阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

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京都の世界遺産と消防団

江戸時代の江戸の明暦(1657年)の大火(振袖火事)

ラリトプール市のパタン地域は、地域そのものが世界遺産ですが、地域としての京都は世界遺産ではありません。京都市内或いは周辺にある17か所の社寺或いは城が世界遺産です。

京都は、1788年1月30日に発生した「天明の大火」で当時の京都1976町の73%、1424町が消失、37神社、201寺も同様に消失し、4日間にわたって燃え続け鎮火したのは2月2日早朝でした。この火事は放火だったそうです。

もし、多くの社寺や街並みが消失していなかったら、まさに今の京都の中心街そのものが世界遺産になっていたことでしょう。下の右図は、当時の京都市街地とその消失部分(赤線の内側)の図ですが、この範囲の中にある二条城だけが現在、世界遺産指定されています。左図の赤点は、京都の世界遺産配置です。

京都の天明の大火での消失部分と現在の世界遺産

この時、活躍したのが1722年に制度が確立した常火消(幕府直轄火消)です。出火の報を受け取ると直ぐに二条城(幕府の京都支配の出城)に駆けつけ、大規模な延焼を何とか食い止め、次に御所の消火へと向かいましたが、時遅く御所は全焼。この活躍で、二条城は世界遺産として残ったと言えます。

華麗な加賀鳶で有名な大名火消や、町火消のシステムも同じ頃に創設されました。江戸では明暦3年(1657年)のいわゆる「振袖火事」をはじめ度々の大火に見舞われまた、幕府のお膝元という事もあり、すでにこの時点では常火消、大名火消、町火消ともに機能していました。しかし、京都ではまだまだ町火消の活動は定着していなかったようです。
民間の消防組織である消防団が、江戸時代の町火消から発展して今の形になるまで400年という長い歳月が掛かっています。今、やっと始まったばかりのネパールの消防団が、日本の消防団のように活躍するのは何時の事なのでしょう?

世界遺産パタンの消防体制と日本から贈られた消防車

ネパールでの活動で改めて感じた日本の消防団や世界遺産のお話しです。 私は2012年から2014年の2年間、JICAシニア海外ボランティアとしてネパール国首都カトマンズ市のすぐ南に隣接するラリトプール市都市開発部に勤め、市の耐震化計画や防災施策の実施事業を支援しました。
ラリトプールというのは「美の都」という意味で、市のパタン地区は,地区中心にある王宮を含めて世界遺産ですがその殆どが木造建築です。しかし、その防火対策は消火器すら充分にないという状況です。

ラリトプール市世界遺産の王宮広場

日本の都市で市の中に同じ様な歴史保存地域があり、人口・面積がほぼ近い都市を選ぶと、金沢市と倉敷市が挙げられます。話が少し硬くなりますが、世界遺産を有する京都及びこれらの都市と、ラリトプール市の消防力を比較したものが次の表です。

 

ラリトプール市と同規模の日本の都市及び世界遺産都市との比較
都市名 人口(人) 面積(㎢) 消防署及び出張所(箇所) 消防署員(人) ポンプ車(台) 消防団員(数) 消防団ポンプ車(台)
ラリトプール市 466,784 385 1 11 5 0 0
倉敷市 477,463 355 4 120 10 1,945 48
金沢市 466,189 355 4 416 17 1,101 17
京都市 715,444 828 48 1,943 59 4,247 6

この表から、ラリトプール市の消防力が、いかに貧弱かが判ります。しかし、それ以上に日本の各都市の消防体制のすごさに驚きます。それではと、私はラリトプール市の消防力を何とか強化しようと活動しました。(この活動の様子は、BS朝日で放映された「世界に役立つ日本人」で紹介されています。)

パタン王宮地域の消防力強化計画を策定の際、調査の為に訪れたそのラリトプール市消防署で、日本から贈られた4台の消防車を見つけました。消防署の話では、4台の消防車の中で、小型の自動車駆動用のエンジン以外に消防ポンプ専用のエンジンを搭載している小型の消防車は、水源が確保できる所では、最近インドから購入した大型の3.5TONの水槽付消防ポンプ車より送水能力もあり働くそうです。

日本から贈られた小型消防車

しかし、不思議なことに消防車の扉には、鴨島15消防分団と記載され、なぜか上の認識灯には鴨島10分団と記載してあります。鴨島町と言うのは四国徳島の吉野川市にありますが、まだ現役のこの消防車の写真を吉野川市役所に送ると、その話が掲載された広報誌を送ってくれました。広報誌「広報よしのがわ」には『徳島ネパール友好協会が、首都カトマンズ近郊のダバケル村開発委員会に小型消防車を贈り、感謝の額を貰った。』と載っていました。

消防車の扉や認識灯の違いの不思議は、市町村の統廃合で鴨島15消防分団が10団分に変わり、マグネット・シールを張り付けて使用していたが、贈る際にシールをはがしたとの事。これで、この不思議は判りましたが、それ以上に驚いた事を教えてくれました。
2011年に徳島ネパール友好協会がこの消防車を送った際に、陸送先遣隊(海のないネパールにはまずインドのムンバイ港に送り、それから約1,600KM以上の距離を陸送しなくてはなりません。) を含め、はるばるネパールに運転訓練の為に6人の技術者を送り、運転整備の訓練をしているのです。中古の消防車、動いて初めてその価値が生まれる物を、相手に贈って使ってもらう際のルールと言うか、心遣いがこんな所にも生きているのを知って、何か安心しました。
日本はドイツと並ぶ世界に冠たる民間消防組織の先進国で、民間消防組織の消防分団がこんな消防車まで持っています。前掲の表のようにさすがに京都の防災体制は鉄壁です。京都は昔ながらの狭い路地が碁盤の目のように入り組んでいるので、この狭い路地で初期消火活動が出来る500ℓの消火用水を積んでいる超小型の消防車や小型のはしご車も開発し備えています。

狭い路地にも入り込む小型水槽消防車

小型はしご車

京都の消防体制は、他の都市と少し違って、より広く市民を巻き込むような形で、市内の沢山の小学校が消防機材倉庫になっており、地区の消防団はこれを起点に活動しています。この形はこれから新たに市民消防組織を創設していこうという国々では実に有効なアイディアと思います。

 

面白い飛行地図、そして日本の海の守り

私がULP(超軽量飛行機)に乗っていた時、飛行クラブにはTactical Pilotage Chartというた航空地図が準備されていました。この地図は、最新型の電子制御のジェット機にも搭載されているそうです。この地図は、米国ミズーリ州セント・ルイスにある「Defense Mapping Agency Aerospace Center」で発行されており、100㎞角のグリット毎の最低飛行高さが記載されています。また、この地図には地形などの一般の地図情報以外に軍用、民生用も含め全ての飛行場の位置、滑走路長さ、方向などが記載されています。

飛行機が緊急事態になった場合、どこの飛行場にも着陸ができるという国際ルールがあります。そのためこの地図には民間だけではなく軍隊が所有している飛行場も記載されています。下の地図はカイロ周辺の飛行場の位置が記載されています。

カイロ周辺の飛行場を示す航空地図

沢山の飛行場が記載されていますが、この地図のカイロからアレキサンドリアに向かう道路の上に飛行場マークがあります。これは道路そのものが緊急時(多分、戦争時)の飛行場となる代替滑走路で、通常は高速道路で使用しており、中央分離帯の部分はコンクリートの分離ブロックが置かれていますが、戦時にはその分離ブロックは片付けられて飛行場に早変わりします。このタイプの飛行場はイスラエルやパキスタンでも見ましたが、周辺には離着陸に障害となる看板や街灯が一切なく、道路もまっすぐですからすぐに判断できます。

エジプトの高速道路の代替滑走路

さてこの地図には、滑走路長さ3,000feet以上の大型の飛行場(地図上の●)と小規模な飛行場(地図上の○)が記載されていますが、エジプトの場合、近くに行くとすぐに飛行場の位置が確認できます。ところがイスラエルでは近くに行っても滑走路は見えず飛行場があるのか確認できませんが、大部分でドーム型の丘が見えますので戦闘機基地かと判断できます。ドーム型の丘はコンクリートの上に土を被せた戦闘機の格納庫だと聞きました。このドームがない所は、地下に格納庫を設置しているのだと聞きました。

イスラエルの飛行場を示す航空地図

長らくエジプトに住み、アラブ側からイスラエルを長く見てきた筆者からは、『イスラエルは、国連決議を守らず、殆ど武器を持っていない人々を、高性能武器で攻撃する』というイメージで、いい感情を持っていません。しかしイスラエルは、周辺をアラブ諸国に囲まれ、国そのものの存在を危うく感じる中で、国際社会から非難があろうと、国連決議も無視し、領土を拡張し、コンクリートの塀を造り、戦闘態勢を構築する事が中東戦争から学んだことなのかもしれません。

(しかし、国際的な責任もかえりみず、状況を悪く悪くするようにアホなことをする西洋歌留多には腹立たしい限りです。)

しかし、イスラエルや北朝鮮の様に国際社会を向こうに回しながらも、国の立場を堅持していくというしたたかな外交感覚は素晴らしいものです。日本の政府も少しは見習ってほしいものです。

日本の場合、周りが海ですので防空体制も大切ですが、加えて海の防衛体制が必要になります。海上自衛隊下総航空基地の基地記念日にP3-C対潜哨戒機に乗せてもらったことがありました。その時の機体は米軍からのお下がりで、乗員11人搭乗可能で米軍が使用していた時は控えの乗員用に休憩用のベッドも備わっていますが、自衛隊の場合は半分の乗員で運用しており、ベッドは無用の長物になっていました。(今は日本でライセンス生産されていますので多分、内部は実情に合わせて変わってきているでしょう。)

P3-C対潜哨戒機

朝6時前に3食のお弁当を持って離陸し、夜遅くに着陸するまで東京以北の太平洋側を飛行し、沢山のソノブイを投下し、音響及び磁気、赤外線探査などを行っていきます。機体の諸元では対潜爆弾、魚雷、対艦大型ミサイルなどの武器も搭載可能との事。機体の内部は沢山のソノブイのラックと情報処理用のコンピューターで占められていました。
この搭載されているコンピューターの情報システムは、日本が改良を重ね、現在では日本の対潜哨戒機は世界の中で一番性能がいいとされています。機体も川崎重工業がライセンス生産しており合計で98機を海上自衛隊向けに製造して、その性能は、updateされているとの事。

前稿の「ひこう中年」と言う気楽な話発展して国の防衛と言う話まで飛んでしまいましたが、災害派遣だけではなく日夜、その本来の目的の日本の防衛のため努力している人たちがいるという事を忘れてはならないと感じています。

 

ひこう中年

『私はひこう中年でした。』と言うと「実を言うと、私も相当悪だったんだよ。」と言われる方も居られるのでは?
しかし、今回お話しすることは、「非行」の意味は多少あるもの、主に「飛行」の話です。

誰しも「鳥の様に空を飛びたい!」と言う夢を持っているのではないでしょうか。私がエジプトで仕事をしていた時、民間の飛行クラブの会員でした。その飛行クラブは、現在のカイロ国際空港が使われる前の古いカイロ空港でモハンデシン地域の西にあり、会費はなしで、費用は飛行時間1時間当たり30US$だけでした。小さな格納庫の前に何人かの中年の男たちが座って話をしており、その中の一人が「今から乗るか?」。講義も脱出訓練も何もなく、出会ったのが、ウルトラ・ライト・プレーン(Ultra light plane超軽量飛行機ULP)でした。

グライダーに小さなエンジンとプロペラを付けた代物で機体重量は300㎏、離陸重量は450㎏程度ですので、オートバイに翼をつけたようなものです。

古いタイプのULP(Tandem-type)。今は翼が機体の上にあるタイプが主流。タンデム・タイプ

 

side-by-side TypeのULP

一人乗りと二人乗りがあり、二人乗りは横に二人が並ぶ形式のside-by-sideと前後に並ぶTandemの2つのtypeがあります。私が乗ったのはTandem-typeで、前の席に生徒、後ろの席に教官が乗ります。基本的にはどちらの席からも操縦できます。 操縦席の前には、足の間に挟む位置にスティック(棒)の操縦桿があり、前面には燃料計と油圧計、高度計、速度計、座席の横の床には車輪の上げ下げを手動でするギヤがあります。操縦席を覆うキャノピー(操縦席を覆うプラスチックの天蓋)には空気取り入れ用の手で開け閉めする小さな子窓があります。

実に単純なコックピット・フロント

シートベルトは、旅客機のアテンダント席にある様な胸の前でクロスするタイプの物で、それだけでも少しプロ的で胸躍る思いですが、ジェット機のパイロットの様にパラシュートも旅客機の様にライフ・ジャケットも何もなし。多少、不安になり教官に聞くと操縦席の背もたれの後ろについている直径20cm、高さ40cm程のアルミ缶を指差した。それがパラシュートで下の紐を引くとキャノピーが外れ、自動的に開くとの事。つまりこのパラシュートは飛行機ごと空中に浮かせる物なのです。

セルモーターでエンジンを掛け、管制塔に許可を貰いタクシーイングで滑走路に。離陸の許可を貰い、エンジンを吹かして加速して時速90kmを越える辺りで、それまで前に倒していたスティック(操縦桿)を手前に引くとフワッと機体が浮き上がりました。そのまま約1,000mまで上昇し、水平飛行に。ここまでは教官がやってくれましたが突如、操縦してみろと言われ、操縦桿を握りました。

「前に倒すと下降」、「手前に引くと上昇」、「左右に倒すとそれぞれの方向に曲がる」、ただそれだけを教えてもらい操縦桿を押すと、機体は急激に下降。教官があわてて機体を戻す。そんなことをやったあとで教官いわく『女性の体に接するときのように、やさしく触れ、押し、引いてやるとすぐに反応する』。30US$/時間でこんな楽しさが味わえるのですから、その飛行クラブは教官や会員はすべて中年という理由もうなずけます。(ULPに乗り始めたころは、女房殿にも何故か言いませんでしたが、深層心理的には後ろめたい何かを感じていたのかも。)

この飛行機ULPは、機体が軽いので上昇気流があると、上空でエンジンを止めてグライダーのように滑空ができます。エンジンを止めると全く音のない世界が生まれます。キャノピーの小窓を開けて手を外に少し出すと、さわやかな外気がコックピットに流れ込んできて、敏感に反応する機体を意のままに動かし、小さな模型のようになった町を見ていると、今まで鎖で地上につなぎとめられていた日常から自由になった気持ちになり、なるほど飛行機に乗るというのはこういうことだったのかと初めて理解しました。 大型ジェット機と違い、この飛行機ULPは空に浮かんで当然という感じがしました。上昇気流の有無には敏感に反応し、ナイル川や畑の上を飛ぶと機体は下降し、砂漠や樹木がほとんどない町の上では、機体は上昇します。

超軽量飛行機ULPから見たカイロの街並み

飛行機にも弱者保護のルールがあります。一番の優先順位は動力がない、グライダーで順次、大きな飛行機になるに従いその優先順位は下がります。ULPはグライダーの次に優先順位は高いのですが、わがもの顔に飛ぶことはできません。大型のジェット機の後方に発生する乱気流に巻き込まれると、ひとたまりもなく空中分解します。

さて、何度か乗り、管制塔とのやり取りができるようになるとStudent licenseという仮免が発行されカイロ周辺の決まった空域を飛ぶことができましたし、本当は飛んではいけない空域でしたが空からピラミッド見物もしました。クラブの4台の飛行機でアレキサンドリアを回るツアーもありました。

ひこう中年、実にいい響きです。両方の意味でも。

ラマダンの時の神への帰依と食事

兎に角、Ramadanはアラーに対してそれぞれの信仰の念を伝える期間ですから、昼間の水や食べ物から、夜の欲望まで全て控えて、その信仰の念をアラーに伝えます。エジプトの女性達は概してクレオパトラ並に化粧は非常に濃いのが普通です。(実際にクレオパトラを見たわけではなく、エリザベステーラーのクレオパトラからの印象です。)

私の事務所の女性達も飾ると言う欲望を抑えてRamadanのときは全くのすっぴん。朝、会った時は一瞬別人かと思い、それから病気なのと聞いたほどにその変化は劇的でした。

エジプトのラマダンの時でない女性

私がPakistanで仕事をしていた所は、バルチスタン州(以前は北西辺境州と言いました。)のBattagramと言う片田舎の町ですが、通常と違い八百屋やお菓子屋の前にはデーツ(ナツメヤシの実でラマダンの時に必ず食べる物)が山のように盛り上げて売っており、食べ物屋と言う食べ物屋には溢れるほど食料品が山積みになっています。ラマダンのときに人口が飛躍的に増加するわけでもなく、一人当たりの食物摂取量が何倍にもなるわけではありませんので、山のように盛り上げた食料品は最終的には生ごみとなって廃棄されます。

私がエジプトで生活していた時、ザバリンというごみ収集の人たちの村の再開発を手伝ったことが有りました。その時、ラマダンの時は、豚のえさとしては処理しきれないくらいの生ごみが出ると言っておりました。

信仰と言うのは常にある面での何かの犠牲或いは無駄と言うものを要求しますが、ラマダンが始まると色々と地球と言う単位でも考えさせられます。

ラマダン明けの日の街中の喧騒

ラマダンはイスラム暦の9月を指しますが、イスラム暦は、明治時代以前の日本と同じ陰暦で、1年が354日間で太陽暦の365日より11日短い暦です。その為、毎年11日ずつ始まりが早くなります。冬至に近い季節のラマダンは日の出から日没までは短いので、この季節のラマダンは楽です。しかし、今年のように夏至に近い時期のラマダンは断食時間が長く大変です。私もエジプトに住んでいた時、イスラム教徒ではありませんが断食をした事がありました。水を飲まない為、慣れる迄の1週間ほどの期間は頭痛に悩まされます。

もし、周りにイスラム教の方がおられたら、神への帰依と言う行為をしていると言う事へのご理解をお願いいたします。

 

イスラム教の多様性とラマダンの時の生活

今年(2011年)も8月1日から8月22日までイスラム諸国ではラマダン(断食期間)に入ります。

多くの人は、世界に広がっているイスラム教をどこの国でも変わらない単一で普遍の思想と考えているのではないでしょうか。確かに信じているコーランと言う聖典は同じですが国によって、人々の生活の中に現れるものは、全く異なります。そんな生活の中に現れるイスラム教についてお話いたします。

生活の話に入る前に、現在のイスラム教の大きな流れについて少しお話いたします。

現在、インターネットと言う新しい通信手段によって北アフリカ、中近東のイスラム諸国では政治的に大きく変動し、今までの経験則では先が読めない状況が生まれています。又、9.11テロ以降、残念なことにサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」が現実味を帯び、宗教間の対立のニュースが世界を駆け巡る様に成っています。特にキリスト教とイスラム教の間では、人口・移民問題や「近代化、脱西欧化」やナショナリズムの問題を含み、感情的な衝突が報道されています。最近、平和で安全と思われていたノルウェーで発生した連続テロ事件でも『反イスラム』の文書が犯人から出ていたとの報道がありました。現在、多くのイスラム諸国の経済的発展により、コーランの教えの一つである喜捨により集まった使い道が特定されない莫大なお金が世界を掛け周り、世界連邦の様な考え方も生まれています。

今、この様な大きなイスラム諸国のうねりについては、その背後にうごめく大国の意図を含め、最近出版された「革命と独裁のアラブ」(ダイヤモンド社、佐々木良昭著)でグローバルな視点から詳しく述べられていますので是非一読されることをお勧めします。

私はNPO日本イスラム連盟と言う団体で、イスラム諸国と言う一般の方々の理解から遠い国々と日本とを繋げる活動をしておりました。このNPO日本イスラム連盟を主宰していた佐々木良昭氏が毎日のように uploadしている「中東TODAY」というBlogがあります。イスラム諸国の大きなうねりについてご興味がある方は是非、この「中東TODAY」(blog.canpan.info)を覗いてみてください。殆ど毎日、最新情報とその分析をお届けしています。(2018/08/13現在No.5199号掲載)

さて、ラマダンですがその正確な開始日や終わる日は、イスラム教の高僧が月を見て判断するので国により前後します。ラマダンは言ってみれば日本のお盆のようなもので、遠くの親戚や知人たちが夜毎、集まり飲んだり(アルコール類はありません。)食べたり。どのイスラム教国でも砂糖、肉を含め全ての食品の消費量が2倍から3倍に跳ね上がります。エジプトでは砂糖の消費がこの時期に6倍に成ると報道されていました。殆どのイスラム教徒は、この夜毎の宴会を待ち焦がれ昼間の断食に耐えているのでしょう。特に子供たちは夜遅くまで遊べますし、お小遣いや新しい洋服を着せて貰って大喜びです。テレビ番組もラマダン期間は特別編成の番組を組み、夜通し番組を流しています。

兎に角、ラマダンと言うのは1カ月続く一種のお祭りの前夜祭みたいなものです。このラマダンが終わりますと、国によって多少異なりますが、1週間から10日間の休日が続きます。公式にはこのお休みは3日間ですが、多くの人がこの時期に纏めてお休みを取ります。多くの企業は、働いている人に対して休日前にボーナスを払いますので、現地の建設会社はこの休日前に工事代金の入金を要求してきます。

しかし、このラマダン期間の職場は、寝不足の集団で生産性も大幅に下がります。これが建設現場のような職場では大変な状況が生じます。夜毎の宴会で疲れ果て、睡眠不足で現場のちょっとした物陰には居眠りする労務者がごろごろ、うっかりすると躓くことにもなりかねません。企業によって異なりますが、建設現場の勤務時間は朝の6時から昼過ぎの1時までで、勿論昼休みも昼食時間もありません。

建設現場のように時間に追われる職場では、午後1時から夕方のイフタール(日没時の食事)の後のお祈り時間まで休み、それから仕事を再開し午前2時位まで作業を行うと言う特別作業時間が組まれ、何とか現場の遅れが出ないようにしています。

朝、陽が昇ってから沈むまで飲まず食わずですから、誰しもその日が沈んで食事をして良いと言う合図を待ち受けています。ですからこのイフタール前に車に乗るのは実に危険です。誰しもイフタールの時刻に間に合わせようと、スピードを出して帰宅を急ぎます。このラマダン時期にイスラム諸国に居ると何度も、車の運転手に『ラマダン期間に毎年30回近くもあるイフタールとお前の命とどちらが大切なんだ』と文句を言わなくてはなりません。

ラマダンの時の街の中の祈り

イフタールと言うのは、日没後の何時でも食べれると言う食事ではありません。日没時に食べる事が原則です。ですから外出時にもどこでも食べられるようなSystemが出来あがっています。

エジプトの場合、喜捨の精神が行き渡っているのか、裕福なのか理由は分かりませんが、街の中のいろいろな所に100人以上が一緒に食事ができる位の沢山のテーブルが路上に並べられ、誰でもがイフタールの食事を取ることが出来るようになっていました。私も何度かその路上のイフタールをいただいたことがありますが、イスラム教徒でなくても外国人であっても問題なく、食事が出来ます。

Pakistanでは貧しいせいか、首都イスラマバードでもそんなテーブルは出ていませんでした。ただ、田舎の幹線道路に沿った村では小さな規模でテーブルが出ており、イフタールが摂れました。パキスタンでは、殆どがモスク内でイフタールが摂れるようになっていました。

エジプトでの神輿作り騒動結末・神様の海外出張

これは、「文化のガラパゴス現象・エジプトで神輿作り」の続編です

[プロポーション]
さて、この塗装工事が完了した時点で神輿を見ると驚いた。「誰だ!仏壇を作った奴は!」と叫びたくなった。神様がおられる社(やしろ)ではなく、仏様が鎮座まします厨子なのだ。

最近の神輿は本来の機能性から離れて一種の装飾品となっており、お堂の平面寸法に対し屋根の先端でクルッと丸まっている蕨手(わらびて)から蕨手までの屋根寸法は約五倍位あり、人間の体型で言えば胸が大きく腰の部分でキュッとしまっているグラマーな女性タイプ。

それに比べ我々が参考にした神輿は、約350年の歴史がある神輿。そんな古い時代の神輿はより現実的で且つ、団地サイズの4.5畳より八畳間提供するだけの経済的な余裕もある。また、そんな時代にグラマーな女性がいるはずもなくまあ、胴長女房で我慢しようと言う事で一件落着。

グラマーで派手な現代的な神輿

[金物工事・高所恐怖症の鳳凰]
次ぎは金物工事。これは塗装工事以上に説明が困難。鳳凰(ほうおう)、瓔珞(ようらく)、長押金物(なげしかなもの)、屋根紋等々。まず日本語を英語に訳す時から困難で、ましてそれをアラビア語に翻訳するとなると全く不可能。兎に角、写真とプラモで説明し金物製作会社に発注。

日本であれば銅版の薄板を加工し、金鍍金するがエジプトではそのような事をしてくれる所もなく結局、真鍮板の薄板を打って加工する事に成った。真鍮板は固いので打ってもなかなか曲線が出ず鳳凰の胴はやせ細り、その羽は高所恐怖症で突っ張り、上下に揺らしても羽は固まったまま。これも諦念と言う解決策で一件落着。

[飾り付け]
神輿にはその屋根の天辺から担ぎ棒まで太い飾り紐が張られている。その全長9.5mの紐を、組み紐器を使って作ろうと考え、デパートの手芸コーナーに行ったが直径3㎝の紐を造るのは無理と判り、これは購入。ついでに扉の前に付ける鏡と鈴、紐飾りなどを購入し、飾り物も一件落着。神輿の上に付ける駒札の文字を東京にいるPOPの専門家に新勘亭文字で書いてもらい、それを年賀状の版画よろしく彫刻刀で彫りエナメルを流し込んで駒札も完成。

[お札・神様の海外出張]
神輿は神様の乗り物ですから担ぐ前に、ご神体または御霊代(みたましろ)に代わる御札を収めなければならない。東京に出張した際、神田明神に行き、お札を貰おうとしたがこれがなかなかの難しさ。神輿にお札を収める際に、神様が神輿にお移りになる儀式が必要との事。

神輿をもって来れないか?(地球半周どうやって担いでくるんか?)、神社は無いのか?(有ればこんなとこまでくるか。モスクは有るがいいのか?)等々。お札所では話が付かず社務所で侃々謂々。結局、「お札を長い間神輿の中に入れた儘にしないこと。」「祭りが終わったら御札は燃やす事。」「担ぐ前に毎回お札を貰いにくること。」などの条件が付いてやっとお札を貰った。しかし、今のグローバル化の世の中、神様も海外出張に対してもう少しフレキシブルでないと世の中に遅れるのではないかと思った次第。

[完成・家鴨から白鳥に変身]
綱を張り、駒札を付け、鈴を付け、鏡を飾り…すると、ああ!何と!!あひるが白鳥に変わったではないか!もう、目の前にあるのは胴太の仏壇ではなく力強い神輿その物。今は神輿の上の鳳凰も高所での恐怖心も薄れ心なしか強くはばたいて見える。 この神輿は今もエジプトにある日本大使館の領事部のロビーを飾っている。

完成した神輿

文化のガラパゴス現象・エジプトで神輿作り

文化のガラパゴス現象と言う言葉をご存知でしょうか。これは、文化は発祥した所から遠く離れた辺境の地では純粋な形で残ると言う意味です。ローマ時代に使われていたラテン語は、ローマの覇権の拡張と共にヨーロッパの広い地域に広まり、キリスト教の教義を語る言葉として使われましたが、ドイツのラテン語はイタリアで使われるラテン語に比べ、より古い形で残っているそうです。日本語を話すブラジルの人の中に、素晴らしく綺麗で丁寧な日本語を話す人がいますがこれも戦後、ブラジルに移民した人々が残した日本語文化を純粋な形で継承した結果なのでしょう。

故国から遠く離れて生活する人々は、そのDNAに刷り込まれた故郷の文化を懐かしみながら再現しようとします。ここで話しする事は、エジプトと言う日本から遠く離れた地で日本の祭りを懐かしみ、神輿を作成したと言う文化のガラパゴス現象の一つの記録です。

エジプトのカイロ市内のマリオットホテルで行われた日本の祭

[発端・獅子頭から神輿に]
私が日本の建設会社のエジプト支店に勤めていた時の事です。エジプト日本人会では、正月に獅子舞を披露していましたが、その獅子頭は貧相な段ボール製。同僚と「あの獅子頭、何とかならないかね? 伝統工芸品だから多分、二百万円位はする。写真で撮ってくれば、木を加工して出来るかも!」と言うのが神輿製作の発端でした。

日本に出張した際、浅草の創業文久元年、宮内庁御用達と言う店を訪ねると、在るわ!在るわ!大小様々な獅子頭の行列。(この時始めて獅子頭に雌雄が在るのを知りました。) 値段はと見れば、確かに頭に15とか20とかの数字の後に、ゼロが並んでおり、想像通りかと思いながらスパイもどきに隠し撮り。(この店内は全て撮影禁止)

隠し撮りも終って横に並んでいる神輿の値段を見ると、大体1500万円から4000万円。店を出る前、見納めにともう一度、獅子頭の値段を見ると神輿より二つもゼロが少ない。それではと勇んで購入し、これで獅子頭の件は一件落着。さて、獅子頭を作る必要が無くなるとがぜんほしくなるのが神輿。これは何度見ても値段のゼロは減らない。

[資料集め・プラモデルと実物調査]
その後、獅子頭を収めた箱を抱えて浅草の松屋デパートのおもちゃ売り場に一直線。そこで8000円也の神輿のプラモデルを購入。(これを元に神輿を作ろうと言う大胆な発想。) さてエジプトでこのプラモを前にして、寺社建築の経験が全くない日本人の大工さんとコンクリートしか知らない建築技術者で侃々諤々。そして「何とか作れるんじゃないの。」と大胆不敵な結論。しかし、大胆とは言えプラモだけでは何とも心細い。そこで大工さんが日本へ一時帰国の際、氏の郷里の日田市の山の奥の奥に在る由緒ある大原神社の神輿を調査。渋る宮司を説得し、寸法を取り、写真撮影。さて、これで何とか資料は集まり制作開始。

[制作方針・日本の技術移転]
先の浅草の老舗には神輿の部品と言う部品、全て売っているが、それを買っていたのでは直ぐにウン百万円になってしまう。大企業とは言え地の果ての末端組織でそんなことに金を出しては首が飛ぶ。 そこで考えたのがOJT(オンザジョブトレーニン)。全て現地生産し、エジプトの大工さんに伝統的な木造建築のノウハウと日本的な道具の使用方法、日本的な金物の細工について教えるという理由付けをして制作開始。

[木工事]
日本人の大工さんの下にエジプ人大工さんを5名配置し、材料は台輪と羽目板部分にスエーデン産の松材を使い他は全てエジプト産ブナ材を使用した。

まず、プラモと実測資料を元に日本人の大工さんが部品を一つ作り、それをエジプト人大工さんが作成すると言うステップで造って行った。屋根の出を支える枡組み、垂木の部品だけでも200以上もある。2月に着工以来5か月間掛って木工事が完成。次ぎは塗装工事。

[塗装工事]
神輿はとにかく派手がいい。金ぴかで、赤や茶が在ったり、螺鈿があったり。勝手にイメージしていたが調べるとやはり原則は在った。

本来、神輿の色は枡組から屋根に掛けては大体金色に塗装され、屋根は黒漆か茶系統の螺細塗装されるのが普通。しかし、エジプトでは螺鈿も漆もなく、まして細かい枡組の部分などで塗り分けを要求したら折角、作った神輿を台無しにされる。結局、以前担いだ事があるカラス神輿に似せ鳥居、欄干以外は全く真っ黒に塗装する事に決定。塗料は何とか漆の感じに見え、長期の耐候性、耐水性を考えウレタン塗料4回塗りとした。下地、塗装、水研ぎの工程を繰り返し塗装工程の完了。

 

オペラ劇場の究極の舞台背景

今回はオペラ劇場の舞台背景についてお話ししましょう。

[オペラ劇場と舞台背景]
この舞台背景となる大道具の製作や設置には、どの劇場も独特のSystemを持っています。プラハの国立オペラ劇場(1888年完成)は、第二次世界大戦の際に破壊されましたが、新築当時以上の華麗なオペラ劇場として再建され毎年20以上の演目を200回以上公演しています。ヨーロッパでこの劇場ほど昔の劇場の姿を美しく留めながら、オペラや演劇を機能的に上演できる劇場は無いと言われています。再建の際にオペラ劇場の古い姿を其の儘に保持しながらレパートリー劇場として機能強化を図りました。

このオペラ劇場の周辺に近代的な3つのビルを建築し、地下で結んで大道具、小道具の製作部門を移し、これの移動に特殊なトロッコシステムを導入しました。加えてこれらの3つのビルには演劇、バレー、演奏などの練習場、演劇劇場、音楽関係の協会など舞台芸術に関係する全てのSystemが収まっています。チェコの舞台芸術のレベルの高さはこんな施設によっているのでしょう。 日本のオペラ劇場としては4面舞台を持つ新国立劇場が挙げられます。此処もレパートリー劇場を目指しているそうですが、今後どのような展開に成るのか楽しみです。

下の写真は、イタリアのヴィツェンツァ(Vicenza)にある世界最古の木造オペラハウスと言われるオリンピコ劇場(Theatro Olimpico 1584年完成)です。この劇場には慶長年間1615年にローマ法王謁見の前に支倉常長がこの劇場を訪ねており、劇場ホールにその記念プレートがあります。この劇場の舞台背景は街並み或いは豪華な室内とも見える固定背景です。古代ローマ劇場を模して造られたとい言われていますが、この固定背景の意匠が客席まで続いて一体感を表しています。固定背景の場合、演目は限られますがこの劇場ではモーツアルトの「魔笛」や、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」など意外に思うような演目も演じられ、各種の室内楽演奏にも使われています。しかし、此処の舞台背景は究極の背景と言えます。

ヴィツェンツァはルネッサンス期の建築が沢山残されており、建築美術館と言えます。一度は訪問して素晴らしい建築群をお楽しみされるようにお勧めします。

オリンピコ劇場

オペラ劇場と日本の芝居小屋

今回はオペラ劇場の裏側や劇場の衣装、舞台装置の製作についてお話ししましょう。

[オペラ劇場とエンターテイメント]
ガルニエ宮と呼ばれるパリの国立オペラ劇場(1874年完成)は、馬蹄形のパーケット席(平土間席)をとりか組むように5人程度が座れるBox席があります。このBox席には胸に仰々しく勲章を下げフロックコートを着た厳めしい感じの担当サービス係がいますが、なかなか物を頼めると言う雰囲気ではなく、ある時、このBox席で私は全く面識のない同席の4人の女性の為に幕間に、飲み物をサーブするのに大汗をかいた事がありました。

馬蹄形にカーブしている廊下の内径側にはBox席そして、外径側にはそれぞれのBox席専用の着替え用小部屋があります。Box席への扉を開けると片側に長椅子が置いてある小さな前室があり、其の奥の分厚いカーテンの先がBox席です。オペラがつまらなくなったら何時でも後ろのスペースでごろ寝が出来る、そんな空間がBox席にはあるのです。ヴェルディのオペラ「椿姫」の主役の女性のヴィオレッタはそんな華やかな空間を舞台にした職業婦人だったと言われています。

ガルニエ宮パリ国立オペラハウス

Opera・du・operaと言うオペレッタの舞台背景では、この廊下側から見たBox席の扉が並んでおり、そこで起こる男女の密会の話ですが、このオペレッタの中で銀の器をもったボーイがBox席に出入りしていました。つまりオペラ劇場と言うのは、「聞く、見る、飲む、食べる、買う」と言う総合エンターテイメントの世界でした。

[オペラ劇場と下請制度]
丁度、ヨーロッパのオペラ隆盛と時を同じくして日本でも勧進帳の初演が1840年、歌舞伎十八番の制定など歌舞伎も隆盛期を迎え、芝居見物は庶民にとって大きな楽しみでした。江戸には幕府認可の江戸4座だけではなく「宮地芝居」の小屋掛け芝居小屋が沢山あり、芝居演目で使う鬘(かつら)、衣装、舞台装置、舞台小物は下請けが製作していました。

所がヨーロッパの芝居Systemでは、下請制度が無く、当時からオペラ劇場には衣装制作の為のお針子の部屋から小道具、大道具製作室、はては布を染色する部門まであり、現在も使われています。これは、オペラ劇場は当時の為政者であった王侯貴族が開設した謂わば官制劇場であり、日本の芝居小屋は民間の起業家によって建てられたと言う違いによるものです。この下請制度は民間企業のスリム化、リスク分散、専門業者による高度技術化が図られた結果で、これも日本の近代化の一つの支えに成ったと言えます。

また、江戸時代は庶民はドレスコードなどに縛られることなく、沢山ある芝居小屋から演目を選び、気楽に芝居や演芸を楽しみ、それが民衆の大きなエンターテイメントになっており、民衆の文化度を挙げていました。

[オペラ劇場と上演形式]
オペラの面白さは、その内容だけではなく劇場の上演形式や、劇場の広さ、演目による舞台背景などにより大きく影響を受けます。先に述べたガルニエ宮やミラノのスカラ座などのオペラ劇場では色々な演目を日替わり公演するレパートリー制と言う興行システムを採っています。歌舞伎座や宝塚劇場が同じシステムです。ロングラン公演の場合、一つの公演用の舞台装置、背景しかいりませんが、レパートリー制の劇場の場合は上演する演目の数分を用意する必要があります。ミラノのスカラ座の場合は、サイド・ステージが無い為、色々な舞台装置、背景がバックステージに林立している状態です。

これに対して新しくパリに出来たオペラ・バスチーユ(1989年完成)は、バックやサイドの舞台に加えてそれぞれの舞台の地下にの舞台があり合計で9面の舞台で、主舞台をそっくりそのまま舞台転換できます。背景を置いておく舞台の数が多ければ、幕間の時間も短くなりますし、演出家は大きな舞台装置、背景を自由に構想出来ます。ベニスのフィニーチェ劇場やウィーンのフォルクスオパーなどの小さな劇場では舞台転換で、40分以上待たされた事がありました。ヨーロッパのオペラ劇場では夕食時の幕間が1時間半位あり、観客は劇場の外のレストランに食事に行き、舞台の上では大きな舞台転換の作業をしています。

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