阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 海外

日本からエジプトに贈ったオペラ劇場

2010年、『オペラ連盟が文化庁からの支援金を水増し』、『景気の影響で海外オペラや音楽の来日公演は、2008年比で1/3以下減少』など芸術オペラとは違う面のニュースが流れましたが、今回はオペラ劇場に纏わる芸術には余り関係のないお話しをしましょう。

[オペラ劇場と政治の世界]
昔の事ですが、私が建設会社の技術者だった時、エジプトでオペラ劇場を建てた事があります(1988年落成式)。このオペラ劇場は、日本からエジプトへの贈り物として建てられました。

エジプトは、スエズ運河の開通記念式典(1869年)に招いた多くのヨーロッパの王侯貴族を歓待する為にオペラ劇場を造りました。このバレー、演奏、声楽に演技が加わったオペラと言う複合芸術の場は、エジプトの音楽レベルを高い水準にしましたが、残念な事に1971年に焼失してしまい、育った芸術家たちはヨーロッパに散って行きました。

そこで日本からの贈り物のオペラ劇場です。日本・エジプトの友好強化、教育水準向上などODAとして色々な理由はありましたがその当時、日本にはオペラ劇場は無く、日本の国会では「自国にもないものを贈るとは!」と言う事で紛糾しました。しかし、ヨーロッパの諸国は、オペラ劇場をプレゼントしたと言う事で日本の文化度を高く評価し、エジプトでも記念切手や絵葉書が多数発行されました。因みにその時に日本側がつけたプロジェクト名は「エジプト教育文化センター」と言う隠れ蓑的な名前でしたが。この時の駐エジプト日本大使は、バレーの筋書きの作家で大のオペラファンだったとの話も聞きました。

日本で寄贈したオペラハウスを記念して発行された絵葉書

 

日本の寄贈したオペラハウスの記念切手及びシート

さて、私はこのオペラ劇場建設の際に、劇場設計、音響、照明、舞台装置など其々の専門家の方々と、ヨーロッパ諸国のオペラ劇場の調査を行いました。昼は調査、夜はオペラ、レヴューを見て、見終わると舞台比較論に明け暮れる毎日で、実にハードな業務出張でしたが夢のような素晴らしい時間を過ごしました。

全て手作業による木造船の製作(スーダン国)

以下の写真はアフリカのスーダン国のナイル川に面する造船所での木造船の製作過程の写真です。電気による動力は全くなく、全て手作業ですが驚くほど素晴らしい曲線の船が出来あがって行きます。

船体の板を大きな丸太から挽き出している

次の写真は竜骨の部分です。丸木舟の船体部分を変化させ、大型化した船体の曲線に会うように削り出し細くして、竜骨に変化したと考えられています。

竜骨を船台?に据え付けた状態

次は竜骨から徐々に外板を取りつけている写真です。何のフレームもない状態で綺麗な曲線で外板が伸びて行きます。

竜骨から両側に伸びていく外板の状態

外板はそれぞれ大きな手製の船釘で斜めに固定されていき、外板どうしの継ぎ目には布が詰められ、浸水を防ぎますが、それも完全とは言えず浮かべている間は、常に小さな桶で水をかき出していました。下の写真では外板の継ぎ目ふさぎの作業で外板の繋ぎ方法が判ります。また、両舷側を繋いでいる梁の影が見えます。この船は3本の梁が両舷側を結んでいました。

船郭の防水作業。布を隙間に埋めている

次の2枚の写真は完成した船と進水式の様子です。進水式と言っても大勢でコロを使いながら、水辺まで運び、浮かべるだけです。浮かべて係留して水圧がかかった状態で、帆や甲板などの色々な艤装を行います。

完成した船体

進水式

このように色々な木造の素晴らしい造船技術を見ると、はるか太古から人が船を造る際の基本的な技術は、そんなに違いはないのかなとも思います。

現代の船は、船体の材料が木造から鉄、ガラス繊維や炭素鋼繊維により補強された樹脂に変化し、それにより竜骨がない船体構造に変化してきています。この変化は、3000年以上の船の歴史の中で、ほんのわずか100年に満たない短い期間で起こり、今も変化し続けています。今後どのように変化していくのか楽しみです。

 

丸木舟とそれからの発展

皆さん、丸木舟と言うと縄文時代か、それ以前の遥か昔の話と思われるのでは?ところが、世界の色々な国では今でも実際に作られ、使われており、下に掲載した写真のようにデザインも機能美に溢れ洗練されています。今回は、日本の丸木舟の歴史や、丸木舟の大型化の過程と、竜骨を持つ木造船の造船過程を紹介しながら、船の造船技術についてご紹介します。

インドネシアの丸木舟

日本での先史時代の丸木舟の発見例は200例ほどで、その分布は関東地方で150例ちかくあり、そのうち100例が千葉県で発見されています。千葉県多古町の遺跡からは、紀元前3500年頃(縄文時代前期)のムクノキの胴をくり抜いてつくった丸木舟が見つかっています。多くの例を占める単材モノコック構造の丸木舟は、一本の丸太を刳り抜いて作られるので、木のサイズで丸木舟の大きさは決まっていますが、古墳時代と推定される全長11.7mのクスノキの丸木舟など10mを超す大きなものも見つかっています。また、丸木舟でも単材だけではなく前後に単材を繋いだもの、左右に継いだものなど複合材(重木(おもき)と言います。) の丸木舟もあります。現在、日本で唯一作られ続けている丸木舟も複合材で製作されています。

島根県松江市美保関町の美保神社の神事に使われる諸手船(もろたぶね)と言われる丸木舟は、昔からの伝承により40年に一度作りかえられ、1940年及び1978年に造られたものが保管されています。これらの船はモミの大木を刳り抜いた部材を左右に継いだ複合部材の丸木舟で、その製造方法は木造和船の初源的なものと言われていますが、この船も元々は単材で作られていたと言われています。

この神事は、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国譲りの意向を確認するため、美保関で釣りをしていた事代主命(ゑびすさま)を諸手船で迎えに行ったという故事にちなみ、毎年12月3日に行なわれます。美保神社から漕ぎだした2槽の丸木舟が対岸の客人社(まろうとしゃ)の下を折り返すと岸まで競争し、到着後は櫂(かい)で激しく海水を掛け合います。その船は、長さは6.6m、最も幅の広い部分で1.12m、その深さは51cmと、大きなものです。

上に掲載している丸木舟は、インドネシアのスマトラ島北西にあるシムルー島で使われている単材丸木舟です。実に細かな所までも刳り抜いていて機能美にあふれた美しい船です。人が座るコックピットの板(soleソール)の受け部分も綺麗に刳り残しています。

下の写真は丸木舟の舷側に波除板を取りつけ、船を深くしている写真です。この舷側板により丸木舟が大型化していきます。

船大工がものコックの丸木舟の舷側top-sideを高くしている

次の写真は舷側を高くし、エンジンを取りつけた丸木舟のスクリュー部分の写真です。舷側を高くする事でエンジンの荷重や、高速航行で生じる高い波の問題も解決しています。帆による航行が考えられた時点で既にこの改造方法は取り入れられていたと考えられています。

エンジンを取り付けた丸木舟のスクリュー部分

 

肉食の文化

注)下部に羊の丸焼きの写真があります。ご注意ください。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしている時に、「羊の丸焼き」と言う料理に遭遇しました。今回は、日本の食肉文化と、私が遭遇した海外の「肉食文化」について少しお話します。

縄文時代は狩猟文化で肉が主食と思われがちですが、主食はドングリで、肉は副食の一部だったと推測されています。縄文時代は、温暖化が進み海面の上昇(縄文海進)により陸の食料だけでなく、漁・貝・藻の採集も行われ、豊かな食生活が営まれていました。本州中部以北の日本列島東部には、ナラ、クルミ、クリ、トチなどの温帯的な落葉広葉樹林が、東海から九州に至る列島西部には、カシ、シイなどの暖帯的な照葉樹林が分布していましたが、列島東部の落葉広葉樹林のほうが狩猟動物、木の実は豊富で、魚漁も発達し、人口も列島西部と比べて圧倒的に多かったと言われています。数千年続いた縄文時代末期に、列島西部では、雑穀(アワ、ヒエ、モロコシ、ソバ)を主要作物とする農業が行われる様に成りましたが、列島東部を含めて広く肉食は続いていました。

仏教伝播以降の天武4年(675年)天武天皇によって「殺生禁断令」が出され、「牛、馬、犬、鶏、猿」の肉を食べる事が禁じられましたが、猪、熊、雉などは含まれていませんし、禁止期間は毎年4月から9月までの農耕期間に期間が限られていました。また、701年(大宝元年8月3日)の大宝律令には「死亡牛馬処理」に関する項があり、「官有牛馬が乗用あるいは使役中に死亡または病死した場合は、皮及び肉はその役所で売却して公の費用に充てよ」の旨が書かれていました。

『庭訓往来(ていきんおうらい)』(南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる往復書簡集で、江戸時代でも寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書)の5月返状に「豕焼皮(いのこやきがわ)」という脂肪がのったイノシシの皮を焼いた料理の名前や料理材料として干鳥、干兎、干鹿などの名前が出ています。

天明(1781年~1788年)から嘉永(1848年~1854年)にかけて、彦根城主から将軍へ、寒中見舞として牛肉の味噌漬が樽で献上されていたとの記録が残され、享保3(1718)年には江戸両国に「豊田屋」、通称「ももんじ屋」という獣肉専門店が開店しています。

しかし、仏教の影響で、獣肉食、獣肉が「穢れ」とされ、屠殺人・獣肉解体人・死体処理人・皮製造職人などを穢多・非人として穢れ、差別対象としてきた事も事実です。しかし、猪肉を.牡丹・.山鯨、馬肉を桜、鹿肉を紅葉、鶏肉をかしわ、と隠語で呼び「薬喰い」と称して一般の人も食していたと言うのも事実です。

『しづしづと 五徳(ごとく)据えたり 薬喰(くすりぐい)』  与謝蕪村
このタテマエとホンネの違いは、明治5(1872)年1月に明治天皇が公に牛肉を試食した時を境に無くなり、肉食を誰に憚ることなく出来るようになりましたが、今でも隠語は生きているようです。

肉の食べ方は色々ありますが、その中で「丸焼き」と言う豪快な料理方法があります。この「丸焼き」と言う肉の食べ方は何時頃からの物でしょうか?少なくとも火は、炎を上げる火ではなく、炭火或いは輻射熱が豊富に使えなければ、この「丸焼き」と言う料理方法はありません。この観点から日常にこの料理方法が使われたのは人間が豊かになってからのことでしょう。ヨーロッパの様々な宮廷料理の記述の中にも牛、豚、鹿、七面鳥などの丸焼きは記載されており、客の好む料理でしたが、やはり火を贅沢に使った料理として、余り通常は食べられない料理としてもてはやされたようです。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をした際に、建設業者からプロジェクトの打ち上げパーティーに招待されました。建設業者の経営陣、技術者、その家族など合わせて60人位が参加した大きなパーティーでしたが、始まった時間は午前中、終わったのは夜中で、延々12時間に亘るパーティーですが、ずっと飲み続けているわけではなくサッカー、バレーや水泳をしながら、時々ドンッと据えられている生ビールを飲んだり、昼寝したりしながら時間を過ごします。その時に「ヒツジの丸焼き」に初めて遭遇しました。

まず、羊の皮を剥ぎ、内臓を抜き、丸焼き用のシャフトを通します。その後で皮の内側の脂身のネットで包みます。

皮を剥いだ羊

脂身のネットを被せる

丸焼き用の炉は単に屋根がある大きな暖炉のような構造ですが、薪が燃える熱で後ろのレンガ壁を熱し、炎とそのレンガ壁の輻射熱でじっくり焼き上げる構造に成っています。

丸焼きの炉

輻射熱でじっくりと焼く

ほぼ焼きあがる状態まで、6時間ぐらい掛っています。

ほぼ焼き上がった

「ヒツジの丸焼き」が焼きあがり、皆がそろっている食卓に行くと、どん!と目の前に丸焼き羊の頭が熟したトマトを口に頬張って置かれていました。

主賓の前に出された料理

確かに「ヒツジの丸焼き」は食べると実に美味しいのですが、目の前でトマトを頬張った目で見つめられると食べた気がせず、早々に移動してもらいましたが、我々日本人の感覚からは遠い食べ物と感じました。

 

蒸留酒ラキヤ

今回はお酒について書きましょう。『酒なんて書くものじゃないの!酒は呑むもの!書いた物読んで肴に成るか?』と既に酔ったご仁に言われるかもしれません。このご意見に私も全く賛同。ただ、HP管理者が原稿出せ、原稿出せとせっつくものですから、仕方なく呑んでいる酒を中断して・・・・。

さて、「酒は全て醸造酒です」と書くと、「お前、酔っ払っているな。酒は醸造酒もあり、蒸留酒もある、これが常識だろう。」と言われるかもしれませんが、これは本当です。

特にことさら書く事ではありませんが、醸造法にはワインのように果汁に酵母を添加して発酵・熟成させる直接醸造法と、清酒やビールのように原料となる穀物原料の米や麦芽を一度糖化させてから発酵させる糖化醸造法があります。これらのエチルアルコールを含む飲料を作る過程を醸造と言うので、全ての酒は醸造酒だと言えます。

酒の原料は多種多様ですが、糖分、もしくは糖分に転化されうるデンプンを含む物は、果物、穀物、樹木の枝葉、樹皮を含め全て酒の原料に成ります。

話が飛びますが、アラビア半島のサウジアラビア国の南西にイエメンと言う国があります。遥か昔ですが、美人で有名なシバの女王の国(紀元前10世紀頃)があった所です。今でもその頃作られたと言うダムの一部が残っており現在は、その内側にアメリカからの援助で作られたダムが満々と水を湛えています。又、イエメンはアラブ人、ヘブライ人やフェニキア人などのセム族の故郷でもあります。
イスラム教の国ですから勿論、酒は禁じられていますがその代わりに「カート」と呼ばれる葉を噛む習慣があります。この木は、東アフリカとアラビア半島の熱帯に自生するお茶の木に似たような葉をもつニシキギ科の常緑樹の一種で、葉が付いている小枝を束ねて売っています。一説では、これは非常に原始的な酒だと言われています。

若葉を選び、そのまま口の中で噛んで大きな飴玉を口に含んだように口の中で丸め、葉っぱから出てくるエキスを飲みます。このエキスには、軽い興奮作用を起こす成分(覚醒作用をもたらすアルカロイドの一種カチノン)が含まれており、イエメン以外のアラブ諸国ではカートは麻薬の一種として禁止されています。口の中の適切な温度で長時間噛まれる事で、エキスが口の中で発酵し弱いアルコールに転化し、覚醒成分と混ざり酒の代わりとなっていると言われています。ソマリアでもカートは流通しており、ソマリア沖の海賊の身代金の一部がカートで支払われたこともあるそうです。(イエメンで仕事をした時に、私も噛んでみましたが、青臭いだけで美味くもなんともなく勿論、酔う事もありませんでしたが、酒やコーヒーなど刺激物を飲んでいると酔わないそうです。)

南米・アジア・アフリカのごく一部では、各種穀物を口に入れ噛み砕いた後、瓶や甕に吐き出し発酵を待つという、低アルコールながら原始的な「口噛み酒」と言う酒造法が有史以前から現在まで行われているそうです。古代日本でも巫女がその役を務め「醸す」の語源となっていると言う説があるそうです。

さて、醸造で出来た「アルコール」を含んだ水を一度蒸発させ、後で冷やして凝縮させ、沸点の異なる成分「アルコール」を水から分離する作業が蒸留です。水の沸点は100℃、アルコールの沸点は約78℃ですので醸造した液体を、100℃以下78℃以上に沸かすとアルコールだけが蒸発し、その蒸気を冷やすと蒸留酒が出来あがります。ウイスキーとウォッカは穀物の醸造酒を蒸留したもの、ブランデーはワインを蒸留したものですし、焼酎はご存じのように米、芋、麦など様々な物の醸造酒を蒸留したものです。

この蒸留という過程が実に簡潔明瞭に判る単純な装置で出来た、実に美味い蒸留酒ラキヤをボスニア・ヘルツェゴビナで呑みました。

ラキヤの蒸留装置1

 

ラキヤの蒸留装置2

ボスニア・ヘルツェゴビナの家庭の庭には、洋ナシ、オレンジ、ブドウ、リンゴなど様々な果物の木が植わっています。この果物を秋に収穫し、潰して冬まで樽で貯蔵します。潰すと言っても殆どが足で踏みつけていました。この踏みつけた物をただ貯蔵するだけで何もしません。貯蔵している間に、樽やその家の食料庫に住み付いている酵母菌がじっくりと発酵作業をしてアルコールを作って行きます。ボスニア・ヘルツェゴビナの冬は寒いのでそれほど腐造や変調は起きないのでしょう。

車で引いてきた蒸留装置を家の前に据え、手前の釜(上の写真のまきが燃えている炉の上の小さな容器)に貯蔵していた液体を入れ下から薪を焚いて沸かします。アルコールの蒸気は斜めの管を通って後ろの凝縮釜(写真の青い色のタンク)に行き冷やされて、蒸留酒となって出てきます。この作業は装置を所有している専門業者が行うそうですが、その対価は出てきた蒸留酒の1割と言う事で決まっているそうです。冬の2月から3月頃に各家を廻り蒸留酒作りを請け負って移動していきますが、据え付けから蒸留完了までは量にもよりますが数時間で済みますので、この1割と言うのもそれほど少ない対価ではないのでしょう。沸かす為に使う薪と凝縮に使う水は、各家庭持ちです。

同じ果物を使った蒸留酒でも、味も香りも様々です。各家に住みついた酵母菌は同じではありませんので出来あがった蒸留酒も違った味と香りになります。

酵母菌もそれほど管理されたものではなく働く力も弱いので、一度の蒸留ではそれほどアルコール度の強い酒はできませんが、蒸留した酒を再度、釜に入れ沸騰させると言う事を繰り返すとアルコール度が徐々に高まり90度位のものすごい酒が出来ます。

ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしていた時、国中を廻りその土地、土地で色々な自家製ラキヤを楽しみました。なんと、素晴らしき時を過ごした事か。

あな醜(みにく)、賢(さか)しらをすと、酒飲まぬ、人をよく見ば、猿(さる)にかも似む
万葉集:大伴旅人(おおとものたびと)
(ああ醜い。賢そうにして酒を飲まない人を、よくよくみたら、猿(さる)に似ているようだ。)

(大伴旅人は「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おおともきょう)」と言われ、出世街道なれの果ての大宰府長官の時に、酒で憂さを晴らしていた時の歌なのでしょう。)

日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方

タブー(Taboo)と言う言葉があります。「社会生活の中で何をしてはならない」と言う行動を規制する規範を表しますが、元々はポリネシア語のTabuが語源で、ジェームス・クックが、その旅行記でポリネシアの風習を紹介する際に使い広まった言葉で、日本では「禁忌(きんき)」と訳されています。

この禁忌の中に「血」と言う物もあげられます。しかし、この「血」は時には死との繋がりから「穢れ(けがれ)」として忌避され、時には「血の繋がり」や「子孫繁栄・生命力」など生命を象徴し、日本語としても単に「禁忌」の意味だけではなく反対の「好ましい物・清浄」と言う意味も持ち両義性があります。世界の国々でも「血」についての考え方は様々です。

最後の晩餐

キリスト教では、イエスの最後の晩餐での「パンとワイン」を「肉と血」になぞらえていて、我々日本人とは違った思いを「血」について持っています。

パンとワイン・肉と血

今から20年以上前、私がエジプトに住んでいた際、借りていたアパートの部屋の模様替えの為に大きな本棚を動かした時、丁度本棚のうしろの壁に茶色の手の痕が無数についていました。会社のスタッフに聞くと、オーナーがその部屋が災難にも会わず使い続けられるようにと、生贄の血を壁につけたものとの事。「生贄の血と言うのは何なんだ?」と聞くと、通常は羊か牛との事でしたが、何か気味が悪く、模様替えは中止。

いすゞ自動車とGMとのエジプト合弁会社の工場が完成し、1号車がラインから出てきた際に、その車体全体も真っ赤な手形で覆われていました。これも生贄の牛の血でした。

エジプトの首都カイロは、エジプト4000年の歴史を展示するカイロ博物館でも有名ですが、スエズ運河の開通を祝って1869年にカイロ・オペラハウスが作られた事でも有名です。それ以来、カイロは中近東、アフリカでの音楽文化の中心となりましたが、残念ながら1971年に焼失してしまいました。1988年に日本から開発援助の一環として新しいオペラハウスが贈られました。当時、ヨーロッパ諸国では開発援助でオペラハウスを贈ったと言う事で日本の文化度を高く評価していました。

さて、この日本の文化度の高さを示すオペラハウスの地鎮祭での出来事です。建設事務所の脇の空き地に1頭の大きな牛が連れてこられ、イスラム教の導師がコーランを牛の前で唱え、すぐさま牛の頸動脈が切られると、牛は徐々に前足を折り、跪いて横倒しに成って行きました。廻りは血だらけで、私が見たのはそこまでで、事務所に入ってしまいました。暫くして、秘書の女性が一緒に写真を撮ろうと呼びに来て外に出てみると、事務所の女性達が、血が滴る牛の首の角をむんずと掴み、私と一緒に写真を撮ろうと並んでいました。

日本的な感覚では、見るもおぞましいと言う所ですが、この頃のエジプトでは動物の屠殺を見ると言うのはそれほど稀な事ではありませんでした。ラマダン明けの休暇の前には、家の前の道路で羊を殺して、皮をはぐと言う血だらけの作業が当たり前のように見られました。さすがに今ではあまりにも残酷と言う批判の為か、公衆が見る事が出来る道路では禁止に成りましたが、エジプトの人々にとっては動物の血を見たり、触ったりと言う事は、日本的な穢れ(けがれ)と言う事とは結びつきません。動物を殺し、その捧げられた尊い命の血によって災いから守られると言う感覚です。

エジプトと同じ様に国民の大部分がイスラム教徒であるインドネシアでは、この「血」に対する感覚が全く違います。プロジェクトの開始、完成の時に、牛、鶏、羊などを殺してその成功を祈願したり、祝ったりすることはエジプトと同じですが、その血に触ることは「穢れ」となっており、牛や羊などを殺した際には、その首は土に埋めています。

このように、同じ宗教の国であっても禁忌というものに対する考え方は、全く正反対です。何が禁忌というものの基本的条件となっているのでしょうか。宗教ではなく、色々な要素、歴史が組み合わされてその国々、その民族の一般的な常識のようになるのでしょう。

はるか離れた南の国の日本軍のトーチカ

私は、2009年にインドネシアのシムルー島と言う所で、仕事をいたしました。そこはインド洋に広く津波の被害が及んだ2004年12月26日のスマトラ島沖地震の震源地に一番近い島です。日本から首都のJakartaまで7時間かけて飛び、そこで乗り継いでスマトラ島(日本の面積に2倍くらいの大きな島)の州都Medanに約2時間掛けて飛び、そこからは12人乗りのセスナ機に乗り換えて1時間でやっとシムルー島に着きます。

そこは小さな島ですが、インドネシアで一番早く鉄道と飛行場が出来た島とされています。作ったのは、大東亜戦争当時の日本軍です。今のジェット機の時代でもこれだけかかる遠い島に、昔はどのくらい時間をかけて行ったのでしょうか。鉱山がありその鉱石積み出し用に山からSinabangと言う港まで鉄道が引かれていたそうです。勿論、飛行場は戦略的な意味があったのでしょう。
この島にもトーチカがあります。島の南西海岸に3か所ありました。多分、当時はもっと多かったのでしょう。

シムルー島のトーチカ

全体は5角形に柄が付いているような形で左側の横長の間口が迎撃窓でしょう。

ここでどのような戦闘があったのかは知りませんが、故国から遠く離れた赤道直下で、トーチカの中で敵を迎え撃つ心境はどのようなものだったのでしょう。
鉄道、飛行場、トーチカなど多くの戦闘目的の施設が造られた際、現地の人たちも徴用され働いた事でしょう。
私はこの島に、合計で4カ月程滞在しましたが、日本人のお墓のようなものは見つかりませんでした。せめてこの島では戦闘などなく、死傷した日本兵がいない事を祈ります。遥か昔の日本軍の戦跡があるこの島の、地震被害の救済に日本から出向いていると言う事に何か因縁めいたものを感じます。

 

 

孤立感から生まれたトーチカと言う戦跡(アルバニア国)

「トーチカ」と言う言葉をご存知ですか?もともとは、「ロシア語точка トーチュカ」ですが、主に鉄筋コンクリート製の防御陣地の事です。飛行機からの爆撃や、野砲や戦車による砲弾攻撃にも耐えられるように、分厚いコンクリートで覆われ、歩兵や戦車による攻撃を撃退するため小さな窓があり、色々な兵器で反撃できるようになっています。

一般的な形は、攻撃の弾の力を分散しやすいように半円になっている物が多いのですが、時には一般の民家に似せて屋根をつけ、窓を描いて偽装する事もありました。

バルカン半島の突端のギリシャのすぐ北西にアルバニアという国があります。そこに医療施設の調査に行った時、峠を越えて視界が開け広い農地が見えた時、クラゲのような半円をした物が、畑の中に何列にもわたって見えました。それがトーチカでした。

すぐ向こうがイタリア半島の靴の踵と言うアドリア海の入口に面する風光明美な保養地サランダで快適な時を過ごした後に、この醜悪な人工物に出会った時は、いささかいやな気分になりました。

農地に何列にも連なるトーチカの列
(白い点々がトーチカ)

農地の中のトーチカ
ギリシャ国境から12km位の所

トーチカは、入り口が攻撃されにくい自軍方向についており、敵が攻めてくる方向に攻撃用の窓が付いています。平原に無数に散らばっているこれらのトーチカの防御方向はギリシャ方向でした。

1976年6月の或る朝突然、アルバニア国民に総動員令が発令されました、その頃、まだ女子高校生だった私の仕事相手も、それから何カ月も学校で学ぶ事もなく毎日、トーチカ造りをしたそうです。当時、60万個のトーチカが作られたと言われています。その当時、アルバニアは社会主義をとり、隣国のユーゴスラビアのチトー大統領、ソ連、近隣諸国とも対立し鎖国状態でした。

これらのトーチカは、実際には使われる事はありませんでしたが、世界的な孤立状態から生まれた、脅迫観念に追い立てられて作られた膨大な数の戦跡です。

 

近代戦争・憎しみ・報道・生存

ボスニア・ヘルツェゴビナ国で、通算1年ほど設計と監理の仕事をした事があります。ボスニア・ヘルツェゴビナ国は、昔のユーゴ連邦国の構成国で、チトー大統領が執っていた民族融和政策でムスリム、セルビア人、クロアチア人の異なった3民族、イスラム教、ローマ・カソリック教会及び東方正教会と言う異なった宗教の人たちが、纏まって近隣として生活していました。しかし、彼の死後、3つの宗教、3つの民族が入り乱れ内戦(1992年3月~95年11月)が起きました。

内戦の発端は、首都サラエボでの民族衝突だと言われますが、実際はそれから始まったそれぞれの立場からの宣伝報道が原因と言われています。報道から憎しみが生まれ増幅しある日、隣家からの銃弾で父親が撃たれ、返す弾で隣家の息子が傷つく、そんな隣人同士の争いが大きな内戦に発展しました。私が滞在していた時は、戦後8年も経っていましたが、自分の家が在るにも拘らずまだ、帰る事が出来ない人々が沢山いました。隣人が信用できない為、帰れないのです。

この戦争は、色々な近代兵器が使われましたが、内戦ですから大きな兵力がぶつかり合うと言う事ではなく結局は村、町の取り合い、人と人との殺し合いです。サラエボの日曜日の朝、夫婦で食事をしている時、夫の額に狙撃手の照準の赤い点が付いた途端に夫の頭が吹き飛んだ。北のクロアチア国境近くのブルチコと言う町では、町の中心部で何処からか弾が飛んできて沢山の人が犠牲になりました。最後に給水塔の上にいた狙撃兵が殺され、犠牲者は出なくなりましたが、その狙撃兵はオリンピックで活躍した女性の射撃選手だったそうです。彼女は幾らかの食料と弾で、生還する事のない一人の戦いをしていたのです。

現代の戦争では戦う双方は、それぞれ色々な国際機関を味方につけようと宣伝活動をします。最初から劣勢だったモスレム側は、国連に働きかけました。その際、自分たちの置かれている状況を説明するキャッチフレーズを考えました。最初、考えられたのが南アフリカの白人と非白人の分離を意味する人種隔離政策を意味する「アパルトヘイト(Apartheid)」です。しかし、これでは意味が弱いという事で考えられたのが「民族浄化(Ethnic cleansing)」です。この言葉は国際社会に大きな衝撃を与え、国連が動きました。

事実、それぞれの側がそれに近い事をしました。女学校を占領し、乱暴をするという事も起きました。この戦争以降、ハーグの国際法廷で戦争の際のレイプは戦争犯罪だと規定されました。戦後8年も経っていましたが、多くの男性が内戦で亡くなった為、どの会社に行っても働く主力は女性でした。ボスニア・ヘルツェゴビナ国では生まれる子供の男女の比率で、極端に女の子が多く、ある村では1:8だと報道されていました。戦争で男性が多く亡くなり、生まれる子供を守ろうとする母親の意思がそうするのかもしれません。

戦後8年経っても放置された建物のムクロ1

戦後8年経っても放置された 建物のムクロ2

写真名は両方の写真とも「戦後8年経っても放置された建物のムクロ」です。大きなビルの写真は、炎上している時の映像が世界に配信されました。このビルは現時点では既に新たに外装され使われ始めています。ただ、この短い文章で戦争の悲惨さ、報道と言うものの強さ、怖さを語っておくべきかと考え投稿しました。

 

宗教施設の方向

古代では農作物や狩りの収穫は、今以上に季節や天候に左右されその為、古代の宗教者は今の「お天気お姉さん」のような役割も担っていました。古代の建造物で、春分や秋分の日の出に光が建物の一点に射すようになっているものや、明日の天気を見る物見台を備え、一種の天文台になっている施設はインカやエジプトを含め世界に広く見られます。この流れから今でも多くの宗教施設は、その軸方向が決まっています。

東方教会(Orthodox Church、キリスト教の分派、ロシア正教会、アルメニア正教会、シリア正教会、コプト教会など)は、祈りの方向が東である為、建物軸は東西になっています。所が以前、ボスニア・ヘルツェゴビナ国で仕事をした際、奇妙な東方教会を見ました。敷地に新旧の二つの教会が建っており、古い教会の軸は正確に東西をむいていますが、新築の教会の軸が10度以上ずれているのです。(写真1の左後ろの白い建物が古い教会で建物の軸線は正確に東西だが、手前の教会の軸線はずれて反時計回りに回転している。)

東方教会

早速、司祭に訊ねてみると、「教会の軸線がずれても問題ない。敷地の前を通るMotor-way(高速道路)に軸線を合わせた。」との事。怒り心頭に達し「宗教施設をなんと考える!神様は車で出勤するのか!」と思いましたが、ふと南極や北極に立った東方教徒はどの方向に祈るのかと言う自問に答える確たる知識もなく、全ての融和を考える仏教徒として素直に引き下がってきました。

イスラム教では、祈る方向は厳密にメッカの方向ですので、この南極、北極と言う問題もなく、教会の建物(モスク)としての軸線もそれほど厳密ではありません。キリスト教の教会を、イスラム教会として使っている建物では、建物軸線と内部で行われる礼拝儀式の方向が異なっていました。

イスラム教のプリミティブな祈りの場

この写真は、非常にプリミティブな旅人用のモスクで、イスラム諸国ではよく見られるものです。祈りの前に手足を洗い、口をゆすぐために川の傍にあり、目印の大きな樹が立ち、数人が祈りをあげられるようにモルタル仕上げの床があります。

つい先頃、Pakistanで130床の病院建築を監理した際の事ですが竣工2か月前、隣接したモスクの僧侶が現場の視察後、トイレの便器方向を変えろ、もし、変えないなら我々がぶっ壊すと強硬な指示。便器の方向がメッカの方向に向いているとの理由ですが、建物の軸線も便器も正確にはメッカ方向ではないのですが、大体その方角に向いているという事だけでこの指示。色々なイスラム諸国で仕事をしましたが、これは初めての経験でしたが、スタッフの話ではパキスタンではあり得るとの事。近くを流れるインダス河の川向うまで厳格な原理主義のタリバーンの勢力が迫っている中で、議論の余地はなく即、変更しましたが、なかなか理解に苦しむ状況でした。プリミティブな祈りから始まった宗教の発展(?)と、プリミティブな人間の生活との結びつきを、どのように解釈すればいいのでしょうか。

 

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