阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

月: 2018年7月

「ものつくり」と法皇様の車

何時でしたか以下のような文に出会いました。

『一般にものづくりと言うと「匠」の世界の話として紹介しがちであるが、「ものづくり」とは、設計情報をものに作り込み、市場までの「設計情報の流れをつくり、良い設計、良い製品」で顧客や社会を満足させ、結果として売り上げを得る経済活動の事である。「ものづくり」は一つの思想である。』

日本の車は、時代の流れの中で顧客のほしいものは何かを的確に把握し、それを設計に盛り込み、製品として世に送り出し、売り上げを伸ばしてきました。アメリカのビッグ・スリーと言われた自動車メーカーの経営破綻、救済と言う事が大きなニュースになりました。一部ではこれは自業自得、いわゆるKY(空気が読めない)という問題だと言われていました。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしている際に、ローマ法王様(ヨハネ・パウロ2世)の車を見ました。この車は、法王様が外国を訪問される際に使われる車だそうですが、機能一点張り、無味乾燥という表現がぴったりと言う代物でした。これがバチカン法王庁の要求品質???

改造したデリバリー用2トン・トラックのような車ですが、法皇様の前に御話し相手用に2席あり、法皇様の座席は上下します。

法皇様の車全景

法皇様の車背面

後方からの写真は、法王様を沿道に人たちが拝謁出来るように座席が上がった状態です。勿論、周りのガラスは防弾ガラス。出入りは座席の後ろの扉からですが、どのように車から出るかは不明です。多分、座席が回転しスロープが出来て、車椅子になると言う具合だと思います。車椅子の写真はこの座席とそっくりでしたから。防弾ガラスの厚さは5㎝と聞きましたが、このガラス重量だけで約2トン。ガラス周りのフレームも丈夫そうです。しかし、後ろからの写真でお分かりのように、車はイタリア製ではなくドイツ製ベンツでした。イタリアで設計していたら、もう少し法王車と言う雰囲気に成ったのではないでしょうか。

ちなみに車のナンバープレートの SCV はバチカン市国のラテン語Status Civitatis Vaticanæの頭文字です。SCV -1は法王様の車ナンバーです。

 

阿寒平太の覗き見散歩・江戸、明治をめぐる文学と芸能の散歩

今回の「阿寒平太の覗き見散歩」は、色々な睦びを訪ねる散歩です。江戸時代からの芸能「落語」を覗き、明治時代からの牛鍋に舌鼓を打ち、1月25日に行われる湯島天神の「鷽替神事」を訪ねた後、その名前も散歩を締めくくるにふさわしい大人のバーOnce upon a time(ワンスアポン・ア・タイム=昔々)で酒を楽しむと言うものです。

今回の散歩は上野の「鈴本演芸場」が出発点です。鈴本演芸場(開業1857年)は、江戸時代から大衆芸能、特に落語の殿堂でした。江戸時代では落語の他に浄瑠璃・軍事読み(講談)・手妻(奇術)・八人芸(一人で八人分の楽器の鳴り物や声色などを聞かせる芸で腹話術の原型)・説教・祭文・物真似などが上演され、安政年間(1854-1860)江戸には落語・講談の寄席が合計して約四百軒もあり、江戸時代に如何に素晴らしい大衆文化が花咲いたかわかります。 落語の歴史は何時からと言うのは難しく、『徒然草』(1330年)の兼好法師が『落語系図』に名をつらねて、落語の歴史の上に噺家として登場していることからも古い歴史がわかります。

落語には「落ち(サゲ)」、語り口(弁舌)の上手さ、仕型(仕形・仕方=身振り手振り、表情)の3つが大切です。落語は、しゃべるだけでなく、高座に正座して上半身の洗練された身振り手振りや表情によって、用いる道具も普通は扇子と手拭いだけで、一人で大勢の登場人物や情景を描写しわけなければなりません。それを見るのが寄席の楽しさです。

初天神の落語と言えば、落語「初天神」があります。『何時も物を買ってくれとねだる息子をしぶしぶと初天神につれてきた男。何やかやとねだる息子の作戦に負け、ついに大きな凧を買うはめに。子供時代腕に覚えがある男は、子供を差し置き、凧上げに夢中になり、子供は「こんな事なら親父なんか連れてくるんではなかった。」とぼやく。』 当日、この落語がうまい具合に聴けるかどうかは「鈴本演芸場」のHP(http://www.rakugo.or.jp/)をご覧ください。

さて鈴本演芸場には昼の部中入り(午後3時位)に入ります。勿論、座る前に売店でビール或いはコップ酒とつまみを買って落語を見ながら、ごくごく、ちびちび、飲みながら、つまみながら。これが又、寄席の楽しさです。二時間ほど楽しんで出ます。

鈴本演芸場の前の広い道路は、江戸幕府が火災発生の際に類焼を防ぐ為道幅を拡げた所で、今の道路幅はそのままです。この辺りは江戸時代に幕府の茶礼.茶器をつかさどり、殿中に於いて茶を供する数寄屋坊主が拝領した拝領町屋で、下谷御数奇屋町と言いました。さてこの上野広小路から春日通りに入り、湯島天神下までは江戸時代には無かった道ですが、湯島切通し坂は江戸時代のままです。

湯島天神の下を通り、少し切通し坂を上ると左側に江知勝(文京区湯島2-31-23、電話 03-3811-5293営業時間17:00~21:30)があります。ここは、創業明治4年ごろと伝えられている牛鍋屋です。明治8年の毎日新聞には、鍋料理の番付表で前頭にランクインしている老舗中の老舗です。味付けに使う割り下は、伝統的な関東風でちょっぴり辛口。しょうゆと砂糖、みりんといたってシンプルですが、何と開店当初から130年間使い続けているものだそうです。東京帝国大学のすぐ裏と言う場所柄、文人、教授などの溜まり場だったとの事。

ここで明治の味を楽しみ、お腹一杯になった所で食後の散歩に湯島天神まで。ここで木彫りの「鷽」を授与してもらいます。ここは江戸時代から梅の名所として庶民に親しまれて、園内には約300本の梅がありますが、ここの梅祭りは2月8日~3月8日の1ヶ月間ですが、早いものはこの「初天神」には咲いています。

鶯の授与

この神社は明治の文豪・泉 鏡花の小説『婦系図(おんなけいず)』の結ばれぬ「お蔦、主税」の悲恋の舞台としても有名で、境内には鏡花の「筆塚」もあります。この境内の開門時間は午後8時迄ですのでご注意ください。

現在の本殿は平成7年12月に、総桧木造りで建て直されましたがその際、日本初の建設大臣認定第一号として木造建築が許可されました。建築に携わる人には一見の価値ありです。

湯島切通し坂を天神下の信号まで下りて、そこを右折し神田方向に約300m歩き左折して二つ目のブロックにOnce Upon a Time(=昔々 住所:台東区上野1-3-3 電話:03-3836-3799)と言うバーがあります。江戸、明治時代と巡って来た散歩を締めくくる所がこのバーです。古い倉庫を思わせる明治初期のレンガの外壁にOnce Upon a Timeと言う赤いネオンが点き、入ると古い木材を使った内装。酒だけを飲ませると言う雰囲気の大人のバー。そんなバーの片隅に座り「お蔦」と言う昔の女に思いを馳せながら、今日の散歩を終わりにしましょう。ここは営団地下鉄千代田線「湯島駅」迄歩いて3分の位置です。

 

鷽替(うそかえ)神事

(この記事は12月に書いたものをアップしました)

来月はもうお正月「睦月」です。 「睦月」の意味は、人々が集まって宴をする「睦び月(むつびつき)」とする案が有力だとの事です。

天神或いは天満宮は、菅原道真を「天神」として祀り、彼の怨霊のたたりを鎮める為に作られた神社ですが、其のいきさつを講談風に語ると次の様なものです。

『400年の長きを誇る平安時代の始まりから100年ほど経った宇多天皇の時代、頭の良かった菅原道真(大伴旅人、大伴家持などを輩出した歌人、学者の家系)は、普通の事務係(18歳で文章生)からあれよ、あれよと言う間もなく出世に次ぐ出世。41歳で香川県知事(讃岐守)、46歳で天皇秘書官長(蔵人頭)、そして54歳にしてついに右大臣(朝廷の最高機関の最高位)。
しかし、出る杭は打たれるは世の常。左大臣にチクられたとか、天皇家のお家騒動に巻込まれたとか、色々噂はあるものの、ああ、九州の大宰府に左遷。その頃の大宰府は、いわば軍の九州方面本部で九州地域の軍事、外交の要、彼の役職は副本部長(太宰権帥・だざいのごんのそち)。実質は中国との交易利権も含め権限は副本部長に集中していたとの事。
こんな美味しいポジションはそうそうない。所が、おえらいさんの左遷先としても有名でまあ、今風に平たく言うと「左遷するけど、余生は年金なしでも安泰、安楽」。私だったらそこでのんびり暮らすけど、彼は違ったね。左遷2年後に大宰府で病死後、怨霊となって清涼殿に雷を落としたり、疫病を流行させたりの大活躍。「まあ、なんとか穏便にお願いします」と言う事で彼を神様にして造られたのが「天満宮」。』

彼が優れた学者であったことから「天神様」は学問の神様ともいわれ、教育熱心な日本全国に広まり、約8万社ある色々な神社の中で第3位、5%の約4000社が「天満宮」です。

彼が生まれたのは6月25日、左遷命令が1月25日、命日が2月25日で、毎月25日は「天神さんの日」とされ、1月25日を「初天神」といいます。(神社も意外に簡単にイベント日を決めるものですね。)
「初天神」この日、「天満宮」では「鷽(うそ)鳥」(名前は口笛の「おそ」から来ている。全長15cm程の小鳥で、130円切手デザインのモデル)の木彫りが授与されます。「鷽」という字が学の旧字に似ていることから「天神様」のお使いとなっているそうです。

鷽替神事は、この授与されたこの木彫りを、「替えましょう、替えましょう!」と言って隣の人と取り替えて、嘘を誠にするという行事です。

湯島天神鷽替神事

建物の動態保存の難しさ

NPOつげの会の会員で精力的に活動されている水上勝之氏は「群馬音楽センターを愛する会」を主宰され、高崎にレーモンドが設計した群馬音楽センターの動態保存に奔走されています。

富山県五箇山、岐阜県白川郷は「合掌造り集落」として世界遺産に登録されていますが、3、4階建ての大きな茅葺の民家を生活しながら動態保存していく困難さは、よく報道されています。嘗てはそれぞれの家に大家族が住み、労働集約的な生産を行っていたこれらの集落では、大屋根の茅葺の葺き替えにも十分な労働力がありました。しかし、今ではそれぞれの家に住む家族の人数は、都市部の集合住宅の1戸と変わらない状態で、観光客のほうが多いのが現状で、茅の葺き替えも多くのボランティアに支えられて行われています。

ただ、観光地化されたこの「合掌造り集落」は、保存への様々な問題点を抱えながらも時代の流れの中で観光産業と言う新たな生産活動の中に生き続けることが出来ています。しかし、世界遺産に指定されながらもその存続を危ぶまれている、集落、町が沢山あります。そのような例を一つご紹介しましょう。

マザー・テレサが生まれた国としてご存知の方も多いアルバニア国(バルカン半島にありギリシャの北にある。) に「ギロカストラ」と言う都市があります。この都市の旧市街地は、2005年に「ギロカストラの博物館都市」として世界遺産に登録されました。街並みを形造っているのは、この地特有のクラ(kullë「塔」の意)と呼ばれる石作りの家で、オスマン帝国時代に作られたものです。

ギロカストラ旧市街地俯瞰

 

ギロカストラの大きな民家

壁も屋根も全て変成岩の一種の板状の結晶片岩で作っています。高い建物は3階建て4階建てもありますが、各階の床は木造ですが、それ以外はすべて石で造られています。屋根も木造の母屋、垂木の上に板状の石が葺かれています。

石屋根の屋根裏

この石葺きの屋根は、「合掌造り集落」の茅葺ほどのメンテナンスは必要ないのですが、石も長い間に劣化します。温度差による内部応力や、片理にしみ込んだ水の凍結により結晶は崩壊し、薄くそして時には崩壊しますので部分的な補修作業は必要です。それ以上に大きな問題は、その大きな重量の屋根を支えている木造の母屋、垂木です。

私がその都市を調査していた時、腐った母屋、垂木が折れ、屋根が崩壊し、その家で生活していた家族6人が死傷したというニュースをテレビで見ました。最近では旧市街地写真に見られるように瓦やトタン葺きの屋根も多くなってきました。この都市は城砦都市で大きな城もあるのですが、このバルカン半島はイスラム教、カソリック・キリスト教、東方正教などの宗教が入り乱れ覇権を争った地域ですので、少し大きな都市には城があり、それだけでは観光資源にはなりえません。まだ観光産業が発達していませんが、発達してもこの町が自立するためには、ギリシャ国境から40㎞と言う地の利を生かしてギリシャとの観光連携が必要なのかもしれません。

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