阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

日: 2018年8月5日

マグマティ川に架かる珍しい産業遺産の橋

さて、前稿のマグマティ川がまだまだ清く澄んでいた時代に掛かった素晴らしい橋の話です。ヒマラヤ山脈もカトマンズ市の周りの山も、はるか昔に海から隆起した泥岩、頁岩、砂岩、石灰岩などから成る変性岩の層に覆われており、嘗てマグマティ川が刻んだ幾つものの洞窟や峡谷があります。その洞窟群公園(場所名はChovar Gorge) のすぐそばに実に優美な姿の吊り橋がマグマティ川に掛っていました。もともとつり橋は構造的に無駄のない架構で綺麗な形をしているのですが、此のつり橋は綺麗であると同時に風格がありました。

Chundra Gorge Bridge

今は通れませんが、観光年2011年の時は下の写真の様に人を通したようです。

通行時のChovar Gorge bridge

橋柱に銘板がありました。製作者はスコットランド・アバディーンのLouis Harper AMI.C.E。橋の名前はChundra Bridge、建設年は1903年6月、橋を掛けた人は大佐 Kumar Nursingh Rana Bahadur C.E.の監理のもとにネパール政府の技術者と記載されています。

橋製作者銘盤

橋施行者銘盤

建設管理者名の最後についているC.E.は多分、Chief Engineerの略だと思います。Kumar Nursingh Rana Bahadurは、ラナ家(Rana)の出身の誰かだと思われます。当時は、1846年の宮廷での権力闘争を利用し有力貴族を殺害し当時のラジェンドラ国王を追放して、傀儡スレンドラ国王を擁立し実権を掌握したラナ家独裁政権の時代(1846年から1951年)です。ラナ家は、江戸時代の朝廷・幕府の二重権力関係との類似性から、「ネパールの徳川幕府」と言われ、ラナ家歴代の首相は19発の礼砲で迎えられる地位に位置付けられていたとの事です。

ネパールの王家やこのラナ家には、何度も権力闘争のお家騒動がありましたが、1885年のラナ家の内紛の登場人物に、General Dhoj Nursingh Rana Bahadurという人物がいますが、Col. Kumar Nursingh Rana Bahadurも彼と血の繋がりを持つネパール軍に関係する人物でしょう。

Kumar Nursingh Rana Bahadurは、フランスのベルサイユ宮殿にも匹敵するという東洋一の宮殿(Singha Durbar これについては別の稿「アジアのベルサイユ宮殿」でお話しします。) を作った技術者としても名前が挙がっています。

さて、工学の分野で飯を食う私にとって重要な点は、製作者の方です。その当時、Louis Harperは有名なつり橋の設計者であり製作者で、製作工場を経営していました。名前の後のAMI.C.Eは、イギリス土木学会準会員(Associate Member of the Institution of Civil Engineers)の略です。彼の父親は、1880年代につり橋のパテントを取っています。Louis Harperはその当時イギリスの殆ど全てのつり橋の設計や製作を手掛けていました。しかし、彼の橋が何故、イギリスから遠く離れたこのネパールに?

ラナ家は、王家との婚姻を通じて、今でも経済面でネパールに対して大きな影響力を持っているそうです( Wikipedia)。この橋が架かった当時、東インド会社が実質的にインド全域を支配しており、ラナ家もその権力存続の為、東インド会社と密接に結びついていました。この橋が掛っている道は、東インド会社がチベットとの交易に必要な重要な通商ルートでした。多分この橋も東インド会社から依頼と言うより、命令でネパール軍の工兵隊が掛けたのでしょう。

丁度、この頃イギリスでは、銑鉄、錬鉄と言う初期的精錬から1856年の転炉の発明で、粘りがあり強く、錬鉄よりも加工し易い鋼鉄(はがね)を安定的に市場に供給していました。鋼鉄は、線路や建築構造物、造船等に使われ、当時のイギリスは鉄製品の世界の工場として重要な拠点でした。

此の橋がイギリスで製作されていた頃、日本海海戦(1905年5月27日~28日)で活躍する戦艦三笠(1902年引渡)、戦艦富士(1897年引渡)、戦艦朝日(1900年引渡)がイギリスの造船所で製作されていました。

戦艦春日

時代は正にアール・ヌーボーの時代、鉄骨を使って優美な建築が沢山作られた時代です。1989年のパリ万博で作られた、ガラスのドームのグラン・パレ、エッフェル塔、巨匠オットー・ワグナー設計のウィーンのカールス・プラッツ地下鉄駅(1901年)等は当時アール・ヌーボー時代の鉄骨の芸術を余すところなく表現している傑作です。しかし、そんな時代の中でケーブルを使ったつり橋は、全ての華燭を削そいだ「力学の美しさ」というような別の美しさを誇っていたと思います。しかし、此の橋は橋柱の先端には、アール・ヌーボー的な飾りをチラッと見せている、そんな風情が此の橋の風格を作っているのでしょう。

カールス・プラッツ地下鉄駅

色々と話が飛びますが、この優美な橋は、思いを色々な話題に連れて行ってくれます。

Louis Harperは、ネパールでもう一つ、今現在も使われているというSundari Footbridgeという橋を設計製作しているとの事で、探しましたが見つかりませんでした。

遠くイギリスからもたらされたこの素晴らしい産業遺産を、ネパールが大切に保存してくれる事を切に望んでやみません。

ヒンズー教の聖なる川の危機

ネパールの首都カトマンズに流れるマグマティ川は、源流から河口に至るまでヒンズー教の聖地が河岸に並ぶ聖なる川です。その川が危機に瀕しています。

ヒマラヤ山脈の南側には、山脈と並行して数本の襞(ひだ)が走っています。この襞の間にある首都カトマンズは、昔は水深500mのカトマンズ湖があった所です。そこに流れ込むマグマティ川が運んできた土砂で湖は浅くなり、ついに南側の襞が決壊し今のカトマンズ盆地が出来ました。マグマティ川はネパールを南下し、仏陀が悟りを開き、仏教の生まれた地でもあるインドのビハール州に入り、ガンジス川に合流した後バングラデシュに入り、ベンガル湾にそそいでいます。
首都カトマンズの東側、マグマティ川の河畔にはパシュパティナート(Pashupatinath)というネパール最大のヒンドゥー教寺院があり、そこには火葬場があり、遺灰はマグマティ川に流されます。マグマティ川が合流するインドのガンジス川河畔のヴァーラーナシー(Varanasi)も聖なる場所として、火葬が行われており、バングラデシュに入ると、その河畔のランガルバンドゥ(LangalBandh)もヒンドゥー教の聖地となっています。ガンジス川は上流から下流までのヒンドゥー教の聖地を結び、聖なる川とされています。

写真:Pashupatinath

しかし、カトマンズ市内を流れるマグマティ川は下水と化し、黒い川面が発する悪臭が問題になり、またインドではガンジス川の汚染は他の川の10倍にもなっていると問題になっています。何とか聖なる川を「清なる川」にするためには、「川の流れは、何ものをも飲み込み洗い流してくれる」という意識を変える事が必要なのでしょう。
また、「川を守るためには森を守らなくてはならない」というは鉄則ですが、ヒンドゥー教では「薪を焚く野焼きの火葬によって人は再生する」という思想があり、日本からの白灯油、都市ガス・液化石油ガスによる火葬の技術移転が進んでいないと言われています。ここで火葬技術と書きましたが、火葬には様々な技術が必要です。これは一例ですが、ヒンドゥー教の場合、お墓は持たず遺灰は川に流してしまいますが、日本の場合は遺骨をお骨揚げして、お墓に埋葬するという文化があるため、ただ高熱で火葬すると全て灰になってしまうので遺骨が残るように温度調整する火葬技術が必要になります。

近代的な火葬炉の裏側

人体の組成は、水分60%、タンパク質18%、脂肪18%、鉱物質3.5%、炭水化物0.5%です。ですから、燃焼させるには、灯油の場合50ℓ以上の熱カロリーが必要です。しかし、体脂肪が多い場合は、必要熱量は下がってきます。200㎏以上の体重の遺体の火葬の際に体脂肪の燃焼で炉の中の温度が上昇し過ぎて火災になった例があるそうです。

これは、Wikipediaで拾った情報ですが『2012年竣工のソウル市火葬場は、巨大な美術館を併設し、最新のデザインの外観で、徹底的に環境問題に配慮し、火葬炉も最新鋭技術によりコンピューター制御され、遺骨はロボットが運ぶなど世界でも最新の設備を誇る施設』との事です。

他の稿でも書きましたが、中国国境の海抜8000mのヒマラヤ山脈に発するネパールの川は、日本の本州の幅ほどの距離をインド国境の海抜70mまで、急流となって山を削り、谷を削り駆け下ります。如何に森を守り、川を守るかは、ネパールの100年の計と言えるでしょう。色々な意識や考え方が変わって早く、聖なる川を守ることが出来るようになればと願っています。

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