阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 文化 Page 2 of 3

ネパールの結婚年齢

私がネパールでの活動期間中に借りていたアパートの台所の食卓の上に、小さな可愛い人形が置かれていました。多分、以前の住人が置いて行ったものなのでしょう。幼い花嫁姿の女の子とタキシードの裾を捲りあげて、腕まくりして女の子を守る様に傍に付き添っている幼い花婿の男の子。其の様子が微笑ましく机の上に飾っておりましたが、ある時から「可哀想になあー」と見るようになってしまいました。なぜか・・・?

食卓の上に会った可愛い陶器人形

ネパールでは、2011年6月に10年に一度の国勢調査が実施されました。JICAでは、この国勢調査の実施や分析の専門家を派遣して支援しました。私のアパートの下階に、私の先輩でJICAのシニア海外ボランティアとして統計局に派遣され、このシステム作りから分析作業を支援しているK氏が住んでおり、この国勢調査について色々と伺いました。(彼は、長野オリンピックの運営コンピューターシステムを作った方だそうですが、JICAというのはすごい人を見つけてくるものですね。)
国勢調査については、国連から調査項目の指針は出ているのですが、国によって其の調査内容もその数も違っています。日本は22項目、アメリカは10項目、イギリスは40項目、そしてこのネパールは、27項目。国によって調査項目の数は大きく異なっていますし、その調査内容も国によって大きく異なっています。

このネパールの国勢調査の中に、日本でそんな質問をしようものなら顰蹙(ひんしゅく)をかいそうな項目があります。ズバリ、最初に結婚した年齢を聞いています。婚活と言う言葉が出来、結婚年齢が上昇している日本では、なかなか聞けない質問の様な気がしますが、同時にその質問の集計結果が統計的にどんな意味を持つのだろうかと、考えてしまいます。(多分、人口の将来予測かな?そんな訳ないよなー。)

ネパールの国勢調査の初婚年齢調査結果表

さて、その結果ですが、10歳未満から5歳毎に分けられ50歳以上まで、男性、女性それぞれの初婚年齢ごとの人数が記載されています。なんと10歳未満で結婚した男子は22,865人、女子は115,150人。初婚年齢が10歳から14歳までの男女合計は138,015人、10歳以下を含めると、既婚者の11.3%の男女が14歳以下で結婚しているのです。それも圧倒的に都市部より田舎の方が多いのです。(ちなみに初婚年齢50歳以上の男子は、3,480人、女子は1,606人と記載されています。)

正にこの微笑ましかった人形が現実味を持ち「可哀想になー!」となった次第。そのような目でこの人形を見ると、子供たちの目が笑っていないし、如何にも『まーだ!疲れちゃったよー、もう遊びに行ってもいいでしょー。』と言っている様にも思えます。

其の他、未婚者人数、一回或いは複数回結婚しているそれぞれの人数、再婚者人数、男女寡(やもめ)人数、離婚者人数が記録されています。しかし、質問された方は『私の勝手でしょう!』と言いたくなるだろうなー。

 

道楽者の弁

毎月その発売日(毎月5日と20日)が待ち遠しい私の愛読書「ビック・コミック・オリジナル」(マンガ雑誌)に「どうらく息子」(尾瀬あきら作)と言うマンガが掲載されていました。幼稚園の保育士をしていた青年が、落語に目覚め、真打を目指し前座から二枚目にまで苦労して成長するさまが描かれています。落語家と落語噺の世界が克明に描かれ、実に面白いお薦めのマンガです。

しかし、なぜ苦労しながら落語家の真打を目指す青年が道楽息子なのでしょう。落語の噺の道楽息子は、大店の跡取りが吉原の花魁にいれあげて勘当になるという筋でも描かれるように、余り良い意味合いでは使われていません。所謂、放蕩者です。放蕩とは、「酒色にふけって品行がおさまらないこと」です。

広辞苑では「道楽」の項に「道を解して自ら楽しむ意から」とあり、それほど悪い意味の言葉ではなさそうな表現から始まって、次に「本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。」と解釈が出て、その次に「放蕩者のすること」と書いてあります。 この「道を解して自ら楽しむ」、言い換えると「その道の真の楽しさにのめり込む」と言う意味で、この「どうらく息子」と言うマンガが描かれていると、私は解釈しています。

さて、この稿の「道楽」は、楽しさ一杯の「放蕩者のすること」と言う意味で書いております。昔、道楽者の行状は「呑む・打つ・買う」と言う事に決まっておりました。いわゆる酒色と博打です。この三つが、人に快楽や刺激を与える最たるものだからでしょう。一つではなく複数の楽しさと言う事も快楽や刺激を何倍にもする重要な要素です。

昔、ラスベガスのホテル・フラミンゴやスターダスト等の賭博場で遊んだ事があります。食事をしながら煌びやかなショーを見て、その後で賭博場に入ると、広大と言う表現が適切な煙草で煙っているフロアーにカードの台が無数にあり、バニー・ガールが飲み物を配っています。壁側にはガラス張りのバカラのゲーム室があり、上品な人種が高額なゲームを楽しんでいました。男性トイレに行くルートの空間には、映画女優なのではと見紛う程の美女たちがたむろし、声をかけてきます。まさに「呑む、打つ、買う」と言う放蕩道楽の極致という世界でした。

(最近、様々な反対意見がありながら成立した「カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法(カジノ法)」というので出来上がる賭博場は、どんなもんなんでしょうね??最終的にはラスベガス??)

今では重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産と言う何か高級な趣味の様になってしまいましたが、「お能」も「歌舞伎」も含めて大衆演芸、芸能は全て酒を飲みながら、食べながら、おしゃべりをしながら、そして権力者は美女を傍に侍らせ、芝居茶屋で役者と時を過ごすという幾つもの刺激を含んだ道楽でした。

四国 金毘羅さん金丸座

江戸城大奥の御年寄・絵島は先の将軍の墓参りの後、役者・生島新五郎と芝居茶屋で宴会(密会?)し、江戸城への帰参門限に遅れた事で起きる「絵島生島事件(1714年)」。歌舞伎や小説、映画の世界でも有名ですが、この事件のおかげで、1500人余の人々が、遠島、斬首ほかで罰せられ、江戸4座の芝居小屋の一つの山村座は廃座、芝居小屋は簡素な造りに改築させられ、そして夕方の公演は廃止になったそうです。この事件と比べると、どこかの国の大統領や首相や国会議員の艶話など些細な事と思うほどです。

さて、煙草好きにはパッケージに「健康に影響あり」と書かれようが、命に代えてもと言うくらいに煙草は大切な道楽です。しかし、今では禁煙の波に押されて肩身が狭くなりましたが、東日本大震災、国債の格下げと言う国難山積みのこのご時世に1本吸うごとに13円のたばこ税(マイルドセブンの場合)を納めて頂いている事を考えると、吸わない私は有難いと思ってしまいます。

エジプト・カイロの喫茶店で水煙草を楽しんでいる男

大相撲でも2005年初場所から全面禁煙になりましたが、それまでは相撲と煙草は切っても切れない仲と言うほど密接な関係でした。現在の国技館(1984竣工)を造るとき、「沢山の人が集まる室内では禁煙」(1962年施行の火災予防条例)と言う法律に対して、相撲協会は頑強に抵抗し国会議員まで動かし、人の楽しみとは何かと言う事を追求した結果が喫煙できる国技館でした。 相撲を見ながら酒を飲み、食事をし、タバコを飲み、時には相撲茶屋に行って遊ぶ、これが相撲という神事を民衆の側から見た演芸の世界でした。

なぜ、タバコの喫煙が相撲という楽しみとそれほど強く結び付いていたかと言いますと、相撲が始まり、そして盛んになった江戸時代は、喫煙率が非常に高かったからです。文政3年(1820年)に江戸の煙草屋三河屋弥平次が記した「狂歌煙草百首」には、喫煙率は97%以上と記載されているそうです。 極端な言い方をしますと老若男女、全て吸っていた。客が家に来た時、お茶を出す前にまずタバコ盆を客の前に出すのがあたりまえでした。ですから相撲と言う楽しみと喫煙と言う楽しみは切れなかった。(しかし、当時はキセルで現在のような両切りではありませんし、火の始末に非常に厳しかったので咥えタバコはなく、常にタバコ盆を傍において喫煙しました。)

お茶も道楽の一つですが、煙草と言う道楽とも結びついていました。裏千家も含めて各お茶の流派には、それぞれ煙草盆の火入れ(煙管に火をつける炭入れ)の炭のいけ方、灰のならし方が作法としてあり、待合や腰掛には煙草盆が必ずおかれていたそうです。亭主は小間の薄茶席、広間での席でも、煙草盆の配慮が必要と書かれています。

現在、「落語」の演芸場ではタバコは吸えませんが、座席の前に小さなテーブルが出せるようになっており、其処にビールと弁当を置いてのんびり見るのが落語の楽しみでしょうか。

日本だけでなく海外の演芸、芸能も同じように「呑む・打つ・買う」という事に強く結びついていました。オペラ鑑賞と言う道楽でも、まさにこの「呑む・打つ・買う」という事に強く配慮して客席が設計されていました。パリのガルニエのオペラハウスも、ミラノのスカラ座も、バルコニー席では食事もできましたし、退屈すればバルコニー席の後ろに長椅子を置いた小部屋もありました。

昔から「人の楽しみ・娯楽」と言うことは何かを我慢しながら何かを楽しむと言う事ではなかったのです。(勿論、それなりのスマートなルールはありましたが。)
私は演芸が芸術という範疇で語られようと、「人の楽しみ・娯楽」を与えるという意味から考えて、道楽者の三つの放蕩のうち、せめて「呑む(食う)」という事と共に演芸、芸能を楽しみたいと考えています。

 

様々な弔い(とむらい)の方法と各国のお墓

最近、弔うと言う事に対しても時代の流れで、火葬で消費される多量のエネルギーや排出される二酸化炭素、或いは土葬の為の土地の不足が問題になり、全く新しい弔いの方法が報じられ、すでに幾つかの国では承認されているそうです。

一つは「フリーズドライ方法」です。遺体を液体窒素で-196℃まで冷やしその後、粉々に粉砕すると言う方法で、既に英国やスエーデン、韓国、米国の一部の州で承認されているとの事。次の方法は遺体を絹布で包み、160℃に熱したアルカリ性溶液の中に沈め全て溶かしてしまうと言う方法です。何か異次元の話のようで、そこまでやるのかと言う言葉が出てきますが、土葬から火葬へと弔いの方法が変化した時、遺体を燃やすと言う事に対して同じような感覚を我々の先祖は持ったのかもしれません。

東北地方の葬列のシーンが映画「おくりびと」の中で出てきますが、色とりどりの細長い布の旗指物が行列を彩っていました。この色とりどりの布は、エジプト、ネパール、パキスタンでも見られます。この布は、日本では見られなくなりましたが、色々な国では魔除けとしてお墓の廻りの木に、布が朽ちるまで下がっています。只、日本のお寺が何か行事をするときに、軒下に飾る布の様々な配色はこれとそっくりです。

インドネシアの葬列では、同伴するのは男性だけで、女性は娘のみが許され、なぜか妻は許されません。同じイスラム教の国であってもエジプトでは遺体に多くの女性が、時には泣き女が雇われ、泣き叫びながら行列に墓地(エジプトでは土葬) まで同伴します。イスラム教の場合、通常、女性は、亡くなった方が彼女の夫であっても遺体に面会することはできないとされていますがしかし、最近、時にはこのルールは無視されるように成っています。

お墓も設ける国と無い国があります。インド、インドネシアやヒンドゥー教では火葬した後、遺灰や遺骨を川や海に流し、或いは遺体をガンジス川に流し墓を設けません。かってキリスト教でも遺体を教会の内部に収め、最後の審判の後に復活する時を待ち、墓は設けませんでした。

昔、日本では両墓制をとっている地方がありました。人里から離れた所に遺体を埋める「埋め墓(葬地)」と、人の住む所から近い所に「参り墓」を建て、お参り、祭祀はそこですると言う方式です。只、江戸時代辺りまでは土葬、火葬に限らず墓石、石塔は建立されなかったと言われています。

お墓の形や墓標も国によって様々な形があります。あまり石を加工していない素朴な墓から高度な加工技術を駆使した墓まで様々です。下の写真はボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓ですが、これは北欧で活躍していたバイキングの墓の形だそうです。インドネシア民族と同様に海洋民族のお墓の形は、広く世界に広がっています。オランダも古くはインドネシアにコロニーを造り、今でもその足跡をお墓の形に見る事が出来ます。

ボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓

 

インドネシアのスマトラ島の近くのシムルー島の古い墓

1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、多くの人が亡くなりお墓の面積が3倍に成ったと言われていますが、その墓地の中を歩くと全く暗さを感じません。様々な墓標には、亡くなった方の写真が墓標に刻まれていますから、どんな人が埋葬されているのかは一目瞭然です。しかし、人間死しても見栄があるのか、墓標の写真と死亡した人の年齢が異なり、男女含めて若い素敵な写真が多いようです。

写真入り墓碑が並ぶボスニアの墓地

 

ボスニアの写真入り墓碑。享年57歳のお墓には思えません

お墓に様々な花を供えると言うのは、日本も他の国も同じです。日本の花の生産の7割が菊と言われていますが、その需要を支えるのが葬式や仏壇に供える花です。墓参りでも今では洋花が広く使われますが、昔はその季節の花が添えられました。日本のお墓では、花立やお線香立てなどお墓参りに配慮した設計に成っていますが、海外の場合、花立があるお墓はそれほど多くありません。

ボスニア・ヘルツェゴビナでの墓地の前には花屋が必ずあって、華やかな色とりどりの花が店先を鮮やかに彩っています。しかし、これが全て造花。生花は全く置いていません。

ボスニア・ヘルツェゴビナの墓地の前のお花屋さん

土葬の場合は、個々人のお墓で謂わば個室ですが、日本のお墓は大部分がその家のお墓で、共同住宅の様な意味を持っています。その為、土葬の場合のお墓参りは個人の命日や、誕生日などの特定の日にお墓参りをする事に成ります。それに対して日本のお墓のようにそれぞれの家、家系と結びついているとお墓参りをお盆やお彼岸などの決まった時にするようになります。
沖縄では毎年4月にシーミー(清明祭)と言う墓参りの行事があり、家族、親戚が料理、お酒を持ち墓参りをします。この行事は、昔の洗骨の儀式の名残だと言われています。 海外の人に聞いてみると、イスラム教の場合、家族でも個人でもお墓参りに行くという習慣は無いそうです。インドネシアのクリスチャンの場合は、死後3日目、7日目、40日目とクリスマスとイースターにお墓参りをするそうです。

 

色々なお葬式の風習

東日本大震災で亡くなられた方の土葬が新聞で報じられ又、最近、「直葬(ちょくそう)」(臨終後、通夜や葬儀をせずに火葬場で見送る形式の葬儀)や千の風にのって「散骨」する等、新しい弔いの形が話題に成っています。また、国際テロ組織指導者のオサマ・ビンラディン容疑者の遺体が水葬され、イスラム教の弔い儀式と違うと言う事も話題に成りました。この稿では、人を弔う形や意味についてお話ししたいと思います。

尚、この稿では、弔いに関連する様々な事を浅薄な知識で書いておりますが、これは私が海外の様々な国を廻った時に見聞きした物を纏めたもので学術的に調べた物ではありませんのでその点をお断りしておきます。

お葬式の方法は、その国の風土や昔からのしきたり、宗教などを反映して様々です。 日本では亡くなったその夜に「通夜」を行います。この「通夜」と言うのは、殯(もがり)の風習の残りと言われています。殯は古代に行われていた貴人を本葬前に仮に祀る葬式儀礼で長い間、仮安置する事で遺体の腐敗、白骨化の変化から死を確認すると言う意味がありました。古代の日本や韓国では1年、時には3年以上も殯の儀礼が続いた事があったそうです。 殯や通夜と言う風習は、仏教だけではなく、神道やキリスト教でも似たような儀式があり、亡くなった人との別れの時を大切に思う人の気持ちから自然に生まれたのでしょう。

昔、インドネシアのジャワ島などでは石を井桁に積んだ石室に遺体を安置し、鳥や昆虫、腐敗菌などにより白骨化させ、1年後に親戚一同が集まり、残った骨を川で洗い清め、壺に入れて石室の下にある墓に納めると言う「洗骨」の風習がありました。この風習は、海洋民族であるインドネシア人の広範囲な移動に伴いマダガスカル島や沖縄まで広がっていました。沖縄の古いお墓は、納骨をする部屋の前に広い場所があり、古くはここに遺体を安置し、殯から洗骨までの儀式を行っていたそうです。

インドネシアの王の墓、塔の間の風がふき抜ける所で殯の儀式が行われた。

「火葬」と言う新しい弔いの形が出来て、殯や洗骨と言う風習も無くなっています。現在、インドネシアでも火葬が一般的になり、高温多湿の気候の中で腐敗を防ぎ衛生面に配慮し『人が死去するとその日の太陽が沈む前に火葬する』と言うように風習が変化してきています。火葬は沢山の薪や燃えにくい遺体を燃やすと言う技術が必要で、日本ではこの風習は、近代まで一般的ではありませんでした。しかし、仏教の経典の中に『喜見菩薩は、法華経と如来を供養するためにご自身の身を捧げようと決意し、体に火をつけて1200年燃えつづけた。』との記述があり仏教徒の間では火葬の風習は根付きました。

明治政府は明治6年(1873年)に神仏分離令に関連して火葬禁止令を布告しましたが、仏教徒からの反発と衛生面の問題から2年後の明治8年にこの火葬禁止令を廃止しています。

 

ラマダンの時の神への帰依と食事

兎に角、Ramadanはアラーに対してそれぞれの信仰の念を伝える期間ですから、昼間の水や食べ物から、夜の欲望まで全て控えて、その信仰の念をアラーに伝えます。エジプトの女性達は概してクレオパトラ並に化粧は非常に濃いのが普通です。(実際にクレオパトラを見たわけではなく、エリザベステーラーのクレオパトラからの印象です。)

私の事務所の女性達も飾ると言う欲望を抑えてRamadanのときは全くのすっぴん。朝、会った時は一瞬別人かと思い、それから病気なのと聞いたほどにその変化は劇的でした。

エジプトのラマダンの時でない女性

私がPakistanで仕事をしていた所は、バルチスタン州(以前は北西辺境州と言いました。)のBattagramと言う片田舎の町ですが、通常と違い八百屋やお菓子屋の前にはデーツ(ナツメヤシの実でラマダンの時に必ず食べる物)が山のように盛り上げて売っており、食べ物屋と言う食べ物屋には溢れるほど食料品が山積みになっています。ラマダンのときに人口が飛躍的に増加するわけでもなく、一人当たりの食物摂取量が何倍にもなるわけではありませんので、山のように盛り上げた食料品は最終的には生ごみとなって廃棄されます。

私がエジプトで生活していた時、ザバリンというごみ収集の人たちの村の再開発を手伝ったことが有りました。その時、ラマダンの時は、豚のえさとしては処理しきれないくらいの生ごみが出ると言っておりました。

信仰と言うのは常にある面での何かの犠牲或いは無駄と言うものを要求しますが、ラマダンが始まると色々と地球と言う単位でも考えさせられます。

ラマダン明けの日の街中の喧騒

ラマダンはイスラム暦の9月を指しますが、イスラム暦は、明治時代以前の日本と同じ陰暦で、1年が354日間で太陽暦の365日より11日短い暦です。その為、毎年11日ずつ始まりが早くなります。冬至に近い季節のラマダンは日の出から日没までは短いので、この季節のラマダンは楽です。しかし、今年のように夏至に近い時期のラマダンは断食時間が長く大変です。私もエジプトに住んでいた時、イスラム教徒ではありませんが断食をした事がありました。水を飲まない為、慣れる迄の1週間ほどの期間は頭痛に悩まされます。

もし、周りにイスラム教の方がおられたら、神への帰依と言う行為をしていると言う事へのご理解をお願いいたします。

 

イスラム教の多様性とラマダンの時の生活

今年(2011年)も8月1日から8月22日までイスラム諸国ではラマダン(断食期間)に入ります。

多くの人は、世界に広がっているイスラム教をどこの国でも変わらない単一で普遍の思想と考えているのではないでしょうか。確かに信じているコーランと言う聖典は同じですが国によって、人々の生活の中に現れるものは、全く異なります。そんな生活の中に現れるイスラム教についてお話いたします。

生活の話に入る前に、現在のイスラム教の大きな流れについて少しお話いたします。

現在、インターネットと言う新しい通信手段によって北アフリカ、中近東のイスラム諸国では政治的に大きく変動し、今までの経験則では先が読めない状況が生まれています。又、9.11テロ以降、残念なことにサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」が現実味を帯び、宗教間の対立のニュースが世界を駆け巡る様に成っています。特にキリスト教とイスラム教の間では、人口・移民問題や「近代化、脱西欧化」やナショナリズムの問題を含み、感情的な衝突が報道されています。最近、平和で安全と思われていたノルウェーで発生した連続テロ事件でも『反イスラム』の文書が犯人から出ていたとの報道がありました。現在、多くのイスラム諸国の経済的発展により、コーランの教えの一つである喜捨により集まった使い道が特定されない莫大なお金が世界を掛け周り、世界連邦の様な考え方も生まれています。

今、この様な大きなイスラム諸国のうねりについては、その背後にうごめく大国の意図を含め、最近出版された「革命と独裁のアラブ」(ダイヤモンド社、佐々木良昭著)でグローバルな視点から詳しく述べられていますので是非一読されることをお勧めします。

私はNPO日本イスラム連盟と言う団体で、イスラム諸国と言う一般の方々の理解から遠い国々と日本とを繋げる活動をしておりました。このNPO日本イスラム連盟を主宰していた佐々木良昭氏が毎日のように uploadしている「中東TODAY」というBlogがあります。イスラム諸国の大きなうねりについてご興味がある方は是非、この「中東TODAY」(blog.canpan.info)を覗いてみてください。殆ど毎日、最新情報とその分析をお届けしています。(2018/08/13現在No.5199号掲載)

さて、ラマダンですがその正確な開始日や終わる日は、イスラム教の高僧が月を見て判断するので国により前後します。ラマダンは言ってみれば日本のお盆のようなもので、遠くの親戚や知人たちが夜毎、集まり飲んだり(アルコール類はありません。)食べたり。どのイスラム教国でも砂糖、肉を含め全ての食品の消費量が2倍から3倍に跳ね上がります。エジプトでは砂糖の消費がこの時期に6倍に成ると報道されていました。殆どのイスラム教徒は、この夜毎の宴会を待ち焦がれ昼間の断食に耐えているのでしょう。特に子供たちは夜遅くまで遊べますし、お小遣いや新しい洋服を着せて貰って大喜びです。テレビ番組もラマダン期間は特別編成の番組を組み、夜通し番組を流しています。

兎に角、ラマダンと言うのは1カ月続く一種のお祭りの前夜祭みたいなものです。このラマダンが終わりますと、国によって多少異なりますが、1週間から10日間の休日が続きます。公式にはこのお休みは3日間ですが、多くの人がこの時期に纏めてお休みを取ります。多くの企業は、働いている人に対して休日前にボーナスを払いますので、現地の建設会社はこの休日前に工事代金の入金を要求してきます。

しかし、このラマダン期間の職場は、寝不足の集団で生産性も大幅に下がります。これが建設現場のような職場では大変な状況が生じます。夜毎の宴会で疲れ果て、睡眠不足で現場のちょっとした物陰には居眠りする労務者がごろごろ、うっかりすると躓くことにもなりかねません。企業によって異なりますが、建設現場の勤務時間は朝の6時から昼過ぎの1時までで、勿論昼休みも昼食時間もありません。

建設現場のように時間に追われる職場では、午後1時から夕方のイフタール(日没時の食事)の後のお祈り時間まで休み、それから仕事を再開し午前2時位まで作業を行うと言う特別作業時間が組まれ、何とか現場の遅れが出ないようにしています。

朝、陽が昇ってから沈むまで飲まず食わずですから、誰しもその日が沈んで食事をして良いと言う合図を待ち受けています。ですからこのイフタール前に車に乗るのは実に危険です。誰しもイフタールの時刻に間に合わせようと、スピードを出して帰宅を急ぎます。このラマダン時期にイスラム諸国に居ると何度も、車の運転手に『ラマダン期間に毎年30回近くもあるイフタールとお前の命とどちらが大切なんだ』と文句を言わなくてはなりません。

ラマダンの時の街の中の祈り

イフタールと言うのは、日没後の何時でも食べれると言う食事ではありません。日没時に食べる事が原則です。ですから外出時にもどこでも食べられるようなSystemが出来あがっています。

エジプトの場合、喜捨の精神が行き渡っているのか、裕福なのか理由は分かりませんが、街の中のいろいろな所に100人以上が一緒に食事ができる位の沢山のテーブルが路上に並べられ、誰でもがイフタールの食事を取ることが出来るようになっていました。私も何度かその路上のイフタールをいただいたことがありますが、イスラム教徒でなくても外国人であっても問題なく、食事が出来ます。

Pakistanでは貧しいせいか、首都イスラマバードでもそんなテーブルは出ていませんでした。ただ、田舎の幹線道路に沿った村では小さな規模でテーブルが出ており、イフタールが摂れました。パキスタンでは、殆どがモスク内でイフタールが摂れるようになっていました。

文化のガラパゴス現象・エジプトで神輿作り

文化のガラパゴス現象と言う言葉をご存知でしょうか。これは、文化は発祥した所から遠く離れた辺境の地では純粋な形で残ると言う意味です。ローマ時代に使われていたラテン語は、ローマの覇権の拡張と共にヨーロッパの広い地域に広まり、キリスト教の教義を語る言葉として使われましたが、ドイツのラテン語はイタリアで使われるラテン語に比べ、より古い形で残っているそうです。日本語を話すブラジルの人の中に、素晴らしく綺麗で丁寧な日本語を話す人がいますがこれも戦後、ブラジルに移民した人々が残した日本語文化を純粋な形で継承した結果なのでしょう。

故国から遠く離れて生活する人々は、そのDNAに刷り込まれた故郷の文化を懐かしみながら再現しようとします。ここで話しする事は、エジプトと言う日本から遠く離れた地で日本の祭りを懐かしみ、神輿を作成したと言う文化のガラパゴス現象の一つの記録です。

エジプトのカイロ市内のマリオットホテルで行われた日本の祭

[発端・獅子頭から神輿に]
私が日本の建設会社のエジプト支店に勤めていた時の事です。エジプト日本人会では、正月に獅子舞を披露していましたが、その獅子頭は貧相な段ボール製。同僚と「あの獅子頭、何とかならないかね? 伝統工芸品だから多分、二百万円位はする。写真で撮ってくれば、木を加工して出来るかも!」と言うのが神輿製作の発端でした。

日本に出張した際、浅草の創業文久元年、宮内庁御用達と言う店を訪ねると、在るわ!在るわ!大小様々な獅子頭の行列。(この時始めて獅子頭に雌雄が在るのを知りました。) 値段はと見れば、確かに頭に15とか20とかの数字の後に、ゼロが並んでおり、想像通りかと思いながらスパイもどきに隠し撮り。(この店内は全て撮影禁止)

隠し撮りも終って横に並んでいる神輿の値段を見ると、大体1500万円から4000万円。店を出る前、見納めにともう一度、獅子頭の値段を見ると神輿より二つもゼロが少ない。それではと勇んで購入し、これで獅子頭の件は一件落着。さて、獅子頭を作る必要が無くなるとがぜんほしくなるのが神輿。これは何度見ても値段のゼロは減らない。

[資料集め・プラモデルと実物調査]
その後、獅子頭を収めた箱を抱えて浅草の松屋デパートのおもちゃ売り場に一直線。そこで8000円也の神輿のプラモデルを購入。(これを元に神輿を作ろうと言う大胆な発想。) さてエジプトでこのプラモを前にして、寺社建築の経験が全くない日本人の大工さんとコンクリートしか知らない建築技術者で侃々諤々。そして「何とか作れるんじゃないの。」と大胆不敵な結論。しかし、大胆とは言えプラモだけでは何とも心細い。そこで大工さんが日本へ一時帰国の際、氏の郷里の日田市の山の奥の奥に在る由緒ある大原神社の神輿を調査。渋る宮司を説得し、寸法を取り、写真撮影。さて、これで何とか資料は集まり制作開始。

[制作方針・日本の技術移転]
先の浅草の老舗には神輿の部品と言う部品、全て売っているが、それを買っていたのでは直ぐにウン百万円になってしまう。大企業とは言え地の果ての末端組織でそんなことに金を出しては首が飛ぶ。 そこで考えたのがOJT(オンザジョブトレーニン)。全て現地生産し、エジプトの大工さんに伝統的な木造建築のノウハウと日本的な道具の使用方法、日本的な金物の細工について教えるという理由付けをして制作開始。

[木工事]
日本人の大工さんの下にエジプ人大工さんを5名配置し、材料は台輪と羽目板部分にスエーデン産の松材を使い他は全てエジプト産ブナ材を使用した。

まず、プラモと実測資料を元に日本人の大工さんが部品を一つ作り、それをエジプト人大工さんが作成すると言うステップで造って行った。屋根の出を支える枡組み、垂木の部品だけでも200以上もある。2月に着工以来5か月間掛って木工事が完成。次ぎは塗装工事。

[塗装工事]
神輿はとにかく派手がいい。金ぴかで、赤や茶が在ったり、螺鈿があったり。勝手にイメージしていたが調べるとやはり原則は在った。

本来、神輿の色は枡組から屋根に掛けては大体金色に塗装され、屋根は黒漆か茶系統の螺細塗装されるのが普通。しかし、エジプトでは螺鈿も漆もなく、まして細かい枡組の部分などで塗り分けを要求したら折角、作った神輿を台無しにされる。結局、以前担いだ事があるカラス神輿に似せ鳥居、欄干以外は全く真っ黒に塗装する事に決定。塗料は何とか漆の感じに見え、長期の耐候性、耐水性を考えウレタン塗料4回塗りとした。下地、塗装、水研ぎの工程を繰り返し塗装工程の完了。

 

オペラ劇場の究極の舞台背景

今回はオペラ劇場の舞台背景についてお話ししましょう。

[オペラ劇場と舞台背景]
この舞台背景となる大道具の製作や設置には、どの劇場も独特のSystemを持っています。プラハの国立オペラ劇場(1888年完成)は、第二次世界大戦の際に破壊されましたが、新築当時以上の華麗なオペラ劇場として再建され毎年20以上の演目を200回以上公演しています。ヨーロッパでこの劇場ほど昔の劇場の姿を美しく留めながら、オペラや演劇を機能的に上演できる劇場は無いと言われています。再建の際にオペラ劇場の古い姿を其の儘に保持しながらレパートリー劇場として機能強化を図りました。

このオペラ劇場の周辺に近代的な3つのビルを建築し、地下で結んで大道具、小道具の製作部門を移し、これの移動に特殊なトロッコシステムを導入しました。加えてこれらの3つのビルには演劇、バレー、演奏などの練習場、演劇劇場、音楽関係の協会など舞台芸術に関係する全てのSystemが収まっています。チェコの舞台芸術のレベルの高さはこんな施設によっているのでしょう。 日本のオペラ劇場としては4面舞台を持つ新国立劇場が挙げられます。此処もレパートリー劇場を目指しているそうですが、今後どのような展開に成るのか楽しみです。

下の写真は、イタリアのヴィツェンツァ(Vicenza)にある世界最古の木造オペラハウスと言われるオリンピコ劇場(Theatro Olimpico 1584年完成)です。この劇場には慶長年間1615年にローマ法王謁見の前に支倉常長がこの劇場を訪ねており、劇場ホールにその記念プレートがあります。この劇場の舞台背景は街並み或いは豪華な室内とも見える固定背景です。古代ローマ劇場を模して造られたとい言われていますが、この固定背景の意匠が客席まで続いて一体感を表しています。固定背景の場合、演目は限られますがこの劇場ではモーツアルトの「魔笛」や、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」など意外に思うような演目も演じられ、各種の室内楽演奏にも使われています。しかし、此処の舞台背景は究極の背景と言えます。

ヴィツェンツァはルネッサンス期の建築が沢山残されており、建築美術館と言えます。一度は訪問して素晴らしい建築群をお楽しみされるようにお勧めします。

オリンピコ劇場

オペラ劇場と日本の芝居小屋

今回はオペラ劇場の裏側や劇場の衣装、舞台装置の製作についてお話ししましょう。

[オペラ劇場とエンターテイメント]
ガルニエ宮と呼ばれるパリの国立オペラ劇場(1874年完成)は、馬蹄形のパーケット席(平土間席)をとりか組むように5人程度が座れるBox席があります。このBox席には胸に仰々しく勲章を下げフロックコートを着た厳めしい感じの担当サービス係がいますが、なかなか物を頼めると言う雰囲気ではなく、ある時、このBox席で私は全く面識のない同席の4人の女性の為に幕間に、飲み物をサーブするのに大汗をかいた事がありました。

馬蹄形にカーブしている廊下の内径側にはBox席そして、外径側にはそれぞれのBox席専用の着替え用小部屋があります。Box席への扉を開けると片側に長椅子が置いてある小さな前室があり、其の奥の分厚いカーテンの先がBox席です。オペラがつまらなくなったら何時でも後ろのスペースでごろ寝が出来る、そんな空間がBox席にはあるのです。ヴェルディのオペラ「椿姫」の主役の女性のヴィオレッタはそんな華やかな空間を舞台にした職業婦人だったと言われています。

ガルニエ宮パリ国立オペラハウス

Opera・du・operaと言うオペレッタの舞台背景では、この廊下側から見たBox席の扉が並んでおり、そこで起こる男女の密会の話ですが、このオペレッタの中で銀の器をもったボーイがBox席に出入りしていました。つまりオペラ劇場と言うのは、「聞く、見る、飲む、食べる、買う」と言う総合エンターテイメントの世界でした。

[オペラ劇場と下請制度]
丁度、ヨーロッパのオペラ隆盛と時を同じくして日本でも勧進帳の初演が1840年、歌舞伎十八番の制定など歌舞伎も隆盛期を迎え、芝居見物は庶民にとって大きな楽しみでした。江戸には幕府認可の江戸4座だけではなく「宮地芝居」の小屋掛け芝居小屋が沢山あり、芝居演目で使う鬘(かつら)、衣装、舞台装置、舞台小物は下請けが製作していました。

所がヨーロッパの芝居Systemでは、下請制度が無く、当時からオペラ劇場には衣装制作の為のお針子の部屋から小道具、大道具製作室、はては布を染色する部門まであり、現在も使われています。これは、オペラ劇場は当時の為政者であった王侯貴族が開設した謂わば官制劇場であり、日本の芝居小屋は民間の起業家によって建てられたと言う違いによるものです。この下請制度は民間企業のスリム化、リスク分散、専門業者による高度技術化が図られた結果で、これも日本の近代化の一つの支えに成ったと言えます。

また、江戸時代は庶民はドレスコードなどに縛られることなく、沢山ある芝居小屋から演目を選び、気楽に芝居や演芸を楽しみ、それが民衆の大きなエンターテイメントになっており、民衆の文化度を挙げていました。

[オペラ劇場と上演形式]
オペラの面白さは、その内容だけではなく劇場の上演形式や、劇場の広さ、演目による舞台背景などにより大きく影響を受けます。先に述べたガルニエ宮やミラノのスカラ座などのオペラ劇場では色々な演目を日替わり公演するレパートリー制と言う興行システムを採っています。歌舞伎座や宝塚劇場が同じシステムです。ロングラン公演の場合、一つの公演用の舞台装置、背景しかいりませんが、レパートリー制の劇場の場合は上演する演目の数分を用意する必要があります。ミラノのスカラ座の場合は、サイド・ステージが無い為、色々な舞台装置、背景がバックステージに林立している状態です。

これに対して新しくパリに出来たオペラ・バスチーユ(1989年完成)は、バックやサイドの舞台に加えてそれぞれの舞台の地下にの舞台があり合計で9面の舞台で、主舞台をそっくりそのまま舞台転換できます。背景を置いておく舞台の数が多ければ、幕間の時間も短くなりますし、演出家は大きな舞台装置、背景を自由に構想出来ます。ベニスのフィニーチェ劇場やウィーンのフォルクスオパーなどの小さな劇場では舞台転換で、40分以上待たされた事がありました。ヨーロッパのオペラ劇場では夕食時の幕間が1時間半位あり、観客は劇場の外のレストランに食事に行き、舞台の上では大きな舞台転換の作業をしています。

日本からエジプトに贈ったオペラ劇場

2010年、『オペラ連盟が文化庁からの支援金を水増し』、『景気の影響で海外オペラや音楽の来日公演は、2008年比で1/3以下減少』など芸術オペラとは違う面のニュースが流れましたが、今回はオペラ劇場に纏わる芸術には余り関係のないお話しをしましょう。

[オペラ劇場と政治の世界]
昔の事ですが、私が建設会社の技術者だった時、エジプトでオペラ劇場を建てた事があります(1988年落成式)。このオペラ劇場は、日本からエジプトへの贈り物として建てられました。

エジプトは、スエズ運河の開通記念式典(1869年)に招いた多くのヨーロッパの王侯貴族を歓待する為にオペラ劇場を造りました。このバレー、演奏、声楽に演技が加わったオペラと言う複合芸術の場は、エジプトの音楽レベルを高い水準にしましたが、残念な事に1971年に焼失してしまい、育った芸術家たちはヨーロッパに散って行きました。

そこで日本からの贈り物のオペラ劇場です。日本・エジプトの友好強化、教育水準向上などODAとして色々な理由はありましたがその当時、日本にはオペラ劇場は無く、日本の国会では「自国にもないものを贈るとは!」と言う事で紛糾しました。しかし、ヨーロッパの諸国は、オペラ劇場をプレゼントしたと言う事で日本の文化度を高く評価し、エジプトでも記念切手や絵葉書が多数発行されました。因みにその時に日本側がつけたプロジェクト名は「エジプト教育文化センター」と言う隠れ蓑的な名前でしたが。この時の駐エジプト日本大使は、バレーの筋書きの作家で大のオペラファンだったとの話も聞きました。

日本で寄贈したオペラハウスを記念して発行された絵葉書

 

日本の寄贈したオペラハウスの記念切手及びシート

さて、私はこのオペラ劇場建設の際に、劇場設計、音響、照明、舞台装置など其々の専門家の方々と、ヨーロッパ諸国のオペラ劇場の調査を行いました。昼は調査、夜はオペラ、レヴューを見て、見終わると舞台比較論に明け暮れる毎日で、実にハードな業務出張でしたが夢のような素晴らしい時間を過ごしました。

Page 2 of 3

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén & Edited by ソフト工房MPC