阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 多様性

様々な弔い(とむらい)の方法と各国のお墓

最近、弔うと言う事に対しても時代の流れで、火葬で消費される多量のエネルギーや排出される二酸化炭素、或いは土葬の為の土地の不足が問題になり、全く新しい弔いの方法が報じられ、すでに幾つかの国では承認されているそうです。

一つは「フリーズドライ方法」です。遺体を液体窒素で-196℃まで冷やしその後、粉々に粉砕すると言う方法で、既に英国やスエーデン、韓国、米国の一部の州で承認されているとの事。次の方法は遺体を絹布で包み、160℃に熱したアルカリ性溶液の中に沈め全て溶かしてしまうと言う方法です。何か異次元の話のようで、そこまでやるのかと言う言葉が出てきますが、土葬から火葬へと弔いの方法が変化した時、遺体を燃やすと言う事に対して同じような感覚を我々の先祖は持ったのかもしれません。

東北地方の葬列のシーンが映画「おくりびと」の中で出てきますが、色とりどりの細長い布の旗指物が行列を彩っていました。この色とりどりの布は、エジプト、ネパール、パキスタンでも見られます。この布は、日本では見られなくなりましたが、色々な国では魔除けとしてお墓の廻りの木に、布が朽ちるまで下がっています。只、日本のお寺が何か行事をするときに、軒下に飾る布の様々な配色はこれとそっくりです。

インドネシアの葬列では、同伴するのは男性だけで、女性は娘のみが許され、なぜか妻は許されません。同じイスラム教の国であってもエジプトでは遺体に多くの女性が、時には泣き女が雇われ、泣き叫びながら行列に墓地(エジプトでは土葬) まで同伴します。イスラム教の場合、通常、女性は、亡くなった方が彼女の夫であっても遺体に面会することはできないとされていますがしかし、最近、時にはこのルールは無視されるように成っています。

お墓も設ける国と無い国があります。インド、インドネシアやヒンドゥー教では火葬した後、遺灰や遺骨を川や海に流し、或いは遺体をガンジス川に流し墓を設けません。かってキリスト教でも遺体を教会の内部に収め、最後の審判の後に復活する時を待ち、墓は設けませんでした。

昔、日本では両墓制をとっている地方がありました。人里から離れた所に遺体を埋める「埋め墓(葬地)」と、人の住む所から近い所に「参り墓」を建て、お参り、祭祀はそこですると言う方式です。只、江戸時代辺りまでは土葬、火葬に限らず墓石、石塔は建立されなかったと言われています。

お墓の形や墓標も国によって様々な形があります。あまり石を加工していない素朴な墓から高度な加工技術を駆使した墓まで様々です。下の写真はボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓ですが、これは北欧で活躍していたバイキングの墓の形だそうです。インドネシア民族と同様に海洋民族のお墓の形は、広く世界に広がっています。オランダも古くはインドネシアにコロニーを造り、今でもその足跡をお墓の形に見る事が出来ます。

ボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓

 

インドネシアのスマトラ島の近くのシムルー島の古い墓

1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、多くの人が亡くなりお墓の面積が3倍に成ったと言われていますが、その墓地の中を歩くと全く暗さを感じません。様々な墓標には、亡くなった方の写真が墓標に刻まれていますから、どんな人が埋葬されているのかは一目瞭然です。しかし、人間死しても見栄があるのか、墓標の写真と死亡した人の年齢が異なり、男女含めて若い素敵な写真が多いようです。

写真入り墓碑が並ぶボスニアの墓地

 

ボスニアの写真入り墓碑。享年57歳のお墓には思えません

お墓に様々な花を供えると言うのは、日本も他の国も同じです。日本の花の生産の7割が菊と言われていますが、その需要を支えるのが葬式や仏壇に供える花です。墓参りでも今では洋花が広く使われますが、昔はその季節の花が添えられました。日本のお墓では、花立やお線香立てなどお墓参りに配慮した設計に成っていますが、海外の場合、花立があるお墓はそれほど多くありません。

ボスニア・ヘルツェゴビナでの墓地の前には花屋が必ずあって、華やかな色とりどりの花が店先を鮮やかに彩っています。しかし、これが全て造花。生花は全く置いていません。

ボスニア・ヘルツェゴビナの墓地の前のお花屋さん

土葬の場合は、個々人のお墓で謂わば個室ですが、日本のお墓は大部分がその家のお墓で、共同住宅の様な意味を持っています。その為、土葬の場合のお墓参りは個人の命日や、誕生日などの特定の日にお墓参りをする事に成ります。それに対して日本のお墓のようにそれぞれの家、家系と結びついているとお墓参りをお盆やお彼岸などの決まった時にするようになります。
沖縄では毎年4月にシーミー(清明祭)と言う墓参りの行事があり、家族、親戚が料理、お酒を持ち墓参りをします。この行事は、昔の洗骨の儀式の名残だと言われています。 海外の人に聞いてみると、イスラム教の場合、家族でも個人でもお墓参りに行くという習慣は無いそうです。インドネシアのクリスチャンの場合は、死後3日目、7日目、40日目とクリスマスとイースターにお墓参りをするそうです。

 

色々なお葬式の風習

東日本大震災で亡くなられた方の土葬が新聞で報じられ又、最近、「直葬(ちょくそう)」(臨終後、通夜や葬儀をせずに火葬場で見送る形式の葬儀)や千の風にのって「散骨」する等、新しい弔いの形が話題に成っています。また、国際テロ組織指導者のオサマ・ビンラディン容疑者の遺体が水葬され、イスラム教の弔い儀式と違うと言う事も話題に成りました。この稿では、人を弔う形や意味についてお話ししたいと思います。

尚、この稿では、弔いに関連する様々な事を浅薄な知識で書いておりますが、これは私が海外の様々な国を廻った時に見聞きした物を纏めたもので学術的に調べた物ではありませんのでその点をお断りしておきます。

お葬式の方法は、その国の風土や昔からのしきたり、宗教などを反映して様々です。 日本では亡くなったその夜に「通夜」を行います。この「通夜」と言うのは、殯(もがり)の風習の残りと言われています。殯は古代に行われていた貴人を本葬前に仮に祀る葬式儀礼で長い間、仮安置する事で遺体の腐敗、白骨化の変化から死を確認すると言う意味がありました。古代の日本や韓国では1年、時には3年以上も殯の儀礼が続いた事があったそうです。 殯や通夜と言う風習は、仏教だけではなく、神道やキリスト教でも似たような儀式があり、亡くなった人との別れの時を大切に思う人の気持ちから自然に生まれたのでしょう。

昔、インドネシアのジャワ島などでは石を井桁に積んだ石室に遺体を安置し、鳥や昆虫、腐敗菌などにより白骨化させ、1年後に親戚一同が集まり、残った骨を川で洗い清め、壺に入れて石室の下にある墓に納めると言う「洗骨」の風習がありました。この風習は、海洋民族であるインドネシア人の広範囲な移動に伴いマダガスカル島や沖縄まで広がっていました。沖縄の古いお墓は、納骨をする部屋の前に広い場所があり、古くはここに遺体を安置し、殯から洗骨までの儀式を行っていたそうです。

インドネシアの王の墓、塔の間の風がふき抜ける所で殯の儀式が行われた。

「火葬」と言う新しい弔いの形が出来て、殯や洗骨と言う風習も無くなっています。現在、インドネシアでも火葬が一般的になり、高温多湿の気候の中で腐敗を防ぎ衛生面に配慮し『人が死去するとその日の太陽が沈む前に火葬する』と言うように風習が変化してきています。火葬は沢山の薪や燃えにくい遺体を燃やすと言う技術が必要で、日本ではこの風習は、近代まで一般的ではありませんでした。しかし、仏教の経典の中に『喜見菩薩は、法華経と如来を供養するためにご自身の身を捧げようと決意し、体に火をつけて1200年燃えつづけた。』との記述があり仏教徒の間では火葬の風習は根付きました。

明治政府は明治6年(1873年)に神仏分離令に関連して火葬禁止令を布告しましたが、仏教徒からの反発と衛生面の問題から2年後の明治8年にこの火葬禁止令を廃止しています。

 

ラマダンの時の神への帰依と食事

兎に角、Ramadanはアラーに対してそれぞれの信仰の念を伝える期間ですから、昼間の水や食べ物から、夜の欲望まで全て控えて、その信仰の念をアラーに伝えます。エジプトの女性達は概してクレオパトラ並に化粧は非常に濃いのが普通です。(実際にクレオパトラを見たわけではなく、エリザベステーラーのクレオパトラからの印象です。)

私の事務所の女性達も飾ると言う欲望を抑えてRamadanのときは全くのすっぴん。朝、会った時は一瞬別人かと思い、それから病気なのと聞いたほどにその変化は劇的でした。

エジプトのラマダンの時でない女性

私がPakistanで仕事をしていた所は、バルチスタン州(以前は北西辺境州と言いました。)のBattagramと言う片田舎の町ですが、通常と違い八百屋やお菓子屋の前にはデーツ(ナツメヤシの実でラマダンの時に必ず食べる物)が山のように盛り上げて売っており、食べ物屋と言う食べ物屋には溢れるほど食料品が山積みになっています。ラマダンのときに人口が飛躍的に増加するわけでもなく、一人当たりの食物摂取量が何倍にもなるわけではありませんので、山のように盛り上げた食料品は最終的には生ごみとなって廃棄されます。

私がエジプトで生活していた時、ザバリンというごみ収集の人たちの村の再開発を手伝ったことが有りました。その時、ラマダンの時は、豚のえさとしては処理しきれないくらいの生ごみが出ると言っておりました。

信仰と言うのは常にある面での何かの犠牲或いは無駄と言うものを要求しますが、ラマダンが始まると色々と地球と言う単位でも考えさせられます。

ラマダン明けの日の街中の喧騒

ラマダンはイスラム暦の9月を指しますが、イスラム暦は、明治時代以前の日本と同じ陰暦で、1年が354日間で太陽暦の365日より11日短い暦です。その為、毎年11日ずつ始まりが早くなります。冬至に近い季節のラマダンは日の出から日没までは短いので、この季節のラマダンは楽です。しかし、今年のように夏至に近い時期のラマダンは断食時間が長く大変です。私もエジプトに住んでいた時、イスラム教徒ではありませんが断食をした事がありました。水を飲まない為、慣れる迄の1週間ほどの期間は頭痛に悩まされます。

もし、周りにイスラム教の方がおられたら、神への帰依と言う行為をしていると言う事へのご理解をお願いいたします。

 

イスラム教の多様性とラマダンの時の生活

今年(2011年)も8月1日から8月22日までイスラム諸国ではラマダン(断食期間)に入ります。

多くの人は、世界に広がっているイスラム教をどこの国でも変わらない単一で普遍の思想と考えているのではないでしょうか。確かに信じているコーランと言う聖典は同じですが国によって、人々の生活の中に現れるものは、全く異なります。そんな生活の中に現れるイスラム教についてお話いたします。

生活の話に入る前に、現在のイスラム教の大きな流れについて少しお話いたします。

現在、インターネットと言う新しい通信手段によって北アフリカ、中近東のイスラム諸国では政治的に大きく変動し、今までの経験則では先が読めない状況が生まれています。又、9.11テロ以降、残念なことにサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」が現実味を帯び、宗教間の対立のニュースが世界を駆け巡る様に成っています。特にキリスト教とイスラム教の間では、人口・移民問題や「近代化、脱西欧化」やナショナリズムの問題を含み、感情的な衝突が報道されています。最近、平和で安全と思われていたノルウェーで発生した連続テロ事件でも『反イスラム』の文書が犯人から出ていたとの報道がありました。現在、多くのイスラム諸国の経済的発展により、コーランの教えの一つである喜捨により集まった使い道が特定されない莫大なお金が世界を掛け周り、世界連邦の様な考え方も生まれています。

今、この様な大きなイスラム諸国のうねりについては、その背後にうごめく大国の意図を含め、最近出版された「革命と独裁のアラブ」(ダイヤモンド社、佐々木良昭著)でグローバルな視点から詳しく述べられていますので是非一読されることをお勧めします。

私はNPO日本イスラム連盟と言う団体で、イスラム諸国と言う一般の方々の理解から遠い国々と日本とを繋げる活動をしておりました。このNPO日本イスラム連盟を主宰していた佐々木良昭氏が毎日のように uploadしている「中東TODAY」というBlogがあります。イスラム諸国の大きなうねりについてご興味がある方は是非、この「中東TODAY」(blog.canpan.info)を覗いてみてください。殆ど毎日、最新情報とその分析をお届けしています。(2018/08/13現在No.5199号掲載)

さて、ラマダンですがその正確な開始日や終わる日は、イスラム教の高僧が月を見て判断するので国により前後します。ラマダンは言ってみれば日本のお盆のようなもので、遠くの親戚や知人たちが夜毎、集まり飲んだり(アルコール類はありません。)食べたり。どのイスラム教国でも砂糖、肉を含め全ての食品の消費量が2倍から3倍に跳ね上がります。エジプトでは砂糖の消費がこの時期に6倍に成ると報道されていました。殆どのイスラム教徒は、この夜毎の宴会を待ち焦がれ昼間の断食に耐えているのでしょう。特に子供たちは夜遅くまで遊べますし、お小遣いや新しい洋服を着せて貰って大喜びです。テレビ番組もラマダン期間は特別編成の番組を組み、夜通し番組を流しています。

兎に角、ラマダンと言うのは1カ月続く一種のお祭りの前夜祭みたいなものです。このラマダンが終わりますと、国によって多少異なりますが、1週間から10日間の休日が続きます。公式にはこのお休みは3日間ですが、多くの人がこの時期に纏めてお休みを取ります。多くの企業は、働いている人に対して休日前にボーナスを払いますので、現地の建設会社はこの休日前に工事代金の入金を要求してきます。

しかし、このラマダン期間の職場は、寝不足の集団で生産性も大幅に下がります。これが建設現場のような職場では大変な状況が生じます。夜毎の宴会で疲れ果て、睡眠不足で現場のちょっとした物陰には居眠りする労務者がごろごろ、うっかりすると躓くことにもなりかねません。企業によって異なりますが、建設現場の勤務時間は朝の6時から昼過ぎの1時までで、勿論昼休みも昼食時間もありません。

建設現場のように時間に追われる職場では、午後1時から夕方のイフタール(日没時の食事)の後のお祈り時間まで休み、それから仕事を再開し午前2時位まで作業を行うと言う特別作業時間が組まれ、何とか現場の遅れが出ないようにしています。

朝、陽が昇ってから沈むまで飲まず食わずですから、誰しもその日が沈んで食事をして良いと言う合図を待ち受けています。ですからこのイフタール前に車に乗るのは実に危険です。誰しもイフタールの時刻に間に合わせようと、スピードを出して帰宅を急ぎます。このラマダン時期にイスラム諸国に居ると何度も、車の運転手に『ラマダン期間に毎年30回近くもあるイフタールとお前の命とどちらが大切なんだ』と文句を言わなくてはなりません。

ラマダンの時の街の中の祈り

イフタールと言うのは、日没後の何時でも食べれると言う食事ではありません。日没時に食べる事が原則です。ですから外出時にもどこでも食べられるようなSystemが出来あがっています。

エジプトの場合、喜捨の精神が行き渡っているのか、裕福なのか理由は分かりませんが、街の中のいろいろな所に100人以上が一緒に食事ができる位の沢山のテーブルが路上に並べられ、誰でもがイフタールの食事を取ることが出来るようになっていました。私も何度かその路上のイフタールをいただいたことがありますが、イスラム教徒でなくても外国人であっても問題なく、食事が出来ます。

Pakistanでは貧しいせいか、首都イスラマバードでもそんなテーブルは出ていませんでした。ただ、田舎の幹線道路に沿った村では小さな規模でテーブルが出ており、イフタールが摂れました。パキスタンでは、殆どがモスク内でイフタールが摂れるようになっていました。

エジプトでの神輿作り騒動結末・神様の海外出張

これは、「文化のガラパゴス現象・エジプトで神輿作り」の続編です

[プロポーション]
さて、この塗装工事が完了した時点で神輿を見ると驚いた。「誰だ!仏壇を作った奴は!」と叫びたくなった。神様がおられる社(やしろ)ではなく、仏様が鎮座まします厨子なのだ。

最近の神輿は本来の機能性から離れて一種の装飾品となっており、お堂の平面寸法に対し屋根の先端でクルッと丸まっている蕨手(わらびて)から蕨手までの屋根寸法は約五倍位あり、人間の体型で言えば胸が大きく腰の部分でキュッとしまっているグラマーな女性タイプ。

それに比べ我々が参考にした神輿は、約350年の歴史がある神輿。そんな古い時代の神輿はより現実的で且つ、団地サイズの4.5畳より八畳間提供するだけの経済的な余裕もある。また、そんな時代にグラマーな女性がいるはずもなくまあ、胴長女房で我慢しようと言う事で一件落着。

グラマーで派手な現代的な神輿

[金物工事・高所恐怖症の鳳凰]
次ぎは金物工事。これは塗装工事以上に説明が困難。鳳凰(ほうおう)、瓔珞(ようらく)、長押金物(なげしかなもの)、屋根紋等々。まず日本語を英語に訳す時から困難で、ましてそれをアラビア語に翻訳するとなると全く不可能。兎に角、写真とプラモで説明し金物製作会社に発注。

日本であれば銅版の薄板を加工し、金鍍金するがエジプトではそのような事をしてくれる所もなく結局、真鍮板の薄板を打って加工する事に成った。真鍮板は固いので打ってもなかなか曲線が出ず鳳凰の胴はやせ細り、その羽は高所恐怖症で突っ張り、上下に揺らしても羽は固まったまま。これも諦念と言う解決策で一件落着。

[飾り付け]
神輿にはその屋根の天辺から担ぎ棒まで太い飾り紐が張られている。その全長9.5mの紐を、組み紐器を使って作ろうと考え、デパートの手芸コーナーに行ったが直径3㎝の紐を造るのは無理と判り、これは購入。ついでに扉の前に付ける鏡と鈴、紐飾りなどを購入し、飾り物も一件落着。神輿の上に付ける駒札の文字を東京にいるPOPの専門家に新勘亭文字で書いてもらい、それを年賀状の版画よろしく彫刻刀で彫りエナメルを流し込んで駒札も完成。

[お札・神様の海外出張]
神輿は神様の乗り物ですから担ぐ前に、ご神体または御霊代(みたましろ)に代わる御札を収めなければならない。東京に出張した際、神田明神に行き、お札を貰おうとしたがこれがなかなかの難しさ。神輿にお札を収める際に、神様が神輿にお移りになる儀式が必要との事。

神輿をもって来れないか?(地球半周どうやって担いでくるんか?)、神社は無いのか?(有ればこんなとこまでくるか。モスクは有るがいいのか?)等々。お札所では話が付かず社務所で侃々謂々。結局、「お札を長い間神輿の中に入れた儘にしないこと。」「祭りが終わったら御札は燃やす事。」「担ぐ前に毎回お札を貰いにくること。」などの条件が付いてやっとお札を貰った。しかし、今のグローバル化の世の中、神様も海外出張に対してもう少しフレキシブルでないと世の中に遅れるのではないかと思った次第。

[完成・家鴨から白鳥に変身]
綱を張り、駒札を付け、鈴を付け、鏡を飾り…すると、ああ!何と!!あひるが白鳥に変わったではないか!もう、目の前にあるのは胴太の仏壇ではなく力強い神輿その物。今は神輿の上の鳳凰も高所での恐怖心も薄れ心なしか強くはばたいて見える。 この神輿は今もエジプトにある日本大使館の領事部のロビーを飾っている。

完成した神輿

文化のガラパゴス現象・エジプトで神輿作り

文化のガラパゴス現象と言う言葉をご存知でしょうか。これは、文化は発祥した所から遠く離れた辺境の地では純粋な形で残ると言う意味です。ローマ時代に使われていたラテン語は、ローマの覇権の拡張と共にヨーロッパの広い地域に広まり、キリスト教の教義を語る言葉として使われましたが、ドイツのラテン語はイタリアで使われるラテン語に比べ、より古い形で残っているそうです。日本語を話すブラジルの人の中に、素晴らしく綺麗で丁寧な日本語を話す人がいますがこれも戦後、ブラジルに移民した人々が残した日本語文化を純粋な形で継承した結果なのでしょう。

故国から遠く離れて生活する人々は、そのDNAに刷り込まれた故郷の文化を懐かしみながら再現しようとします。ここで話しする事は、エジプトと言う日本から遠く離れた地で日本の祭りを懐かしみ、神輿を作成したと言う文化のガラパゴス現象の一つの記録です。

エジプトのカイロ市内のマリオットホテルで行われた日本の祭

[発端・獅子頭から神輿に]
私が日本の建設会社のエジプト支店に勤めていた時の事です。エジプト日本人会では、正月に獅子舞を披露していましたが、その獅子頭は貧相な段ボール製。同僚と「あの獅子頭、何とかならないかね? 伝統工芸品だから多分、二百万円位はする。写真で撮ってくれば、木を加工して出来るかも!」と言うのが神輿製作の発端でした。

日本に出張した際、浅草の創業文久元年、宮内庁御用達と言う店を訪ねると、在るわ!在るわ!大小様々な獅子頭の行列。(この時始めて獅子頭に雌雄が在るのを知りました。) 値段はと見れば、確かに頭に15とか20とかの数字の後に、ゼロが並んでおり、想像通りかと思いながらスパイもどきに隠し撮り。(この店内は全て撮影禁止)

隠し撮りも終って横に並んでいる神輿の値段を見ると、大体1500万円から4000万円。店を出る前、見納めにともう一度、獅子頭の値段を見ると神輿より二つもゼロが少ない。それではと勇んで購入し、これで獅子頭の件は一件落着。さて、獅子頭を作る必要が無くなるとがぜんほしくなるのが神輿。これは何度見ても値段のゼロは減らない。

[資料集め・プラモデルと実物調査]
その後、獅子頭を収めた箱を抱えて浅草の松屋デパートのおもちゃ売り場に一直線。そこで8000円也の神輿のプラモデルを購入。(これを元に神輿を作ろうと言う大胆な発想。) さてエジプトでこのプラモを前にして、寺社建築の経験が全くない日本人の大工さんとコンクリートしか知らない建築技術者で侃々諤々。そして「何とか作れるんじゃないの。」と大胆不敵な結論。しかし、大胆とは言えプラモだけでは何とも心細い。そこで大工さんが日本へ一時帰国の際、氏の郷里の日田市の山の奥の奥に在る由緒ある大原神社の神輿を調査。渋る宮司を説得し、寸法を取り、写真撮影。さて、これで何とか資料は集まり制作開始。

[制作方針・日本の技術移転]
先の浅草の老舗には神輿の部品と言う部品、全て売っているが、それを買っていたのでは直ぐにウン百万円になってしまう。大企業とは言え地の果ての末端組織でそんなことに金を出しては首が飛ぶ。 そこで考えたのがOJT(オンザジョブトレーニン)。全て現地生産し、エジプトの大工さんに伝統的な木造建築のノウハウと日本的な道具の使用方法、日本的な金物の細工について教えるという理由付けをして制作開始。

[木工事]
日本人の大工さんの下にエジプ人大工さんを5名配置し、材料は台輪と羽目板部分にスエーデン産の松材を使い他は全てエジプト産ブナ材を使用した。

まず、プラモと実測資料を元に日本人の大工さんが部品を一つ作り、それをエジプト人大工さんが作成すると言うステップで造って行った。屋根の出を支える枡組み、垂木の部品だけでも200以上もある。2月に着工以来5か月間掛って木工事が完成。次ぎは塗装工事。

[塗装工事]
神輿はとにかく派手がいい。金ぴかで、赤や茶が在ったり、螺鈿があったり。勝手にイメージしていたが調べるとやはり原則は在った。

本来、神輿の色は枡組から屋根に掛けては大体金色に塗装され、屋根は黒漆か茶系統の螺細塗装されるのが普通。しかし、エジプトでは螺鈿も漆もなく、まして細かい枡組の部分などで塗り分けを要求したら折角、作った神輿を台無しにされる。結局、以前担いだ事があるカラス神輿に似せ鳥居、欄干以外は全く真っ黒に塗装する事に決定。塗料は何とか漆の感じに見え、長期の耐候性、耐水性を考えウレタン塗料4回塗りとした。下地、塗装、水研ぎの工程を繰り返し塗装工程の完了。

 

日本の血についての考え方の変化

この稿は、前稿「日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方」の続きとして書きました。

さて、日本でも古くは生贄の儀式があり、今に残る巨石の中には生贄の血を流したという説がある溝が残るものもあります。『日本書紀』には、642年に牛馬を生贄にしたと言う記録があり、実際に生贄の牛の頭骨が出土しています。又、日本神話では、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄として女神である奇稲田姫(クシナダヒメ)が奉げられようとした時、素戔男尊(スサノオノミコト)がオロチを退治し、奇稲田姫と結ばれると言う話がありますが、これは生贄の行事を廃止させたことを神話化したとも言われています。

生贄の儀式に使われたという説もある石

『古事記』の中で宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚した日本武尊(ヤマトタケル)が、宴席でミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついてるのに気づいて、「襲(おすひ)に裾に 月立ちにけり」と月経を新月になぞらえた歌をよみ、それに対してミヤズヒメは「あなたを待ちくたびれて月も上ってしまった」といった意味の歌をさらりとよみ返しています。さらにこのあと二人は褥を共にもしています。(襲(おすひ)は、頭から被って衣類の上を覆うもの。)

おすひを着た巫女の埴輪

日本の古い時代では、「血」その物が不浄と言う考えはありませんでした。民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、一時的な穢れに過ぎず、その時々にお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできました。しかし、女性を不浄のものと見なす考え方を仏教が持ち込み、その経典では「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(『仏本行集経』「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(『相応部経典』)など、血と母性を穢れとし、仏教は女性の本性を救済しがたい不浄、穢れと見る存在に変質させてしまいました。

死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々はヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入しました。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がって行きました。

この様に日本では、仏教伝来により「血」に対する考え方は変化して行きましたが、世界の国々でも、その国の神話や宗教などによりそれぞれ違った考え方をしており、他の国を理解しようとする際には、一つの基準では計れない多様性に対する理解が必要だと感じています。

日本・エジプト・インドネシアでの、血に対する考え方

タブー(Taboo)と言う言葉があります。「社会生活の中で何をしてはならない」と言う行動を規制する規範を表しますが、元々はポリネシア語のTabuが語源で、ジェームス・クックが、その旅行記でポリネシアの風習を紹介する際に使い広まった言葉で、日本では「禁忌(きんき)」と訳されています。

この禁忌の中に「血」と言う物もあげられます。しかし、この「血」は時には死との繋がりから「穢れ(けがれ)」として忌避され、時には「血の繋がり」や「子孫繁栄・生命力」など生命を象徴し、日本語としても単に「禁忌」の意味だけではなく反対の「好ましい物・清浄」と言う意味も持ち両義性があります。世界の国々でも「血」についての考え方は様々です。

最後の晩餐

キリスト教では、イエスの最後の晩餐での「パンとワイン」を「肉と血」になぞらえていて、我々日本人とは違った思いを「血」について持っています。

パンとワイン・肉と血

今から20年以上前、私がエジプトに住んでいた際、借りていたアパートの部屋の模様替えの為に大きな本棚を動かした時、丁度本棚のうしろの壁に茶色の手の痕が無数についていました。会社のスタッフに聞くと、オーナーがその部屋が災難にも会わず使い続けられるようにと、生贄の血を壁につけたものとの事。「生贄の血と言うのは何なんだ?」と聞くと、通常は羊か牛との事でしたが、何か気味が悪く、模様替えは中止。

いすゞ自動車とGMとのエジプト合弁会社の工場が完成し、1号車がラインから出てきた際に、その車体全体も真っ赤な手形で覆われていました。これも生贄の牛の血でした。

エジプトの首都カイロは、エジプト4000年の歴史を展示するカイロ博物館でも有名ですが、スエズ運河の開通を祝って1869年にカイロ・オペラハウスが作られた事でも有名です。それ以来、カイロは中近東、アフリカでの音楽文化の中心となりましたが、残念ながら1971年に焼失してしまいました。1988年に日本から開発援助の一環として新しいオペラハウスが贈られました。当時、ヨーロッパ諸国では開発援助でオペラハウスを贈ったと言う事で日本の文化度を高く評価していました。

さて、この日本の文化度の高さを示すオペラハウスの地鎮祭での出来事です。建設事務所の脇の空き地に1頭の大きな牛が連れてこられ、イスラム教の導師がコーランを牛の前で唱え、すぐさま牛の頸動脈が切られると、牛は徐々に前足を折り、跪いて横倒しに成って行きました。廻りは血だらけで、私が見たのはそこまでで、事務所に入ってしまいました。暫くして、秘書の女性が一緒に写真を撮ろうと呼びに来て外に出てみると、事務所の女性達が、血が滴る牛の首の角をむんずと掴み、私と一緒に写真を撮ろうと並んでいました。

日本的な感覚では、見るもおぞましいと言う所ですが、この頃のエジプトでは動物の屠殺を見ると言うのはそれほど稀な事ではありませんでした。ラマダン明けの休暇の前には、家の前の道路で羊を殺して、皮をはぐと言う血だらけの作業が当たり前のように見られました。さすがに今ではあまりにも残酷と言う批判の為か、公衆が見る事が出来る道路では禁止に成りましたが、エジプトの人々にとっては動物の血を見たり、触ったりと言う事は、日本的な穢れ(けがれ)と言う事とは結びつきません。動物を殺し、その捧げられた尊い命の血によって災いから守られると言う感覚です。

エジプトと同じ様に国民の大部分がイスラム教徒であるインドネシアでは、この「血」に対する感覚が全く違います。プロジェクトの開始、完成の時に、牛、鶏、羊などを殺してその成功を祈願したり、祝ったりすることはエジプトと同じですが、その血に触ることは「穢れ」となっており、牛や羊などを殺した際には、その首は土に埋めています。

このように、同じ宗教の国であっても禁忌というものに対する考え方は、全く正反対です。何が禁忌というものの基本的条件となっているのでしょうか。宗教ではなく、色々な要素、歴史が組み合わされてその国々、その民族の一般的な常識のようになるのでしょう。

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