連日、ウクライナの色々な都市の破壊された様子が報道される。そこには破壊された建物がこれでもかこれでもかと容赦なく映し出されています。

同じような光景を昔、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナでも見ました。チトー大統領が三つの宗教と三つの民族の融和を図り、宗教を超え民族の壁を乗り越えて、一つの国として様々な人が当たり前のように生活していた。それが、何かの小さなきっかけで、隣家同士の銃撃戦の中で、それぞれの家族が傷つき、次第にそれぞれの宗教、民族ごとに争い始め、大きな内戦に進んでいってしまった。

このボスニア・ヘルツェゴビナで2年ほど仕事をしたとき『時の流れ』と『同化』と言うことを特に意識しました。この時は、内戦が終わってすでに9年ぐらいたっていましたが、いたるところに見捨てられた建物が建っていました。ただ、帰る家があっても隣人を信じることが出来ないため帰れないのです。

ウクライナが1991年にロシアから独立する以前、ソ連の民族融和政策によってお隣同士で住んでいたときもありました。しかし、ロシアのウクライナ侵攻によって、大きく分類すると兄弟のような民族同士が信じられない状況になっています。ウクライナもボスニア・ヘルツェゴビナと同じように建物の残骸が累累と打ち捨てられているようになるかも知れません。

それは自然の中に自然でない建物が生まれ、その意に反して生命を絶たれ、自然がその浄化作用で自分の傷口を治していく過程は人の時の流れの速さでは測れないほどゆっくり流れていくという実感を覚えました。何時になったらこの屍は自然に帰るのだろうか、人の時間では計れない時間が必要なのではないかと。

建物がその生命を終わらせるとき、どのような儀式がふさわしいのか、全ての物に神仏が宿ると考えた昔はどうだったのか、知りたいものです。昔、井戸を埋めるときに儀式をしたのを覚えています。今は忘れ去られた解体の儀式、撤去の儀式があったのではないでしょうか。

人間の生活がほかの動物のそれと同じように自然なものと考えると、コルビジェの考えのように人間が建てる建物も、蟻が作る蟻塚やビーバーが作るダムのように自然の一部とも考えらます。最近、人間が作る建物も単に部品が処理しやすいもの、再生しやすいものと言う考えから、建物そのものが自然に同化しやすい物、自然の浄化作用に適合する物が求められるようになってきています。漁礁や鳥の住処のように人間が住まなくなった時は他の動物が住むと言う考えもするかもしれません。ボスニア・ヘルツェゴビナでも人の住まなくなった家に沢山の鳩が住んでいるのを見かけました。

自然も人間社会も異なるものをその体内に取り入れるとき、長い時間をかけてそれを異なっていないものに変えていきます。時にはそれを浄化といい、時にはそれを同化とも言い、長い時間を掛けながら確実に変化を進行させます。

人間は、民族とか国とか社会とかと言う業を背負って生きています。人間がその業という異物を自然に同化していくためにはどのくらいの時間が必要なのでしょうか???