阿寒平太の世界雑記

World notebook by Akanbehda

カテゴリー: 海外 Page 2 of 4

マグマティ川に架かる珍しい産業遺産の橋

さて、前稿のマグマティ川がまだまだ清く澄んでいた時代に掛かった素晴らしい橋の話です。ヒマラヤ山脈もカトマンズ市の周りの山も、はるか昔に海から隆起した泥岩、頁岩、砂岩、石灰岩などから成る変性岩の層に覆われており、嘗てマグマティ川が刻んだ幾つものの洞窟や峡谷があります。その洞窟群公園(場所名はChovar Gorge) のすぐそばに実に優美な姿の吊り橋がマグマティ川に掛っていました。もともとつり橋は構造的に無駄のない架構で綺麗な形をしているのですが、此のつり橋は綺麗であると同時に風格がありました。

Chundra Gorge Bridge

今は通れませんが、観光年2011年の時は下の写真の様に人を通したようです。

通行時のChovar Gorge bridge

橋柱に銘板がありました。製作者はスコットランド・アバディーンのLouis Harper AMI.C.E。橋の名前はChundra Bridge、建設年は1903年6月、橋を掛けた人は大佐 Kumar Nursingh Rana Bahadur C.E.の監理のもとにネパール政府の技術者と記載されています。

橋製作者銘盤

橋施行者銘盤

建設管理者名の最後についているC.E.は多分、Chief Engineerの略だと思います。Kumar Nursingh Rana Bahadurは、ラナ家(Rana)の出身の誰かだと思われます。当時は、1846年の宮廷での権力闘争を利用し有力貴族を殺害し当時のラジェンドラ国王を追放して、傀儡スレンドラ国王を擁立し実権を掌握したラナ家独裁政権の時代(1846年から1951年)です。ラナ家は、江戸時代の朝廷・幕府の二重権力関係との類似性から、「ネパールの徳川幕府」と言われ、ラナ家歴代の首相は19発の礼砲で迎えられる地位に位置付けられていたとの事です。

ネパールの王家やこのラナ家には、何度も権力闘争のお家騒動がありましたが、1885年のラナ家の内紛の登場人物に、General Dhoj Nursingh Rana Bahadurという人物がいますが、Col. Kumar Nursingh Rana Bahadurも彼と血の繋がりを持つネパール軍に関係する人物でしょう。

Kumar Nursingh Rana Bahadurは、フランスのベルサイユ宮殿にも匹敵するという東洋一の宮殿(Singha Durbar これについては別の稿「アジアのベルサイユ宮殿」でお話しします。) を作った技術者としても名前が挙がっています。

さて、工学の分野で飯を食う私にとって重要な点は、製作者の方です。その当時、Louis Harperは有名なつり橋の設計者であり製作者で、製作工場を経営していました。名前の後のAMI.C.Eは、イギリス土木学会準会員(Associate Member of the Institution of Civil Engineers)の略です。彼の父親は、1880年代につり橋のパテントを取っています。Louis Harperはその当時イギリスの殆ど全てのつり橋の設計や製作を手掛けていました。しかし、彼の橋が何故、イギリスから遠く離れたこのネパールに?

ラナ家は、王家との婚姻を通じて、今でも経済面でネパールに対して大きな影響力を持っているそうです( Wikipedia)。この橋が架かった当時、東インド会社が実質的にインド全域を支配しており、ラナ家もその権力存続の為、東インド会社と密接に結びついていました。この橋が掛っている道は、東インド会社がチベットとの交易に必要な重要な通商ルートでした。多分この橋も東インド会社から依頼と言うより、命令でネパール軍の工兵隊が掛けたのでしょう。

丁度、この頃イギリスでは、銑鉄、錬鉄と言う初期的精錬から1856年の転炉の発明で、粘りがあり強く、錬鉄よりも加工し易い鋼鉄(はがね)を安定的に市場に供給していました。鋼鉄は、線路や建築構造物、造船等に使われ、当時のイギリスは鉄製品の世界の工場として重要な拠点でした。

此の橋がイギリスで製作されていた頃、日本海海戦(1905年5月27日~28日)で活躍する戦艦三笠(1902年引渡)、戦艦富士(1897年引渡)、戦艦朝日(1900年引渡)がイギリスの造船所で製作されていました。

戦艦春日

時代は正にアール・ヌーボーの時代、鉄骨を使って優美な建築が沢山作られた時代です。1989年のパリ万博で作られた、ガラスのドームのグラン・パレ、エッフェル塔、巨匠オットー・ワグナー設計のウィーンのカールス・プラッツ地下鉄駅(1901年)等は当時アール・ヌーボー時代の鉄骨の芸術を余すところなく表現している傑作です。しかし、そんな時代の中でケーブルを使ったつり橋は、全ての華燭を削そいだ「力学の美しさ」というような別の美しさを誇っていたと思います。しかし、此の橋は橋柱の先端には、アール・ヌーボー的な飾りをチラッと見せている、そんな風情が此の橋の風格を作っているのでしょう。

カールス・プラッツ地下鉄駅

色々と話が飛びますが、この優美な橋は、思いを色々な話題に連れて行ってくれます。

Louis Harperは、ネパールでもう一つ、今現在も使われているというSundari Footbridgeという橋を設計製作しているとの事で、探しましたが見つかりませんでした。

遠くイギリスからもたらされたこの素晴らしい産業遺産を、ネパールが大切に保存してくれる事を切に望んでやみません。

ヒンズー教の聖なる川の危機

ネパールの首都カトマンズに流れるマグマティ川は、源流から河口に至るまでヒンズー教の聖地が河岸に並ぶ聖なる川です。その川が危機に瀕しています。

ヒマラヤ山脈の南側には、山脈と並行して数本の襞(ひだ)が走っています。この襞の間にある首都カトマンズは、昔は水深500mのカトマンズ湖があった所です。そこに流れ込むマグマティ川が運んできた土砂で湖は浅くなり、ついに南側の襞が決壊し今のカトマンズ盆地が出来ました。マグマティ川はネパールを南下し、仏陀が悟りを開き、仏教の生まれた地でもあるインドのビハール州に入り、ガンジス川に合流した後バングラデシュに入り、ベンガル湾にそそいでいます。
首都カトマンズの東側、マグマティ川の河畔にはパシュパティナート(Pashupatinath)というネパール最大のヒンドゥー教寺院があり、そこには火葬場があり、遺灰はマグマティ川に流されます。マグマティ川が合流するインドのガンジス川河畔のヴァーラーナシー(Varanasi)も聖なる場所として、火葬が行われており、バングラデシュに入ると、その河畔のランガルバンドゥ(LangalBandh)もヒンドゥー教の聖地となっています。ガンジス川は上流から下流までのヒンドゥー教の聖地を結び、聖なる川とされています。

写真:Pashupatinath

しかし、カトマンズ市内を流れるマグマティ川は下水と化し、黒い川面が発する悪臭が問題になり、またインドではガンジス川の汚染は他の川の10倍にもなっていると問題になっています。何とか聖なる川を「清なる川」にするためには、「川の流れは、何ものをも飲み込み洗い流してくれる」という意識を変える事が必要なのでしょう。
また、「川を守るためには森を守らなくてはならない」というは鉄則ですが、ヒンドゥー教では「薪を焚く野焼きの火葬によって人は再生する」という思想があり、日本からの白灯油、都市ガス・液化石油ガスによる火葬の技術移転が進んでいないと言われています。ここで火葬技術と書きましたが、火葬には様々な技術が必要です。これは一例ですが、ヒンドゥー教の場合、お墓は持たず遺灰は川に流してしまいますが、日本の場合は遺骨をお骨揚げして、お墓に埋葬するという文化があるため、ただ高熱で火葬すると全て灰になってしまうので遺骨が残るように温度調整する火葬技術が必要になります。

近代的な火葬炉の裏側

人体の組成は、水分60%、タンパク質18%、脂肪18%、鉱物質3.5%、炭水化物0.5%です。ですから、燃焼させるには、灯油の場合50ℓ以上の熱カロリーが必要です。しかし、体脂肪が多い場合は、必要熱量は下がってきます。200㎏以上の体重の遺体の火葬の際に体脂肪の燃焼で炉の中の温度が上昇し過ぎて火災になった例があるそうです。

これは、Wikipediaで拾った情報ですが『2012年竣工のソウル市火葬場は、巨大な美術館を併設し、最新のデザインの外観で、徹底的に環境問題に配慮し、火葬炉も最新鋭技術によりコンピューター制御され、遺骨はロボットが運ぶなど世界でも最新の設備を誇る施設』との事です。

他の稿でも書きましたが、中国国境の海抜8000mのヒマラヤ山脈に発するネパールの川は、日本の本州の幅ほどの距離をインド国境の海抜70mまで、急流となって山を削り、谷を削り駆け下ります。如何に森を守り、川を守るかは、ネパールの100年の計と言えるでしょう。色々な意識や考え方が変わって早く、聖なる川を守ることが出来るようになればと願っています。

ネパールの動物たちは幸福度世界一!

さて、本稿は、ネパールでのうのうと暮らしている「動物の幸福度」の話です。(当人?たちに言わせるとそれなりに心配事や悩みがあるかも??)

私の見る限り、「ネパールで暮らす動物のGNH(Gross National Happiness国民全体の幸福度)は、日本の動物たちより高いことは確実です」。それではその状況を幾つかお話ししましょう。勿論、動物のGNHを判断するに当たり、言語の問題もあり、それぞれの動物への聞き取り調査は行っておりません。あくまで私の主観的な観察から、確固たる信念をもって評価したものである事をお断りしておきます。

私の場所という風情の牛たち

ネパールは、お釈迦様が生まれた国で、その仏教を生み出したヒンドゥー教の国ですので、牛(Cow或いはBull)は神聖な動物とされており、車道であろうと歩道であろうとのんびりと横たわっています。当然、彼らのGNHの項目の中で、「3.教育」を除いて全く問題はないはずです。

ただ、我々日本人からすると、大いなる差別があるのではないかと思う部分があります。肉屋に行きますと堂々と牛肉は売っているのです。それはバッファローBuffalo(アメリカの平原を闊歩しているバイソンの事ではなく、アジア各国の水田で働いている水牛)の肉です。同じウシ科にもかかわらず彼ら水牛のGNHの項目の中で1.心理的幸福や8.生活水準、9.自分の時間の使い方、などは最低でしょう。

ネパールの街のいたる所で、牛だけではなく歩道には沢山の犬がドデンと横たわっているのを見ます。チン、ポメラニアン、プードルなどそんな可愛らしい犬ではなく堂々とした犬が、『私の世界はここだ!』とばかりに歩道のど真ん中でお眠り遊ばされています。その堂々たる風情、実に立派です。

堂々と歩道に寝そべる犬たち

そこを通る大勢の人々は、そこに犬が寝ていることを当然と考え、起こしたりもしないし勿論、蹴とばすなどという失礼な真似もせず、跨いで通って行きます。犬のおやつ用の乾燥した鶏のささ身を鼻先に投げても『こんなもの食えるのか?』といった感じで匂いをかぎ、それからおもむろに食べますが、決して尻尾を振って感謝の意を表すことはしません。如何にも『お前が落としたから食べたまでだ。』という感じ。

どうも彼らの理論としては、自分の平安にたいして人間が抵触しない限りは不可侵であるという事のようです。この不可侵条約を人間も含め周りの動物が守っているのでしょうか、彼らが吠えている声を殆ど聞いたことがありません。

私が住んでいたアパートの近くの大きな寺院にたくさんの猿が住んでおり時折、アパートの庭にまで出没していました。

サルがいても我関せずの犬たち

何時も朝になると、路上で猿にかぼちゃの種などの餌を近所の人が撒いているのですがその時、幾ら沢山の猿がいようと犬は「われ関せず」で、猿を見ても吠えもしません。

日本では「犬猿の仲」という言葉が有ったり、長野県では果樹園などの猿害を防ぐため犬を飼育・訓練したりしていますし、各地に犬と猿が争う昔話があります。

多分、ネパールの犬はそんなDNAを持っていないのでしょう。人間と犬との不可侵条約は、猿と犬の間にも結ばれているのでしょう。

しかし、猿と人間との間にはどうもこの不可侵条約は結ばれていないようです。私が近くの野菜市場で買った野菜を入れたビニール袋を見事、猿に取られたことがあります。周りに居たネパール人は、「よくあるんだ。」と言っていました。だからと言って、ネパールの人は猿を駆除するという事はありません。猿と人間との間の不可侵条約は、片務的なようです。一方、市場の肉屋や魚屋が低い台や地面に広げたシートの上に、商品を並べていても犬はそれを咥えて逃げるという事はありません。

こういう状況から判断すると、猿は勝手気ままにふるまい、追い払われもせずそのGNHは、相当高そうです。一方、ネパールでは多くの犬が狂犬病にかかっていると言われていますので、彼らのGNHで2.健康、3.教育、という項目では低い評価でしょうが、他は非常に高いと思われます。

私の毎日の通勤路に米、麦などを売っている穀物屋さんが在り、前を通るときは何時も若い店主が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいます。

米屋の店先でお米を啄ばむ鳩たち

所が何時も、店先の米袋の上にはハトや、雀の位の小鳥が数羽群がり、米をついばんでいるのです。すぐそばにいる店主に聞くと、『大した量でもないから。』というおおらかな返事。

お釈迦様が生まれた国だからなのでしょうか兎に角、ネパールの人は動物全般にわたって優しく接しているのです。これが「ネパールで暮らす動物のGNHは、日本の動物たちより高いことは確実です」と述べた所以です。

 

幸福度世界一?

ネパールの子供たち

ネパールの山向こうの国ブータンが幸福度世界一と話題になりましたが、幸福度というのは、どうやって算出するのかとふと不思議に思い調べました。

この『ブータンが幸福度世界一』という文章は、全くの私の間違いでした。普通、幸福度と言うと、世界幸福度報告(英語: World Happiness Report)で述べられているものです。

この世界幸福度報告は、国連の持続可能開発ソリューションネットワークが発行する幸福度調査で、(1)GDP、(2)社会的支援(困ったときに頼ることができる親戚や友人がいるか)、(3)健康寿命、(4)人生で何をするかの選択の自由度、(5)寛容さ、(6) 政府の腐敗の6つについて調査して国際的なランキングを示しています。

因みに今年の「世界幸福デー」の3月20日に国連が発表した2018世界幸福度では、調査対象155ヵ国中、日本は54位、ブータン97位、ネパールは101位です。私が10年以上暮らしたエジプトは122位でしたが、住みやすい国なのに??

下の図がその記事に添付されていた幸福度地図ですが、これは米ギャラップ社による幸福度調査図で、国連発表の物とは異なります。やはり北米、南米の国々の幸福度が高くなっています。(と言う事は、幸福度なんてものは、気持ちの持ちようかな??しかし、政府の腐敗度も評価対象になり、その点で日本は低い評価だとか、日本の政治家は嘘などつかず、勇気をもって、しっかりしてもらいたいなー。)

世界幸福度地図

所で『ブータン云々・・』というのは、1972年にブータン国王が提唱し、ブータン王国で初めて調査され、国の政策を決めるために活用されている国民総幸福量或いは国民総幸福感の尺度「国民全体の幸福度(GNH Gross National Happiness)」です。

GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素からなる72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い決めるとの事。

因みにブータン国立研究所が2010年に行った調査では、ブータン国民の平均幸福度は6.1で、日本の6.6を下回っているのだそうです。(日本ってそんなに幸福な国だったんだ!)

日本の国内の幸福度ランキングというのも有って、一番は福井県だそうです。

共働き率が全国1位で経済的に安定し、3世代同居が多く、夫の家事・育児貢献度も高く、家庭環境が充実している福井型のライフスタイルが高評価につながった、と書かれていました。

インド亜大陸とユーラシア大陸の四つ相撲現場

私は、このユーラシア・プレートとインド亜大陸プレートが正に其の四つ相撲を取っている土俵に登って、四つに組んでいる所を見てきました。以下がその相撲観戦記です。(前稿に引き続きこれからの文章も私が書くのですから、勝手に単純な相撲モデルを使いますよ。)
現在、中国に占領されているチベット国とネパールとの間に8000m級の山々を抱えるヒマラヤ山脈が走っていますが、一部はネパール国内に入り込んで、アンナプルナ・ヒマラヤ山脈を形作っています。そのアンナプルナ・ヒマラヤ山脈の北側に広がっているのが、嘗てのムスタン(Mustang)王国です。この王国は、2008年にネパールに併合され、なくなってしまいました。
ネパールには、ダサイン(Dasain)という10日間の秋祭り休暇があります。その休暇を利用して、ムスタン(Mustang)王国の首都ローマンタン(Lo-Manthang)までトレッキングしました。(トレッキングのお話は別の項でお話しします。)
アンナプルナI(8091m)の北側に回り込むと、そこは正にムスタン王国の入り口。そこにカグベニ(Kagbeni)という村があります。そこが正に四つ相撲の土俵。チベット国境からムスタン王国を縦断しアンナプルナ山脈の裾を巡って流れるカリ・ガンダキ・ナディ(Kali-Gandaki-Nadi)河が其の四つ相撲をまざまざと見せてくれます。

上がインド亜大陸側で、下がユーラシア大陸側。・・・だと想像しています

南から押してくる地層と、北でがっしりとそれを受け止める地層が、正に四つに組んでじっと土俵中央で動かず聳え立っていました。
そこは正に悠久の時の流れの地球の歴史の中の一齣を見せてくれている場所でした。

ムスタンの地に入ると地層は水平でなだらかな丘が続いていました

それまで荒々しく立ち上がったり、斜めに歪曲したりしていた地層は、チベット語で「肥沃な平原」の意味のムスタン王国に入ると全く平らな地層を見せていました。

(※これまで読んでいただいた皆様には、全く申し訳ないのですが、この項で述べたことは、学術的な見地から記載したものではありません。私が四つ相撲の場所をこの目で見たい、こうであればいいなと思う願望が強く入って述べておりますので、ご理解のほどお願いいたします。)

 

インド亜大陸は、ひょっこりひょうたん島?

ひょっこりひょうたん島のモデルの一つになったと言われるGuamのALPAT島

『昔々、Once upon a time インド亜大陸は、アフリカ大陸の東の端を出発して、5000万年から7000万年という気の遠くなるような時を経て、7500㎞の長い旅の果てに、吸い寄せられるようにチベットの地にたどり着いた。』などと書くと、今でも我々の心の中で長い旅を続けている「ひょっこりひょうたん島」のようなイメージが浮かびます。

ご存知のように「ひょっこりひょうたん島」は、NHK総合TVで放送された人形劇番組で、1,224回の最終回で国連加盟を認められたにもかかわらず、それを断って今でもぷかぷかと漂流しています。
まッ、インド亜大陸、ひょっこりひょうたん島というのは全く私の個人的なイメージで、勿論その頃はチベットという国もありませんし、「ぷかぷかと」というイメージではないのは確かですが、こう考えると何かロマンというか楽しい夢を感じます。

ジュラ紀(1億9500万年~1億3500万年前)後期にゴンドワナ大陸がアフリカから分離し、白亜紀(1億4550万年~6550万年前)にさらにインド亜大陸がマダガスカルから分離・孤立し、北に移動しつづけ、ついにユーラシア・プレートにめりめりと衝突。その後もこの押しくら饅頭は現代まで続き、その結果できたのがヒマラヤ。現在でもこの押しくら饅頭は続いておりその結果、ヒマラヤは今でもその高さを増しつづけています。
マダガスカルは、現時点ではアフリカから500kmの距離ですが、先に離れて行ったインド亜大陸を追うように、北東に向かって移動し続けています。

この押しくら饅頭の最前線が、ネパールです。ユーラシア・プレートもインド亜大陸プレートも共に大陸型プレートで、比重が同じなため双方一歩も引かずがっちり四つ。その結果、ぶつかったあたりの筋肉が押されて盛り上がった、そこがヒマラヤです。
ユーラシア・プレートの東端にある日本列島も、太平洋プレートやフィリピン海プレートとぶつかっていますが、ユーラシア・プレートが大陸型プレートに対して、太平洋プレートとフィリピン海プレートは海洋型プレートです。この海洋型は、大陸型に比べて比重が重いので、ユーラシア・プレートの下にもぐり込もうとしています。
大陸型プレートの厚さは、100㎞位で、太平洋プレートは海の下の海嶺で湧き出ている所では10㎞位だそうですが、日本にぶつかっているあたりの厚さは70㎞位だそうです。今のところまわし充分、がっちり四つに組み時々、ユーラシア関が筋肉を震わせて何とか踏ん張っていますが、ついに太平洋関が潜り込み成功、なんていう事になると日本列島は海抜7万mの高地に。(なんていう事はないか!)
(ご専門の方からみると「何をばかなことを!」と言われるのでしょうが、素人はちょっとききかじったことで、面白い夢を見るものです。御免なさい。)
「日本沈没」という小松左京の名著がありますが、その名著の最後のエピローグの章は、『北半球の半分をおおうユーラシア大陸の東端で、いま、一頭の竜が死にかけていた。』という文章で始まり、日本列島を竜になぞらえて、火を噴きながら悶え苦しんで海に沈んでいくさまが描かれています。この部分は、実に迫力があり桃中軒雲右衛門に語ってもらいたいと思うほどです。

彼はこの名著の章ごとに日本列島のどの部分がどんな形で変化し、沈んでいくのかを計算しシミュレーション・モデル作ったそうです。その当時では珍しかった、四則演算の機能位しかできないにも拘らず数十万円もする13桁表示の計算機を購入し、それを駆使してそのシミュレーション・モデルを作ったのだそうです。しかし、9年間という長い著作期間の後、この名著が出来上がる頃には、5千円位でその計算機は買えるようになっていたそうです。しかし、すごい人が考えることは、私が考えるような単純な相撲モデルではないようです。

音楽と心の平安・安全

人の生活の中で音楽は大切で、なくてはならないものだと言われ、音楽と性犯罪率は比例していると言われています。事実、パキスタンで仕事をした時、街中で聞こえる音というのは、一日5回モスクから流れるコーランの響きだけで、殆ど音楽と言う類の音は聞けない状態でした。妻子から遠く離れて、一緒に仕事をしていた若いスタッフは「危なくて妻子を残して来られない。」と両親や姉妹の所に預けてきていました。新聞でも連日、そんな犯罪記事が出ており、其の率が多い事を報じていました。

私が働いていたパキスタンの街は、首都イスラマバードからカラコルム街道を車で6時間ほど行った「バタグラム」という「バタグラム県」の県庁所在地で、行った当初はジャズやクラシック音楽のカセットテープやCDを売る店が何軒かありました。

バタグラム県県庁所在地バタグラム

所が川向うまでタリバンが勢力を伸ばしてきた頃には、早々に店を閉めてしまい、音楽の元は全くなくなってしまいました。そうこうするうちに、一晩で外国援助機関の事務所が3か所も一度に爆破され、私も慌てて逃げだしました。これも音楽がないという結果なのかもしれません。

所が同じイスラムの国のインドネシアは、世界で一番イスラム教徒が多いと言われていますが、街だけではなく、田舎でも色々なジャンルの音楽が流れ、若者たちは色々な楽器を奏で、女性の服装は、開放的な状態ですが性犯罪は少ないと聞きました。

インドネシア・シムルー島で楽器をもって歩いている若者

仏教の声楽で「声明(しょうみょう)」というものが有ります。梵唄(ぼんばい)とも言うそうで余り抑揚の無い音が延々と続きます。16世紀頃のグレゴリア聖歌が長崎の隠れキリシタンの島で「歌おらしょ」(「おらしょ」はラテン語やポルトガル語の「祈り」と言う意味の「Oratio」)として残っていますが、この旋律は、声明ともお遍路さんの御詠歌にも良く似ています。また、エジプトで古代キリスト教と言われる「コプト教」のミサの音楽も、ボスニアヘルツェゴビナの東方正教のミサの音楽もこれによく似ていました。祈りの旋律は、基本的には同じルーツの音階を使っているのでしょうか?

人の猛々しい心を平安に導く宗教と音楽は深く結び付いています。このネパールには、色々な音や音楽が生活の中で息づき、人の生活を豊かにしている様な気がしてなりません。休日の朝、そんな気持で音を聞いていました。
皆さんが外国旅行でどこかの町に行ったとき、気を付けて耳を澄ませてそこに音楽が流れているか聴いてください。もし、音楽が聞こえてきたらまあ、安全と思ってください。勿論、これは私の判断基準ですが。

 

カトマンズの音

カトマンズの朝は、暗いうちから色々な小鳥のさえずりから始まります。4月に入るとすぐにカッコーの声が聞こえ始め、普段から騒々しい街の印象とは違ってやはり、山に囲まれた小さな盆地なのだなと気付かせてくれます。

5時頃に街のそこかしこから鐘の音が聞こえてきます。通勤の途中に、道の傍らにある御堂の鐘をそれぞれの人が、それぞれの思いを込めて鳴らして通り過ぎて行くのです。人によって鳴らし方も様々で、遠慮しているように弱く、一つカーンと鳴らす人もいれば、カン、カン、カン、カンと大きく何回も、まるで競輪の最終コースの様に鳴らす人も。
これは力仕事をしている男で朝、奥さんとケンカしたかな、これは若い女性かな、など一つの鐘の音が様々な場面を贈ってくれます。

アパートの近くのお堂

お堂の中の鐘

次第に物うりの声が聞こえてきます。ビールの空き瓶回収、新聞紙の回収、ごみ集め、それから野菜や果物の売り声。
昔、日本でも色々な売り声が響いていました。いい声だなーと聞き惚れる様な声もありました。その頃は、自転車の後ろの荷台に木の箱を括り付けて、肉声の売り声でした。まさに「行商」でした。今では小型トラックに無粋なスピーカーの売り声。可愛らしい売り声に、つい声をかけると、車から降りてきたのは私と同じようなむさくるしい爺。いやですねー、売り声の詐欺は!

子供の頃に住んでいた九州の博多の朝は、必ず「おきゅうと~、おきゅうと!」という売り声で始まりました。「おきゅと」というのは、海藻色をした味は正に「ところてん」で博多のソールフードとも言われるものです。獲れたての魚も一緒に行商し、その場でさばいてくれるので冷蔵庫などない時代でしたが、新鮮な魚を毎日食べることが出来ました。何かそんなノスタルジア(「思郷病」森鴎外はこんな当て字をしていました。)に浸っていますと、このカトマンズの街の様々な売り声が大切に思えて、何時までも続いてくれたら思ってしまいます。
そのうちにアパートの北側にあるサッカー場の周辺を走るサッカー選手チームの声が聞こえ、次第に街のざわめきが大きくなります。街が「あー、良く寝た。さあ、動き始めるか!」と言っているように。
そのサッカー場でサッカーやクリケットの試合や、特に音楽関係のイベントが有る時は、色々な音楽が流れて来ます。殆どが西洋音楽、それも時にはジャズ、時にはポップス。どうもネパール特有の民族音楽については寡聞にして知りませんが、それと思しきものはあまり流れてきません。しかし、音楽が流れて来ると言うのは何か心が和んで休まります。

此の国では色々な所に細かな音や音楽が有ります。あまり大型の開発プロジェクトがないせいか、「槌音高き建設の響き」等と言う無粋で、遠慮会釈もない建設工事の音もしません。勿論、市街電車や鉄道の騒音もしませんが、一つだけ嫌な音が混じります。ピーピー、プープーと車やバイクが小癪な感じで泣き叫ぶ。
ネパールの運転手の技というか、手並みは素晴らしく、車間5㎝(いや、前後ではなく横の車との間隔ですよ。) でも何の躊躇もせず入り込んできます。しかしなんで、あんなにピーピー、プープー警笛を鳴らすのか不思議に思います。日本であんなに黒塗りベンツに向かって鳴らしたら、すぐにヤクザさんにきついお仕置きを受けるね、多分。
将来、電気自動運転の車ばかりになると、警笛などというものはいらなくなるので全く無音、これも何か薄気味悪いね。多分、そのときは鳥の囀りのように、ピーチク・パーチク、車同士が情報交換するかもしれないね。

 

ネパールの国勢調査で分かる人々の生活

レンガとコンクリートの建物

前稿で扱いましたネパールの国勢調査項目には我々、日本人にはなじみのない項目が並んでいます。
まず、建物についてですが、建物の基礎の種類(泥目地煉瓦、セメント目地煉瓦、杭使用RCC、木杭等)、外壁の種類を質問している項目があります。これは地域防災と耐震技術を担当していた筆者には実に有効な情報でした。只、公表されている単位がward(日本で言うと区)レベルで集計されており、もしその下のcommunity(日本で言うと町)レベルであればより詳しく実像に迫れるのだが、と少し残念でした。


次に日本と違う項目は、飲み水についての質問です。水道水、井戸水、雨水、河水などの項目に分かれ、井戸水の項では、蓋をしている井戸か、カバーをしていない井戸か細かく尋ねています。はるか昔から国を統治する者にとって民に十分な飲み水を与えるという事は国の安定のためにも、公衆衛生の為にも重要な調査項目です。(昔、ネパールの治世者がどうやって民衆に水を与えていたのかは、他の項でお知らせします。) ただ、私たち日本人は余りにも便利な環境の中で生活しているために、こんな単純で基本的な最も重要な項目を忘れがちです。

次に日本と異なる点は、料理に使う燃料の種別を尋ねています。薪、石油、プロパンガスなどの種別を尋ねていますが、少し変わっている物として、「牛の糞」や「その他」という項目もあります。ネパールだけでなく隣国のパキスタンでも、田舎に行くと燃料にするため丸く平らにした牛の糞を、石の上で乾かしているのをよく見かけました。「その他」という項目には、太陽熱利用も含まれますが、日本で考えるような太陽熱を電気に替えるというシステムではありません。これは、パラボラ・アンテナのような形の集光機で熱源を得て、煮炊きにその熱を使うものです。実に単純な仕組みで光が集まる真ん中に鋳鉄製の鍋を置いて直接温める仕組みでしたが意外に早くお湯が沸くそうです。

太陽熱調理器。集光機の中央に鍋が置かれているだけです。

燃料政策に失敗したアフリカ大陸の東側にあるマダガスカルでは、大部分の樹木が薪に使われ、丸裸になった土地や畑の土は川に流れ、川の河床が高くなり、水田地帯が沼に替わり、食料の米の生産量も落ちました。燃料問題は、国土を維持していくうえで重要な問題です。
ネパールの国土の幅は、ほぼ日本の本州と同じくらいですがネパールの場合、北の中国国境から南のインド国境まで最大標高差は8,000m以上あります。如何に国土全体の表土を保つための樹木保全が必要なのか、わかる気がします。

日本の国勢調査の項目は、世帯の人数、生年月、国籍や仕事の従事の有無、従事地や通学地などがありますが、住居については賃貸か持ち家か或いは一戸建てか共同住宅か、床面積などを訊いています。また、5年前にはどこに住んでいたかを尋ねる項目もあります。これらの項目を見ていますと、日本の国土の中で、人がどのように生活し、移動しているのかをダイナミックに把握しようという意図が判ってきます。
しかし、いま社会的に問題になっている女性の社会進出や、労働力の問題、所得格差、貧困の問題などをより細かく把握し、日本の将来を見据えた方針を確立のためには、国勢調査項目は見直す時期なのかもしれません。日本の政府が莫大な借金を抱えた今、従来の方法や考え方に疑問を持たなければならない時なのではないでしょうか。特に日本では、10年毎の国勢調査以外に5年毎にも調査(この調査の調査項目は17項目です。) をしていますので、より細かく実情の把握が出来るシステムになっています。
ネパールでも日本でも、国勢調査の項目の中に、都市部の一所帯の家族人数を調べている項目があります。日本の場合、全国平均で2.54人、それに対してネパールの数字は4.32人。最近、ネパールでも小家族化が進んでいると言われていますが、まだまだ何か昔ながらの家族の存在がある様で、ホッとしました。

兎に角、この国勢調査の数字を読んで行くと、私の下衆の勘繰りも満足させてくれますし、色々と興味が尽きません。また、色々と日本やそれ以外の国との比較をやり始めると面白い物が次々と出てきそうです。今後も、ネパールの国勢調査結果を読み解きながら面白い事が見つかりましたら、この「阿寒平太の世界雑記」に書いていきます。

 

ネパールの結婚年齢

私がネパールでの活動期間中に借りていたアパートの台所の食卓の上に、小さな可愛い人形が置かれていました。多分、以前の住人が置いて行ったものなのでしょう。幼い花嫁姿の女の子とタキシードの裾を捲りあげて、腕まくりして女の子を守る様に傍に付き添っている幼い花婿の男の子。其の様子が微笑ましく机の上に飾っておりましたが、ある時から「可哀想になあー」と見るようになってしまいました。なぜか・・・?

食卓の上に会った可愛い陶器人形

ネパールでは、2011年6月に10年に一度の国勢調査が実施されました。JICAでは、この国勢調査の実施や分析の専門家を派遣して支援しました。私のアパートの下階に、私の先輩でJICAのシニア海外ボランティアとして統計局に派遣され、このシステム作りから分析作業を支援しているK氏が住んでおり、この国勢調査について色々と伺いました。(彼は、長野オリンピックの運営コンピューターシステムを作った方だそうですが、JICAというのはすごい人を見つけてくるものですね。)
国勢調査については、国連から調査項目の指針は出ているのですが、国によって其の調査内容もその数も違っています。日本は22項目、アメリカは10項目、イギリスは40項目、そしてこのネパールは、27項目。国によって調査項目の数は大きく異なっていますし、その調査内容も国によって大きく異なっています。

このネパールの国勢調査の中に、日本でそんな質問をしようものなら顰蹙(ひんしゅく)をかいそうな項目があります。ズバリ、最初に結婚した年齢を聞いています。婚活と言う言葉が出来、結婚年齢が上昇している日本では、なかなか聞けない質問の様な気がしますが、同時にその質問の集計結果が統計的にどんな意味を持つのだろうかと、考えてしまいます。(多分、人口の将来予測かな?そんな訳ないよなー。)

ネパールの国勢調査の初婚年齢調査結果表

さて、その結果ですが、10歳未満から5歳毎に分けられ50歳以上まで、男性、女性それぞれの初婚年齢ごとの人数が記載されています。なんと10歳未満で結婚した男子は22,865人、女子は115,150人。初婚年齢が10歳から14歳までの男女合計は138,015人、10歳以下を含めると、既婚者の11.3%の男女が14歳以下で結婚しているのです。それも圧倒的に都市部より田舎の方が多いのです。(ちなみに初婚年齢50歳以上の男子は、3,480人、女子は1,606人と記載されています。)

正にこの微笑ましかった人形が現実味を持ち「可哀想になー!」となった次第。そのような目でこの人形を見ると、子供たちの目が笑っていないし、如何にも『まーだ!疲れちゃったよー、もう遊びに行ってもいいでしょー。』と言っている様にも思えます。

其の他、未婚者人数、一回或いは複数回結婚しているそれぞれの人数、再婚者人数、男女寡(やもめ)人数、離婚者人数が記録されています。しかし、質問された方は『私の勝手でしょう!』と言いたくなるだろうなー。

 

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