象とは違ってやはり、山に囲まれた小さな盆地なのだなと気付かせてくれます。

5時頃に街のそこかしこから鐘の音が聞こえてきます。通勤の途中に、道の傍らにある御堂の鐘をそれぞれの人が、それぞれの思いを込めて鳴らして通り過ぎて行くのです。人によって鳴らし方も様々で、遠慮しているように弱く、一つカーンと鳴らす人もいれば、カン、カン、カン、カンと大きく何回も、まるで競輪の最終コースの様に鳴らす人も。
これは力仕事をしている男で朝、奥さんとケンカしたかな、これは若い女性かな、など一つの鐘の音が様々な場面を贈ってくれます。

アパートの近くのお堂

お堂の中の鐘

次第に物うりの声が聞こえてきます。ビールの空き瓶回収、新聞紙の回収、ごみ集め、それから野菜や果物の売り声。
昔、日本でも色々な売り声が響いていました。いい声だなーと聞き惚れる様な声もありました。その頃は、自転車の後ろの荷台に木の箱を括り付けて、肉声の売り声でした。まさに「行商」でした。今では小型トラックに無粋なスピーカーの売り声。可愛らしい売り声に、つい声をかけると、車から降りてきたのは私と同じようなむさくるしい爺。いやですねー、売り声の詐欺は!

子供の頃に住んでいた九州の博多の朝は、必ず「おきゅうと~、おきゅうと!」という売り声で始まりました。「おきゅと」というのは、海藻色をした味は正に「ところてん」で博多のソールフードとも言われるものです。獲れたての魚も一緒に行商し、その場でさばいてくれるので冷蔵庫などない時代でしたが、新鮮な魚を毎日食べることが出来ました。何かそんなノスタルジア(「思郷病」森鴎外はこんな当て字をしていました。)に浸っていますと、このカトマンズの街の様々な売り声が大切に思えて、何時までも続いてくれたら思ってしまいます。
そのうちにアパートの北側にあるサッカー場の周辺を走るサッカー選手チームの声が聞こえ、次第に街のざわめきが大きくなります。街が「あー、良く寝た。さあ、動き始めるか!」と言っているように。
そのサッカー場でサッカーやクリケットの試合や、特に音楽関係のイベントが有る時は、色々な音楽が流れて来ます。殆どが西洋音楽、それも時にはジャズ、時にはポップス。どうもネパール特有の民族音楽については寡聞にして知りませんが、それと思しきものはあまり流れてきません。しかし、音楽が流れて来ると言うのは何か心が和んで休まります。

此の国では色々な所に細かな音や音楽が有ります。あまり大型の開発プロジェクトがないせいか、「槌音高き建設の響き」等と言う無粋で、遠慮会釈もない建設工事の音もしません。勿論、市街電車や鉄道の騒音もしませんが、一つだけ嫌な音が混じります。ピーピー、プープーと車やバイクが小癪な感じで泣き叫ぶ。
ネパールの運転手の技というか、手並みは素晴らしく、車間5㎝(いや、前後ではなく横の車との間隔ですよ。) でも何の躊躇もせず入り込んできます。しかしなんで、あんなにピーピー、プープー警笛を鳴らすのか不思議に思います。日本であんなに黒塗りベンツに向かって鳴らしたら、すぐにヤクザさんにきついお仕置きを受けるね、多分。
将来、電気自動運転の車ばかりになると、警笛などというものはいらなくなるので全く無音、これも何か薄気味悪いね。多分、そのときは鳥の囀りのように、ピーチク・パーチク、車同士が情報交換するかもしれないね。

 

ネパールの国勢調査で分かる人々の生活

レンガとコンクリートの建物

前稿で扱いましたネパールの国勢調査項目には我々、日本人にはなじみのない項目が並んでいます。
まず、建物についてですが、建物の基礎の種類(泥目地煉瓦、セメント目地煉瓦、杭使用RCC、木杭等)、外壁の種類を質問している項目があります。これは地域防災と耐震技術を担当していた筆者には実に有効な情報でした。只、公表されている単位がward(日本で言うと区)レベルで集計されており、もしその下のcommunity(日本で言うと町)レベルであればより詳しく実像に迫れるのだが、と少し残念でした。


次に日本と違う項目は、飲み水についての質問です。水道水、井戸水、雨水、河水などの項目に分かれ、井戸水の項では、蓋をしている井戸か、カバーをしていない井戸か細かく尋ねています。はるか昔から国を統治する者にとって民に十分な飲み水を与えるという事は国の安定のためにも、公衆衛生の為にも重要な調査項目です。(昔、ネパールの治世者がどうやって民衆に水を与えていたのかは、他の項でお知らせします。) ただ、私たち日本人は余りにも便利な環境の中で生活しているために、こんな単純で基本的な最も重要な項目を忘れがちです。

次に日本と異なる点は、料理に使う燃料の種別を尋ねています。薪、石油、プロパンガスなどの種別を尋ねていますが、少し変わっている物として、「牛の糞」や「その他」という項目もあります。ネパールだけでなく隣国のパキスタンでも、田舎に行くと燃料にするため丸く平らにした牛の糞を、石の上で乾かしているのをよく見かけました。「その他」という項目には、太陽熱利用も含まれますが、日本で考えるような太陽熱を電気に替えるというシステムではありません。これは、パラボラ・アンテナのような形の集光機で熱源を得て、煮炊きにその熱を使うものです。実に単純な仕組みで光が集まる真ん中に鋳鉄製の鍋を置いて直接温める仕組みでしたが意外に早くお湯が沸くそうです。

太陽熱調理器。集光機の中央に鍋が置かれているだけです。

燃料政策に失敗したアフリカ大陸の東側にあるマダガスカルでは、大部分の樹木が薪に使われ、丸裸になった土地や畑の土は川に流れ、川の河床が高くなり、水田地帯が沼に替わり、食料の米の生産量も落ちました。燃料問題は、国土を維持していくうえで重要な問題です。
ネパールの国土の幅は、ほぼ日本の本州と同じくらいですがネパールの場合、北の中国国境から南のインド国境まで最大標高差は8,000m以上あります。如何に国土全体の表土を保つための樹木保全が必要なのか、わかる気がします。

日本の国勢調査の項目は、世帯の人数、生年月、国籍や仕事の従事の有無、従事地や通学地などがありますが、住居については賃貸か持ち家か或いは一戸建てか共同住宅か、床面積などを訊いています。また、5年前にはどこに住んでいたかを尋ねる項目もあります。これらの項目を見ていますと、日本の国土の中で、人がどのように生活し、移動しているのかをダイナミックに把握しようという意図が判ってきます。
しかし、いま社会的に問題になっている女性の社会進出や、労働力の問題、所得格差、貧困の問題などをより細かく把握し、日本の将来を見据えた方針を確立のためには、国勢調査項目は見直す時期なのかもしれません。日本の政府が莫大な借金を抱えた今、従来の方法や考え方に疑問を持たなければならない時なのではないでしょうか。特に日本では、10年毎の国勢調査以外に5年毎にも調査(この調査の調査項目は17項目です。) をしていますので、より細かく実情の把握が出来るシステムになっています。
ネパールでも日本でも、国勢調査の項目の中に、都市部の一所帯の家族人数を調べている項目があります。日本の場合、全国平均で2.54人、それに対してネパールの数字は4.32人。最近、ネパールでも小家族化が進んでいると言われていますが、まだまだ何か昔ながらの家族の存在がある様で、ホッとしました。

兎に角、この国勢調査の数字を読んで行くと、私の下衆の勘繰りも満足させてくれますし、色々と興味が尽きません。また、色々と日本やそれ以外の国との比較をやり始めると面白い物が次々と出てきそうです。今後も、ネパールの国勢調査結果を読み解きながら面白い事が見つかりましたら、この「阿寒平太の世界雑記」に書いていきます。

 

ネパールの結婚年齢

私がネパールでの活動期間中に借りていたアパートの台所の食卓の上に、小さな可愛い人形が置かれていました。多分、以前の住人が置いて行ったものなのでしょう。幼い花嫁姿の女の子とタキシードの裾を捲りあげて、腕まくりして女の子を守る様に傍に付き添っている幼い花婿の男の子。其の様子が微笑ましく机の上に飾っておりましたが、ある時から「可哀想になあー」と見るようになってしまいました。なぜか・・・?

食卓の上に会った可愛い陶器人形

ネパールでは、2011年6月に10年に一度の国勢調査が実施されました。JICAでは、この国勢調査の実施や分析の専門家を派遣して支援しました。私のアパートの下階に、私の先輩でJICAのシニア海外ボランティアとして統計局に派遣され、このシステム作りから分析作業を支援しているK氏が住んでおり、この国勢調査について色々と伺いました。(彼は、長野オリンピックの運営コンピューターシステムを作った方だそうですが、JICAというのはすごい人を見つけてくるものですね。)
国勢調査については、国連から調査項目の指針は出ているのですが、国によって其の調査内容もその数も違っています。日本は22項目、アメリカは10項目、イギリスは40項目、そしてこのネパールは、27項目。国によって調査項目の数は大きく異なっていますし、その調査内容も国によって大きく異なっています。

このネパールの国勢調査の中に、日本でそんな質問をしようものなら顰蹙(ひんしゅく)をかいそうな項目があります。ズバリ、最初に結婚した年齢を聞いています。婚活と言う言葉が出来、結婚年齢が上昇している日本では、なかなか聞けない質問の様な気がしますが、同時にその質問の集計結果が統計的にどんな意味を持つのだろうかと、考えてしまいます。(多分、人口の将来予測かな?そんな訳ないよなー。)

ネパールの国勢調査の初婚年齢調査結果表

さて、その結果ですが、10歳未満から5歳毎に分けられ50歳以上まで、男性、女性それぞれの初婚年齢ごとの人数が記載されています。なんと10歳未満で結婚した男子は22,865人、女子は115,150人。初婚年齢が10歳から14歳までの男女合計は138,015人、10歳以下を含めると、既婚者の11.3%の男女が14歳以下で結婚しているのです。それも圧倒的に都市部より田舎の方が多いのです。(ちなみに初婚年齢50歳以上の男子は、3,480人、女子は1,606人と記載されています。)

正にこの微笑ましかった人形が現実味を持ち「可哀想になー!」となった次第。そのような目でこの人形を見ると、子供たちの目が笑っていないし、如何にも『まーだ!疲れちゃったよー、もう遊びに行ってもいいでしょー。』と言っている様にも思えます。

其の他、未婚者人数、一回或いは複数回結婚しているそれぞれの人数、再婚者人数、男女寡(やもめ)人数、離婚者人数が記録されています。しかし、質問された方は『私の勝手でしょう!』と言いたくなるだろうなー。

 

京都の世界遺産と消防団

江戸時代の江戸の明暦(1657年)の大火(振袖火事)

ラリトプール市のパタン地域は、地域そのものが世界遺産ですが、地域としての京都は世界遺産ではありません。京都市内或いは周辺にある17か所の社寺或いは城が世界遺産です。

京都は、1788年1月30日に発生した「天明の大火」で当時の京都1976町の73%、1424町が消失、37神社、201寺も同様に消失し、4日間にわたって燃え続け鎮火したのは2月2日早朝でした。この火事は放火だったそうです。

もし、多くの社寺や街並みが消失していなかったら、まさに今の京都の中心街そのものが世界遺産になっていたことでしょう。下の右図は、当時の京都市街地とその消失部分(赤線の内側)の図ですが、この範囲の中にある二条城だけが現在、世界遺産指定されています。左図の赤点は、京都の世界遺産配置です。

京都の天明の大火での消失部分と現在の世界遺産

この時、活躍したのが1722年に制度が確立した常火消(幕府直轄火消)です。出火の報を受け取ると直ぐに二条城(幕府の京都支配の出城)に駆けつけ、大規模な延焼を何とか食い止め、次に御所の消火へと向かいましたが、時遅く御所は全焼。この活躍で、二条城は世界遺産として残ったと言えます。

華麗な加賀鳶で有名な大名火消や、町火消のシステムも同じ頃に創設されました。江戸では明暦3年(1657年)のいわゆる「振袖火事」をはじめ度々の大火に見舞われまた、幕府のお膝元という事もあり、すでにこの時点では常火消、大名火消、町火消ともに機能していました。しかし、京都ではまだまだ町火消の活動は定着していなかったようです。
民間の消防組織である消防団が、江戸時代の町火消から発展して今の形になるまで400年という長い歳月が掛かっています。今、やっと始まったばかりのネパールの消防団が、日本の消防団のように活躍するのは何時の事なのでしょう?

世界遺産パタンの消防体制と日本から贈られた消防車

ネパールでの活動で改めて感じた日本の消防団や世界遺産のお話しです。 私は2012年から2014年の2年間、JICAシニア海外ボランティアとしてネパール国首都カトマンズ市のすぐ南に隣接するラリトプール市都市開発部に勤め、市の耐震化計画や防災施策の実施事業を支援しました。
ラリトプールというのは「美の都」という意味で、市のパタン地区は,地区中心にある王宮を含めて世界遺産ですがその殆どが木造建築です。しかし、その防火対策は消火器すら充分にないという状況です。

ラリトプール市世界遺産の王宮広場

日本の都市で市の中に同じ様な歴史保存地域があり、人口・面積がほぼ近い都市を選ぶと、金沢市と倉敷市が挙げられます。話が少し硬くなりますが、世界遺産を有する京都及びこれらの都市と、ラリトプール市の消防力を比較したものが次の表です。

 

ラリトプール市と同規模の日本の都市及び世界遺産都市との比較
都市名 人口(人) 面積(㎢) 消防署及び出張所(箇所) 消防署員(人) ポンプ車(台) 消防団員(数) 消防団ポンプ車(台)
ラリトプール市 466,784 385 1 11 5 0 0
倉敷市 477,463 355 4 120 10 1,945 48
金沢市 466,189 355 4 416 17 1,101 17
京都市 715,444 828 48 1,943 59 4,247 6

この表から、ラリトプール市の消防力が、いかに貧弱かが判ります。しかし、それ以上に日本の各都市の消防体制のすごさに驚きます。それではと、私はラリトプール市の消防力を何とか強化しようと活動しました。(この活動の様子は、BS朝日で放映された「世界に役立つ日本人」で紹介されています。)

パタン王宮地域の消防力強化計画を策定の際、調査の為に訪れたそのラリトプール市消防署で、日本から贈られた4台の消防車を見つけました。消防署の話では、4台の消防車の中で、小型の自動車駆動用のエンジン以外に消防ポンプ専用のエンジンを搭載している小型の消防車は、水源が確保できる所では、最近インドから購入した大型の3.5TONの水槽付消防ポンプ車より送水能力もあり働くそうです。

日本から贈られた小型消防車

しかし、不思議なことに消防車の扉には、鴨島15消防分団と記載され、なぜか上の認識灯には鴨島10分団と記載してあります。鴨島町と言うのは四国徳島の吉野川市にありますが、まだ現役のこの消防車の写真を吉野川市役所に送ると、その話が掲載された広報誌を送ってくれました。広報誌「広報よしのがわ」には『徳島ネパール友好協会が、首都カトマンズ近郊のダバケル村開発委員会に小型消防車を贈り、感謝の額を貰った。』と載っていました。

消防車の扉や認識灯の違いの不思議は、市町村の統廃合で鴨島15消防分団が10団分に変わり、マグネット・シールを張り付けて使用していたが、贈る際にシールをはがしたとの事。これで、この不思議は判りましたが、それ以上に驚いた事を教えてくれました。
2011年に徳島ネパール友好協会がこの消防車を送った際に、陸送先遣隊(海のないネパールにはまずインドのムンバイ港に送り、それから約1,600KM以上の距離を陸送しなくてはなりません。) を含め、はるばるネパールに運転訓練の為に6人の技術者を送り、運転整備の訓練をしているのです。中古の消防車、動いて初めてその価値が生まれる物を、相手に贈って使ってもらう際のルールと言うか、心遣いがこんな所にも生きているのを知って、何か安心しました。
日本はドイツと並ぶ世界に冠たる民間消防組織の先進国で、民間消防組織の消防分団がこんな消防車まで持っています。前掲の表のようにさすがに京都の防災体制は鉄壁です。京都は昔ながらの狭い路地が碁盤の目のように入り組んでいるので、この狭い路地で初期消火活動が出来る500ℓの消火用水を積んでいる超小型の消防車や小型のはしご車も開発し備えています。

狭い路地にも入り込む小型水槽消防車

小型はしご車

京都の消防体制は、他の都市と少し違って、より広く市民を巻き込むような形で、市内の沢山の小学校が消防機材倉庫になっており、地区の消防団はこれを起点に活動しています。この形はこれから新たに市民消防組織を創設していこうという国々では実に有効なアイディアと思います。

 

道楽者の弁

毎月その発売日(毎月5日と20日)が待ち遠しい私の愛読書「ビック・コミック・オリジナル」(マンガ雑誌)に「どうらく息子」(尾瀬あきら作)と言うマンガが掲載されていました。幼稚園の保育士をしていた青年が、落語に目覚め、真打を目指し前座から二枚目にまで苦労して成長するさまが描かれています。落語家と落語噺の世界が克明に描かれ、実に面白いお薦めのマンガです。

しかし、なぜ苦労しながら落語家の真打を目指す青年が道楽息子なのでしょう。落語の噺の道楽息子は、大店の跡取りが吉原の花魁にいれあげて勘当になるという筋でも描かれるように、余り良い意味合いでは使われていません。所謂、放蕩者です。放蕩とは、「酒色にふけって品行がおさまらないこと」です。

広辞苑では「道楽」の項に「道を解して自ら楽しむ意から」とあり、それほど悪い意味の言葉ではなさそうな表現から始まって、次に「本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。」と解釈が出て、その次に「放蕩者のすること」と書いてあります。 この「道を解して自ら楽しむ」、言い換えると「その道の真の楽しさにのめり込む」と言う意味で、この「どうらく息子」と言うマンガが描かれていると、私は解釈しています。

さて、この稿の「道楽」は、楽しさ一杯の「放蕩者のすること」と言う意味で書いております。昔、道楽者の行状は「呑む・打つ・買う」と言う事に決まっておりました。いわゆる酒色と博打です。この三つが、人に快楽や刺激を与える最たるものだからでしょう。一つではなく複数の楽しさと言う事も快楽や刺激を何倍にもする重要な要素です。

昔、ラスベガスのホテル・フラミンゴやスターダスト等の賭博場で遊んだ事があります。食事をしながら煌びやかなショーを見て、その後で賭博場に入ると、広大と言う表現が適切な煙草で煙っているフロアーにカードの台が無数にあり、バニー・ガールが飲み物を配っています。壁側にはガラス張りのバカラのゲーム室があり、上品な人種が高額なゲームを楽しんでいました。男性トイレに行くルートの空間には、映画女優なのではと見紛う程の美女たちがたむろし、声をかけてきます。まさに「呑む、打つ、買う」と言う放蕩道楽の極致という世界でした。

(最近、様々な反対意見がありながら成立した「カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法(カジノ法)」というので出来上がる賭博場は、どんなもんなんでしょうね??最終的にはラスベガス??)

今では重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産と言う何か高級な趣味の様になってしまいましたが、「お能」も「歌舞伎」も含めて大衆演芸、芸能は全て酒を飲みながら、食べながら、おしゃべりをしながら、そして権力者は美女を傍に侍らせ、芝居茶屋で役者と時を過ごすという幾つもの刺激を含んだ道楽でした。

四国 金毘羅さん金丸座

江戸城大奥の御年寄・絵島は先の将軍の墓参りの後、役者・生島新五郎と芝居茶屋で宴会(密会?)し、江戸城への帰参門限に遅れた事で起きる「絵島生島事件(1714年)」。歌舞伎や小説、映画の世界でも有名ですが、この事件のおかげで、1500人余の人々が、遠島、斬首ほかで罰せられ、江戸4座の芝居小屋の一つの山村座は廃座、芝居小屋は簡素な造りに改築させられ、そして夕方の公演は廃止になったそうです。この事件と比べると、どこかの国の大統領や首相や国会議員の艶話など些細な事と思うほどです。

さて、煙草好きにはパッケージに「健康に影響あり」と書かれようが、命に代えてもと言うくらいに煙草は大切な道楽です。しかし、今では禁煙の波に押されて肩身が狭くなりましたが、東日本大震災、国債の格下げと言う国難山積みのこのご時世に1本吸うごとに13円のたばこ税(マイルドセブンの場合)を納めて頂いている事を考えると、吸わない私は有難いと思ってしまいます。

エジプト・カイロの喫茶店で水煙草を楽しんでいる男

大相撲でも2005年初場所から全面禁煙になりましたが、それまでは相撲と煙草は切っても切れない仲と言うほど密接な関係でした。現在の国技館(1984竣工)を造るとき、「沢山の人が集まる室内では禁煙」(1962年施行の火災予防条例)と言う法律に対して、相撲協会は頑強に抵抗し国会議員まで動かし、人の楽しみとは何かと言う事を追求した結果が喫煙できる国技館でした。 相撲を見ながら酒を飲み、食事をし、タバコを飲み、時には相撲茶屋に行って遊ぶ、これが相撲という神事を民衆の側から見た演芸の世界でした。

なぜ、タバコの喫煙が相撲という楽しみとそれほど強く結び付いていたかと言いますと、相撲が始まり、そして盛んになった江戸時代は、喫煙率が非常に高かったからです。文政3年(1820年)に江戸の煙草屋三河屋弥平次が記した「狂歌煙草百首」には、喫煙率は97%以上と記載されているそうです。 極端な言い方をしますと老若男女、全て吸っていた。客が家に来た時、お茶を出す前にまずタバコ盆を客の前に出すのがあたりまえでした。ですから相撲と言う楽しみと喫煙と言う楽しみは切れなかった。(しかし、当時はキセルで現在のような両切りではありませんし、火の始末に非常に厳しかったので咥えタバコはなく、常にタバコ盆を傍において喫煙しました。)

お茶も道楽の一つですが、煙草と言う道楽とも結びついていました。裏千家も含めて各お茶の流派には、それぞれ煙草盆の火入れ(煙管に火をつける炭入れ)の炭のいけ方、灰のならし方が作法としてあり、待合や腰掛には煙草盆が必ずおかれていたそうです。亭主は小間の薄茶席、広間での席でも、煙草盆の配慮が必要と書かれています。

現在、「落語」の演芸場ではタバコは吸えませんが、座席の前に小さなテーブルが出せるようになっており、其処にビールと弁当を置いてのんびり見るのが落語の楽しみでしょうか。

日本だけでなく海外の演芸、芸能も同じように「呑む・打つ・買う」という事に強く結びついていました。オペラ鑑賞と言う道楽でも、まさにこの「呑む・打つ・買う」という事に強く配慮して客席が設計されていました。パリのガルニエのオペラハウスも、ミラノのスカラ座も、バルコニー席では食事もできましたし、退屈すればバルコニー席の後ろに長椅子を置いた小部屋もありました。

昔から「人の楽しみ・娯楽」と言うことは何かを我慢しながら何かを楽しむと言う事ではなかったのです。(勿論、それなりのスマートなルールはありましたが。)
私は演芸が芸術という範疇で語られようと、「人の楽しみ・娯楽」を与えるという意味から考えて、道楽者の三つの放蕩のうち、せめて「呑む(食う)」という事と共に演芸、芸能を楽しみたいと考えています。

 

面白い飛行地図、そして日本の海の守り

私がULP(超軽量飛行機)に乗っていた時、飛行クラブにはTactical Pilotage Chartというた航空地図が準備されていました。この地図は、最新型の電子制御のジェット機にも搭載されているそうです。この地図は、米国ミズーリ州セント・ルイスにある「Defense Mapping Agency Aerospace Center」で発行されており、100㎞角のグリット毎の最低飛行高さが記載されています。また、この地図には地形などの一般の地図情報以外に軍用、民生用も含め全ての飛行場の位置、滑走路長さ、方向などが記載されています。

飛行機が緊急事態になった場合、どこの飛行場にも着陸ができるという国際ルールがあります。そのためこの地図には民間だけではなく軍隊が所有している飛行場も記載されています。下の地図はカイロ周辺の飛行場の位置が記載されています。

カイロ周辺の飛行場を示す航空地図

沢山の飛行場が記載されていますが、この地図のカイロからアレキサンドリアに向かう道路の上に飛行場マークがあります。これは道路そのものが緊急時(多分、戦争時)の飛行場となる代替滑走路で、通常は高速道路で使用しており、中央分離帯の部分はコンクリートの分離ブロックが置かれていますが、戦時にはその分離ブロックは片付けられて飛行場に早変わりします。このタイプの飛行場はイスラエルやパキスタンでも見ましたが、周辺には離着陸に障害となる看板や街灯が一切なく、道路もまっすぐですからすぐに判断できます。

エジプトの高速道路の代替滑走路

さてこの地図には、滑走路長さ3,000feet以上の大型の飛行場(地図上の●)と小規模な飛行場(地図上の○)が記載されていますが、エジプトの場合、近くに行くとすぐに飛行場の位置が確認できます。ところがイスラエルでは近くに行っても滑走路は見えず飛行場があるのか確認できませんが、大部分でドーム型の丘が見えますので戦闘機基地かと判断できます。ドーム型の丘はコンクリートの上に土を被せた戦闘機の格納庫だと聞きました。このドームがない所は、地下に格納庫を設置しているのだと聞きました。

イスラエルの飛行場を示す航空地図

長らくエジプトに住み、アラブ側からイスラエルを長く見てきた筆者からは、『イスラエルは、国連決議を守らず、殆ど武器を持っていない人々を、高性能武器で攻撃する』というイメージで、いい感情を持っていません。しかしイスラエルは、周辺をアラブ諸国に囲まれ、国そのものの存在を危うく感じる中で、国際社会から非難があろうと、国連決議も無視し、領土を拡張し、コンクリートの塀を造り、戦闘態勢を構築する事が中東戦争から学んだことなのかもしれません。

(しかし、国際的な責任もかえりみず、状況を悪く悪くするようにアホなことをする西洋歌留多には腹立たしい限りです。)

しかし、イスラエルや北朝鮮の様に国際社会を向こうに回しながらも、国の立場を堅持していくというしたたかな外交感覚は素晴らしいものです。日本の政府も少しは見習ってほしいものです。

日本の場合、周りが海ですので防空体制も大切ですが、加えて海の防衛体制が必要になります。海上自衛隊下総航空基地の基地記念日にP3-C対潜哨戒機に乗せてもらったことがありました。その時の機体は米軍からのお下がりで、乗員11人搭乗可能で米軍が使用していた時は控えの乗員用に休憩用のベッドも備わっていますが、自衛隊の場合は半分の乗員で運用しており、ベッドは無用の長物になっていました。(今は日本でライセンス生産されていますので多分、内部は実情に合わせて変わってきているでしょう。)

P3-C対潜哨戒機

朝6時前に3食のお弁当を持って離陸し、夜遅くに着陸するまで東京以北の太平洋側を飛行し、沢山のソノブイを投下し、音響及び磁気、赤外線探査などを行っていきます。機体の諸元では対潜爆弾、魚雷、対艦大型ミサイルなどの武器も搭載可能との事。機体の内部は沢山のソノブイのラックと情報処理用のコンピューターで占められていました。
この搭載されているコンピューターの情報システムは、日本が改良を重ね、現在では日本の対潜哨戒機は世界の中で一番性能がいいとされています。機体も川崎重工業がライセンス生産しており合計で98機を海上自衛隊向けに製造して、その性能は、updateされているとの事。

前稿の「ひこう中年」と言う気楽な話発展して国の防衛と言う話まで飛んでしまいましたが、災害派遣だけではなく日夜、その本来の目的の日本の防衛のため努力している人たちがいるという事を忘れてはならないと感じています。

 

ひこう中年

『私はひこう中年でした。』と言うと「実を言うと、私も相当悪だったんだよ。」と言われる方も居られるのでは?
しかし、今回お話しすることは、「非行」の意味は多少あるもの、主に「飛行」の話です。

誰しも「鳥の様に空を飛びたい!」と言う夢を持っているのではないでしょうか。私がエジプトで仕事をしていた時、民間の飛行クラブの会員でした。その飛行クラブは、現在のカイロ国際空港が使われる前の古いカイロ空港でモハンデシン地域の西にあり、会費はなしで、費用は飛行時間1時間当たり30US$だけでした。小さな格納庫の前に何人かの中年の男たちが座って話をしており、その中の一人が「今から乗るか?」。講義も脱出訓練も何もなく、出会ったのが、ウルトラ・ライト・プレーン(Ultra light plane超軽量飛行機ULP)でした。

グライダーに小さなエンジンとプロペラを付けた代物で機体重量は300㎏、離陸重量は450㎏程度ですので、オートバイに翼をつけたようなものです。

古いタイプのULP(Tandem-type)。今は翼が機体の上にあるタイプが主流。タンデム・タイプ

 

side-by-side TypeのULP

一人乗りと二人乗りがあり、二人乗りは横に二人が並ぶ形式のside-by-sideと前後に並ぶTandemの2つのtypeがあります。私が乗ったのはTandem-typeで、前の席に生徒、後ろの席に教官が乗ります。基本的にはどちらの席からも操縦できます。 操縦席の前には、足の間に挟む位置にスティック(棒)の操縦桿があり、前面には燃料計と油圧計、高度計、速度計、座席の横の床には車輪の上げ下げを手動でするギヤがあります。操縦席を覆うキャノピー(操縦席を覆うプラスチックの天蓋)には空気取り入れ用の手で開け閉めする小さな子窓があります。

実に単純なコックピット・フロント

シートベルトは、旅客機のアテンダント席にある様な胸の前でクロスするタイプの物で、それだけでも少しプロ的で胸躍る思いですが、ジェット機のパイロットの様にパラシュートも旅客機の様にライフ・ジャケットも何もなし。多少、不安になり教官に聞くと操縦席の背もたれの後ろについている直径20cm、高さ40cm程のアルミ缶を指差した。それがパラシュートで下の紐を引くとキャノピーが外れ、自動的に開くとの事。つまりこのパラシュートは飛行機ごと空中に浮かせる物なのです。

セルモーターでエンジンを掛け、管制塔に許可を貰いタクシーイングで滑走路に。離陸の許可を貰い、エンジンを吹かして加速して時速90kmを越える辺りで、それまで前に倒していたスティック(操縦桿)を手前に引くとフワッと機体が浮き上がりました。そのまま約1,000mまで上昇し、水平飛行に。ここまでは教官がやってくれましたが突如、操縦してみろと言われ、操縦桿を握りました。

「前に倒すと下降」、「手前に引くと上昇」、「左右に倒すとそれぞれの方向に曲がる」、ただそれだけを教えてもらい操縦桿を押すと、機体は急激に下降。教官があわてて機体を戻す。そんなことをやったあとで教官いわく『女性の体に接するときのように、やさしく触れ、押し、引いてやるとすぐに反応する』。30US$/時間でこんな楽しさが味わえるのですから、その飛行クラブは教官や会員はすべて中年という理由もうなずけます。(ULPに乗り始めたころは、女房殿にも何故か言いませんでしたが、深層心理的には後ろめたい何かを感じていたのかも。)

この飛行機ULPは、機体が軽いので上昇気流があると、上空でエンジンを止めてグライダーのように滑空ができます。エンジンを止めると全く音のない世界が生まれます。キャノピーの小窓を開けて手を外に少し出すと、さわやかな外気がコックピットに流れ込んできて、敏感に反応する機体を意のままに動かし、小さな模型のようになった町を見ていると、今まで鎖で地上につなぎとめられていた日常から自由になった気持ちになり、なるほど飛行機に乗るというのはこういうことだったのかと初めて理解しました。 大型ジェット機と違い、この飛行機ULPは空に浮かんで当然という感じがしました。上昇気流の有無には敏感に反応し、ナイル川や畑の上を飛ぶと機体は下降し、砂漠や樹木がほとんどない町の上では、機体は上昇します。

超軽量飛行機ULPから見たカイロの街並み

飛行機にも弱者保護のルールがあります。一番の優先順位は動力がない、グライダーで順次、大きな飛行機になるに従いその優先順位は下がります。ULPはグライダーの次に優先順位は高いのですが、わがもの顔に飛ぶことはできません。大型のジェット機の後方に発生する乱気流に巻き込まれると、ひとたまりもなく空中分解します。

さて、何度か乗り、管制塔とのやり取りができるようになるとStudent licenseという仮免が発行されカイロ周辺の決まった空域を飛ぶことができましたし、本当は飛んではいけない空域でしたが空からピラミッド見物もしました。クラブの4台の飛行機でアレキサンドリアを回るツアーもありました。

ひこう中年、実にいい響きです。両方の意味でも。

様々な弔い(とむらい)の方法と各国のお墓

最近、弔うと言う事に対しても時代の流れで、火葬で消費される多量のエネルギーや排出される二酸化炭素、或いは土葬の為の土地の不足が問題になり、全く新しい弔いの方法が報じられ、すでに幾つかの国では承認されているそうです。

一つは「フリーズドライ方法」です。遺体を液体窒素で-196℃まで冷やしその後、粉々に粉砕すると言う方法で、既に英国やスエーデン、韓国、米国の一部の州で承認されているとの事。次の方法は遺体を絹布で包み、160℃に熱したアルカリ性溶液の中に沈め全て溶かしてしまうと言う方法です。何か異次元の話のようで、そこまでやるのかと言う言葉が出てきますが、土葬から火葬へと弔いの方法が変化した時、遺体を燃やすと言う事に対して同じような感覚を我々の先祖は持ったのかもしれません。

東北地方の葬列のシーンが映画「おくりびと」の中で出てきますが、色とりどりの細長い布の旗指物が行列を彩っていました。この色とりどりの布は、エジプト、ネパール、パキスタンでも見られます。この布は、日本では見られなくなりましたが、色々な国では魔除けとしてお墓の廻りの木に、布が朽ちるまで下がっています。只、日本のお寺が何か行事をするときに、軒下に飾る布の様々な配色はこれとそっくりです。

インドネシアの葬列では、同伴するのは男性だけで、女性は娘のみが許され、なぜか妻は許されません。同じイスラム教の国であってもエジプトでは遺体に多くの女性が、時には泣き女が雇われ、泣き叫びながら行列に墓地(エジプトでは土葬) まで同伴します。イスラム教の場合、通常、女性は、亡くなった方が彼女の夫であっても遺体に面会することはできないとされていますがしかし、最近、時にはこのルールは無視されるように成っています。

お墓も設ける国と無い国があります。インド、インドネシアやヒンドゥー教では火葬した後、遺灰や遺骨を川や海に流し、或いは遺体をガンジス川に流し墓を設けません。かってキリスト教でも遺体を教会の内部に収め、最後の審判の後に復活する時を待ち、墓は設けませんでした。

昔、日本では両墓制をとっている地方がありました。人里から離れた所に遺体を埋める「埋め墓(葬地)」と、人の住む所から近い所に「参り墓」を建て、お参り、祭祀はそこですると言う方式です。只、江戸時代辺りまでは土葬、火葬に限らず墓石、石塔は建立されなかったと言われています。

お墓の形や墓標も国によって様々な形があります。あまり石を加工していない素朴な墓から高度な加工技術を駆使した墓まで様々です。下の写真はボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓ですが、これは北欧で活躍していたバイキングの墓の形だそうです。インドネシア民族と同様に海洋民族のお墓の形は、広く世界に広がっています。オランダも古くはインドネシアにコロニーを造り、今でもその足跡をお墓の形に見る事が出来ます。

ボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓

 

インドネシアのスマトラ島の近くのシムルー島の古い墓

1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、多くの人が亡くなりお墓の面積が3倍に成ったと言われていますが、その墓地の中を歩くと全く暗さを感じません。様々な墓標には、亡くなった方の写真が墓標に刻まれていますから、どんな人が埋葬されているのかは一目瞭然です。しかし、人間死しても見栄があるのか、墓標の写真と死亡した人の年齢が異なり、男女含めて若い素敵な写真が多いようです。

写真入り墓碑が並ぶボスニアの墓地

 

ボスニアの写真入り墓碑。享年57歳のお墓には思えません

お墓に様々な花を供えると言うのは、日本も他の国も同じです。日本の花の生産の7割が菊と言われていますが、その需要を支えるのが葬式や仏壇に供える花です。墓参りでも今では洋花が広く使われますが、昔はその季節の花が添えられました。日本のお墓では、花立やお線香立てなどお墓参りに配慮した設計に成っていますが、海外の場合、花立があるお墓はそれほど多くありません。

ボスニア・ヘルツェゴビナでの墓地の前には花屋が必ずあって、華やかな色とりどりの花が店先を鮮やかに彩っています。しかし、これが全て造花。生花は全く置いていません。

ボスニア・ヘルツェゴビナの墓地の前のお花屋さん

土葬の場合は、個々人のお墓で謂わば個室ですが、日本のお墓は大部分がその家のお墓で、共同住宅の様な意味を持っています。その為、土葬の場合のお墓参りは個人の命日や、誕生日などの特定の日にお墓参りをする事に成ります。それに対して日本のお墓のようにそれぞれの家、家系と結びついているとお墓参りをお盆やお彼岸などの決まった時にするようになります。
沖縄では毎年4月にシーミー(清明祭)と言う墓参りの行事があり、家族、親戚が料理、お酒を持ち墓参りをします。この行事は、昔の洗骨の儀式の名残だと言われています。 海外の人に聞いてみると、イスラム教の場合、家族でも個人でもお墓参りに行くという習慣は無いそうです。インドネシアのクリスチャンの場合は、死後3日目、7日目、40日目とクリスマスとイースターにお墓参りをするそうです。

 

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