阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 文化

日本の血についての考え方の変化

この稿は、前稿「日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方」の続きとして書きました。

さて、日本でも古くは生贄の儀式があり、今に残る巨石の中には生贄の血を流したという説がある溝が残るものもあります。『日本書紀』には、642年に牛馬を生贄にしたと言う記録があり、実際に生贄の牛の頭骨が出土しています。又、日本神話では、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄として女神である奇稲田姫(クシナダヒメ)が奉げられようとした時、素戔男尊(スサノオノミコト)がオロチを退治し、奇稲田姫と結ばれると言う話がありますが、これは生贄の行事を廃止させたことを神話化したとも言われています。

生贄の儀式に使われたという説もある石

『古事記』の中で宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚した日本武尊(ヤマトタケル)が、宴席でミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついてるのに気づいて、「襲(おすひ)に裾に 月立ちにけり」と月経を新月になぞらえた歌をよみ、それに対してミヤズヒメは「あなたを待ちくたびれて月も上ってしまった」といった意味の歌をさらりとよみ返しています。さらにこのあと二人は褥を共にもしています。(襲(おすひ)は、頭から被って衣類の上を覆うもの。)

おすひを着た巫女の埴輪

日本の古い時代では、「血」その物が不浄と言う考えはありませんでした。民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、一時的な穢れに過ぎず、その時々にお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできました。しかし、女性を不浄のものと見なす考え方を仏教が持ち込み、その経典では「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(『仏本行集経』「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(『相応部経典』)など、血と母性を穢れとし、仏教は女性の本性を救済しがたい不浄、穢れと見る存在に変質させてしまいました。

死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々はヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入しました。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がって行きました。

この様に日本では、仏教伝来により「血」に対する考え方は変化して行きましたが、世界の国々でも、その国の神話や宗教などによりそれぞれ違った考え方をしており、他の国を理解しようとする際には、一つの基準では計れない多様性に対する理解が必要だと感じています。

日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方

タブー(Taboo)と言う言葉があります。「社会生活の中で何をしてはならない」と言う行動を規制する規範を表しますが、元々はポリネシア語のTabuが語源で、ジェームス・クックが、その旅行記でポリネシアの風習を紹介する際に使い広まった言葉で、日本では「禁忌(きんき)」と訳されています。

この禁忌の中に「血」と言う物もあげられます。しかし、この「血」は時には死との繋がりから「穢れ(けがれ)」として忌避され、時には「血の繋がり」や「子孫繁栄・生命力」など生命を象徴し、日本語としても単に「禁忌」の意味だけではなく反対の「好ましい物・清浄」と言う意味も持ち両義性があります。世界の国々でも「血」についての考え方は様々です。

最後の晩餐

キリスト教では、イエスの最後の晩餐での「パンとワイン」を「肉と血」になぞらえていて、我々日本人とは違った思いを「血」について持っています。

パンとワイン・肉と血

今から20年以上前、私がエジプトに住んでいた際、借りていたアパートの部屋の模様替えの為に大きな本棚を動かした時、丁度本棚のうしろの壁に茶色の手の痕が無数についていました。会社のスタッフに聞くと、オーナーがその部屋が災難にも会わず使い続けられるようにと、生贄の血を壁につけたものとの事。「生贄の血と言うのは何なんだ?」と聞くと、通常は羊か牛との事でしたが、何か気味が悪く、模様替えは中止。

いすゞ自動車とGMとのエジプト合弁会社の工場が完成し、1号車がラインから出てきた際に、その車体全体も真っ赤な手形で覆われていました。これも生贄の牛の血でした。

エジプトの首都カイロは、エジプト4000年の歴史を展示するカイロ博物館でも有名ですが、スエズ運河の開通を祝って1869年にカイロ・オペラハウスが作られた事でも有名です。それ以来、カイロは中近東、アフリカでの音楽文化の中心となりましたが、残念ながら1971年に焼失してしまいました。1988年に日本から開発援助の一環として新しいオペラハウスが贈られました。当時、ヨーロッパ諸国では開発援助でオペラハウスを贈ったと言う事で日本の文化度を高く評価していました。

さて、この日本の文化度の高さを示すオペラハウスの地鎮祭での出来事です。建設事務所の脇の空き地に1頭の大きな牛が連れてこられ、イスラム教の導師がコーランを牛の前で唱え、すぐさま牛の頸動脈が切られると、牛は徐々に前足を折り、跪いて横倒しに成って行きました。廻りは血だらけで、私が見たのはそこまでで、事務所に入ってしまいました。暫くして、秘書の女性が一緒に写真を撮ろうと呼びに来て外に出てみると、事務所の女性達が、血が滴る牛の首の角をむんずと掴み、私と一緒に写真を撮ろうと並んでいました。

日本的な感覚では、見るもおぞましいと言う所ですが、この頃のエジプトでは動物の屠殺を見ると言うのはそれほど稀な事ではありませんでした。ラマダン明けの休暇の前には、家の前の道路で羊を殺して、皮をはぐと言う血だらけの作業が当たり前のように見られました。さすがに今ではあまりにも残酷と言う批判の為か、公衆が見る事が出来る道路では禁止に成りましたが、エジプトの人々にとっては動物の血を見たり、触ったりと言う事は、日本的な穢れ(けがれ)と言う事とは結びつきません。動物を殺し、その捧げられた尊い命の血によって災いから守られると言う感覚です。

エジプトと同じ様に国民の大部分がイスラム教徒であるインドネシアでは、この「血」に対する感覚が全く違います。プロジェクトの開始、完成の時に、牛、鶏、羊などを殺してその成功を祈願したり、祝ったりすることはエジプトと同じですが、その血に触ることは「穢れ」となっており、牛や羊などを殺した際には、その首は土に埋めています。

このように、同じ宗教の国であっても禁忌というものに対する考え方は、全く正反対です。何が禁忌というものの基本的条件となっているのでしょうか。宗教ではなく、色々な要素、歴史が組み合わされてその国々、その民族の一般的な常識のようになるのでしょう。

阿寒平太の覗き見散歩・江戸、明治をめぐる文学と芸能の散歩

今回の「阿寒平太の覗き見散歩」は、色々な睦びを訪ねる散歩です。江戸時代からの芸能「落語」を覗き、明治時代からの牛鍋に舌鼓を打ち、1月25日に行われる湯島天神の「鷽替神事」を訪ねた後、その名前も散歩を締めくくるにふさわしい大人のバーOnce upon a time(ワンスアポン・ア・タイム=昔々)で酒を楽しむと言うものです。

今回の散歩は上野の「鈴本演芸場」が出発点です。鈴本演芸場(開業1857年)は、江戸時代から大衆芸能、特に落語の殿堂でした。江戸時代では落語の他に浄瑠璃・軍事読み(講談)・手妻(奇術)・八人芸(一人で八人分の楽器の鳴り物や声色などを聞かせる芸で腹話術の原型)・説教・祭文・物真似などが上演され、安政年間(1854-1860)江戸には落語・講談の寄席が合計して約四百軒もあり、江戸時代に如何に素晴らしい大衆文化が花咲いたかわかります。 落語の歴史は何時からと言うのは難しく、『徒然草』(1330年)の兼好法師が『落語系図』に名をつらねて、落語の歴史の上に噺家として登場していることからも古い歴史がわかります。

落語には「落ち(サゲ)」、語り口(弁舌)の上手さ、仕型(仕形・仕方=身振り手振り、表情)の3つが大切です。落語は、しゃべるだけでなく、高座に正座して上半身の洗練された身振り手振りや表情によって、用いる道具も普通は扇子と手拭いだけで、一人で大勢の登場人物や情景を描写しわけなければなりません。それを見るのが寄席の楽しさです。

初天神の落語と言えば、落語「初天神」があります。『何時も物を買ってくれとねだる息子をしぶしぶと初天神につれてきた男。何やかやとねだる息子の作戦に負け、ついに大きな凧を買うはめに。子供時代腕に覚えがある男は、子供を差し置き、凧上げに夢中になり、子供は「こんな事なら親父なんか連れてくるんではなかった。」とぼやく。』 当日、この落語がうまい具合に聴けるかどうかは「鈴本演芸場」のHP(http://www.rakugo.or.jp/)をご覧ください。

さて鈴本演芸場には昼の部中入り(午後3時位)に入ります。勿論、座る前に売店でビール或いはコップ酒とつまみを買って落語を見ながら、ごくごく、ちびちび、飲みながら、つまみながら。これが又、寄席の楽しさです。二時間ほど楽しんで出ます。

鈴本演芸場の前の広い道路は、江戸幕府が火災発生の際に類焼を防ぐ為道幅を拡げた所で、今の道路幅はそのままです。この辺りは江戸時代に幕府の茶礼.茶器をつかさどり、殿中に於いて茶を供する数寄屋坊主が拝領した拝領町屋で、下谷御数奇屋町と言いました。さてこの上野広小路から春日通りに入り、湯島天神下までは江戸時代には無かった道ですが、湯島切通し坂は江戸時代のままです。

湯島天神の下を通り、少し切通し坂を上ると左側に江知勝(文京区湯島2-31-23、電話 03-3811-5293営業時間17:00~21:30)があります。ここは、創業明治4年ごろと伝えられている牛鍋屋です。明治8年の毎日新聞には、鍋料理の番付表で前頭にランクインしている老舗中の老舗です。味付けに使う割り下は、伝統的な関東風でちょっぴり辛口。しょうゆと砂糖、みりんといたってシンプルですが、何と開店当初から130年間使い続けているものだそうです。東京帝国大学のすぐ裏と言う場所柄、文人、教授などの溜まり場だったとの事。

ここで明治の味を楽しみ、お腹一杯になった所で食後の散歩に湯島天神まで。ここで木彫りの「鷽」を授与してもらいます。ここは江戸時代から梅の名所として庶民に親しまれて、園内には約300本の梅がありますが、ここの梅祭りは2月8日~3月8日の1ヶ月間ですが、早いものはこの「初天神」には咲いています。

鶯の授与

この神社は明治の文豪・泉 鏡花の小説『婦系図(おんなけいず)』の結ばれぬ「お蔦、主税」の悲恋の舞台としても有名で、境内には鏡花の「筆塚」もあります。この境内の開門時間は午後8時迄ですのでご注意ください。

現在の本殿は平成7年12月に、総桧木造りで建て直されましたがその際、日本初の建設大臣認定第一号として木造建築が許可されました。建築に携わる人には一見の価値ありです。

湯島切通し坂を天神下の信号まで下りて、そこを右折し神田方向に約300m歩き左折して二つ目のブロックにOnce Upon a Time(=昔々 住所:台東区上野1-3-3 電話:03-3836-3799)と言うバーがあります。江戸、明治時代と巡って来た散歩を締めくくる所がこのバーです。古い倉庫を思わせる明治初期のレンガの外壁にOnce Upon a Timeと言う赤いネオンが点き、入ると古い木材を使った内装。酒だけを飲ませると言う雰囲気の大人のバー。そんなバーの片隅に座り「お蔦」と言う昔の女に思いを馳せながら、今日の散歩を終わりにしましょう。ここは営団地下鉄千代田線「湯島駅」迄歩いて3分の位置です。

 

阿寒平太の覗き見散歩・お酉さま(1)

今回の「阿寒平太の覗き見散歩」は、お酉さまをハイライトにして、根岸(前に季語を付けるとすぐに俳句になると言う『根岸の里の侘び住まい』)を覗きながらの樋口一葉の足跡を訪ね、医食同源の精進料理、普茶(ふちゃ)料理を楽しみ、お酉さまの後は、大人の雰囲気のバーで酒を楽しむと言う散歩にご案内します。

散歩の出発点は三ノ輪です。三ノ輪には東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅と都電三ノ輪橋駅がありますが、お勧めは三ノ輪橋駅です。大塚駅前からこの都電に乗って三ノ輪橋までの風景は、他の車窓からの風景とはまるで違います。電車に触れんばかりに目の前を通り過ぎる生活風景は実に新鮮です。

都電三ノ輪橋駅から昭和通りに出て右折し、明治通りの交差点、信号・大関横町を過ぎて直進すると、信号・三ノ輪に出ます。(此処までは5分程度です。) ここの下が東京メトロ・三ノ輪駅で、ここからが今回の散歩の主題が点在する「国際通り」の起点です。

「国際通り」は、松竹の国際劇場(ああ、SKDレビュー!なんと陽気で、華やかで、素晴らしい世界だった事か!) があったことから付いた道路名です。今では、それも浅草ビューホテルになり、名前の根拠をなくし、周辺の商店街は「ビートストリート」と愛称をつけて町おこしの活動をしています。(2005年から浅草ではビート・フェスティバル開催。西の京都にも園部ビートフェスティバルと言う祭りがあります。)
さて、この国際通りの信号・三ノ輪から250m程の所に、信号・竜泉2丁目があり、そこを右折するとすぐに「千束稲荷神社」があります。ここは樋口一葉の「たけくらべ」の中で舞台となった所で、本殿に向かって左側に一葉の胸像があります。「たけくらべ」の中の少年少女たちは、何と生き生きと遊びまわり又、冷酷でありながらやさしい時を過ごしているのだろうかと、思い出しました。

明治の美女、樋口一葉

此処から、再び「国際通り」に出て、それを横切り3つ目の角を右折し、150mほど行くと左手に一葉記念館(台東区竜泉3-18-4、入館料一般:300円、開館時間:9時~16時30分:休館日:月曜日、祝日と重なる場合は翌日)があります。酉の市が開催される24日は、勤労感謝の日の翌日で休館となりますので、此処をこの散歩に組み入れる場合は、休館日と重ならない「酉の市」にこの散歩をしてください。
樋口一葉は、貧しさの打開を目指し小説を書き始めますが、彼女の文学者としての人生は、明治27年12月「大つごもり」の発表から「たけくらべ」の連載が完結する明治29年1月までの、わずか14カ月でした。明治29年11月23日に結核で24歳8カ月の短い人生を閉じますが、翌年には『一葉全集』が刊行されるほど、評価の高い文学者です。この「一葉記念館」には「たけくらべ」の草稿が展示されており、苦労して推敲している状態が判ります。

 

お酉さま

季節毎の祭り、芸能、花、時には花より団子などを追いながら、ぶらりと気楽に散歩すると言う「阿寒平太の覗き見散歩」を次回の稿からからご紹介します。

次回の稿では、浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)で行われるお酉様(おとりさま)が主題ですので本稿ではお酉さまについて少しお話しします。

11月=霜月には「お酉様(おとりさま)」が2回或いは3回あります。その11月の酉(とり)の日に開かれるのが酉の市です。『もう、お酉さまか、すぐに師走だな。』と言う感覚を江戸時代の人は持っていました。2018年の酉の市は、3の酉まであり11月1,13,25日、は2019年11月8、20日です。

鷲宮(わしのみや)神社

酉の市は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際に戦勝祈願を、鷲宮神社(埼玉県久喜市)で行い、戦勝報告を11月の酉の日に足立区花畑にある大鷲神社(鷲大明神)で行ったことから、11月酉の日を鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として定着したといわれています。

このような寺社の年中行事が、神仏混淆の民衆の信仰に根ざした商売繁盛を願う「市」と結びつき関東一円に広まり、さらに寺でも神社でもご本尊の御開帳などの寺社行事と結びついて、民衆の間に強く根差していったのでしょう。

ちなみに酉の市で売られる熊手は、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをした際、社前の松に武具の熊手(戦場で敵を馬から引き落とし、盾や塀を引き倒し、高所に登る際に用いた。)を立て掛けたことから、熊手を縁起物とするとしたそうです。

武器として使われていた熊手

浅草の長国寺内の鷲(おおとり)大明神社は、江戸時代に妙見様と言われ、勝海舟やその他多くの人々の信仰を集めましたが、そのご本尊は鷲の背に乗った釈迦とされています。この鷲大明神社は、明治初年に出された神仏分離令で、長国寺から分離し鷲神社になりました。明治維新と言う大きな宗教革命により民衆の間に根付いた多くの祭りや信仰が消滅しましたが、その嵐に耐えて「酉の市」が残ってくれた事はうれしい事です。季節毎の祭り、芸能、花、時には花より団子などを追いながら、ぶらりと気楽に散歩すると言う「阿寒平太の覗き見散歩」を今回からご紹介します。

11月=霜月には「お酉様(おとりさま)」が2回或いは3回あります。その11月の酉(とり)の日に開かれるのが酉の市です。『もう、お酉さまか、すぐに師走だな。』と言う感覚を江戸時代の人は持っていました。お酉さまは霜月の酉の日に開催される関東の祭りで、もともとは神仏混淆の民衆の信仰に根ざした商売繁盛を願う「市」で、寺でも神社でもご本尊の御開帳や市が立ちます。

お酉様の賑わい

浅草の長国寺内の鷲(おおとり)大明神社は、江戸時代に妙見様と言われ、勝海舟やその他多くの人々の信仰を集めましたが、そのご本尊は鷲の背に乗った釈迦とされています。この鷲大明神社は、明治初年に出された神仏分離令で、長国寺から分離し鷲神社になりました。明治維新と言う大きな宗教革命により民衆の間に根付いた多くの祭りや信仰が消滅しましたが、その嵐に耐えて「酉の市」が残ってくれた事はうれしい事です。

宗教施設の方向

古代では農作物や狩りの収穫は、今以上に季節や天候に左右されその為、古代の宗教者は今の「お天気お姉さん」のような役割も担っていました。古代の建造物で、春分や秋分の日の出に光が建物の一点に射すようになっているものや、明日の天気を見る物見台を備え、一種の天文台になっている施設はインカやエジプトを含め世界に広く見られます。この流れから今でも多くの宗教施設は、その軸方向が決まっています。

東方教会(Orthodox Church、キリスト教の分派、ロシア正教会、アルメニア正教会、シリア正教会、コプト教会など)は、祈りの方向が東である為、建物軸は東西になっています。所が以前、ボスニア・ヘルツェゴビナ国で仕事をした際、奇妙な東方教会を見ました。敷地に新旧の二つの教会が建っており、古い教会の軸は正確に東西をむいていますが、新築の教会の軸が10度以上ずれているのです。(写真1の左後ろの白い建物が古い教会で建物の軸線は正確に東西だが、手前の教会の軸線はずれて反時計回りに回転している。)

東方教会

早速、司祭に訊ねてみると、「教会の軸線がずれても問題ない。敷地の前を通るMotor-way(高速道路)に軸線を合わせた。」との事。怒り心頭に達し「宗教施設をなんと考える!神様は車で出勤するのか!」と思いましたが、ふと南極や北極に立った東方教徒はどの方向に祈るのかと言う自問に答える確たる知識もなく、全ての融和を考える仏教徒として素直に引き下がってきました。

イスラム教では、祈る方向は厳密にメッカの方向ですので、この南極、北極と言う問題もなく、教会の建物(モスク)としての軸線もそれほど厳密ではありません。キリスト教の教会を、イスラム教会として使っている建物では、建物軸線と内部で行われる礼拝儀式の方向が異なっていました。

イスラム教のプリミティブな祈りの場

この写真は、非常にプリミティブな旅人用のモスクで、イスラム諸国ではよく見られるものです。祈りの前に手足を洗い、口をゆすぐために川の傍にあり、目印の大きな樹が立ち、数人が祈りをあげられるようにモルタル仕上げの床があります。

つい先頃、Pakistanで130床の病院建築を監理した際の事ですが竣工2か月前、隣接したモスクの僧侶が現場の視察後、トイレの便器方向を変えろ、もし、変えないなら我々がぶっ壊すと強硬な指示。便器の方向がメッカの方向に向いているとの理由ですが、建物の軸線も便器も正確にはメッカ方向ではないのですが、大体その方角に向いているという事だけでこの指示。色々なイスラム諸国で仕事をしましたが、これは初めての経験でしたが、スタッフの話ではパキスタンではあり得るとの事。近くを流れるインダス河の川向うまで厳格な原理主義のタリバーンの勢力が迫っている中で、議論の余地はなく即、変更しましたが、なかなか理解に苦しむ状況でした。プリミティブな祈りから始まった宗教の発展(?)と、プリミティブな人間の生活との結びつきを、どのように解釈すればいいのでしょうか。

 

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